リベラリズムの終わり? |
今日の横浜北部は、久々に曇って夕方には冷たい雨になりました。
さて、今回も以前紹介した記事の要約です。ちょっと長いのですが、その内容はかなり考えさせてくれるものです。
なぜアメリカではトランプが選出され、欧州では反EUの機運がここまで高まってきているのか、その原因をリベラル派の無理な考え方にあると分析した記事です。
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by ダミール・マルージック
2017年11月1日
「べつに私はトランプ支持者というわけではないんですよ。ただ、あなたが擁護しようとしている土台そのものすべてを、あなた自身がぶち壊しにしているんですよ」
このようなこじれた感情のおかげで、私は過去10ヶ月間において私よりもはるかに執拗にトランプ大統領に反対している人々と、無数の議論を行うはめになった。
私はワシントンDCに住んでいる。この地域に住む人々は、先の大統領選で90.9%という圧倒的な割合でヒラリー・クリントン候補に投票した。したがって、私が議論をするはめになった人々のほとんどは、私の友人や同僚たちである。
私の討論相手となった人々は、どうやら段々と自分たちが世界的な歴史の分岐点に立っており、自分たちの考える「正しいこと」と、それに対する揺るぎないコミットメントだけが世界を破滅から救える、と考えはじめているようなのだ。
もちろん私は彼らと同じく「歴史の分岐点に立っている」という点については同意するのだが、彼らとちがって、トランプ政権の誕生はそれよりはるかに大きな問題の、単なる一つの症状のあらわれでしかない、と考えている。
私の友人の主張で多いのは、「われわれの共有された価値観の問題だよ」というものであり、彼らは「トランプはその価値観を攻撃しているんだ。リベラルな民主制度が危機にさらされている。これは本当に生きるか死ぬかの状態なんだよ」と言うのだ。
ところが私の答えは、「民主制度は問題ないよ、ただしリベラリズムは、いまにも自分で喉をかき切ろうとしているんだ」というものだ。
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トランプ大統領の支持者ではなくても、このような現象に気づいていた人はいる。聡明なブルガリアの政治学者であるイヴァン・クラステフ(Ivan Krastev)が、およそ10年前の素晴らしいエッセイで、まさにこのような事態を予測していた。
「デモクラシー誌」(the Journal of Democracy )に掲載されたこのエッセイのタイトルは「リベラル・コンセンサスの奇妙な死」(The Strange Death of the Liberal Consensus)である。
その記事が発表されてからすぐ発生した金融危機(リーマンショック)の到来を予測している人はほとんどいなかったのにもかかわらず、中欧・東欧の人々はすでに選挙の面で「反乱」を起こし始めていた。
この時にクラステフが注目していたのは、当時も批判的に「ポピュリズム」と呼ばれていた現象の台頭であったが、このエッセイは現在の西洋の政治的な現実を形作っている動きを理解する上で欠かせないものである。
21世紀に入って7年間がすぎ、しかも単一通貨になってから10年もたっていないにかかわらず、現在よく知られている面々は、すでにブリュッセルのEU本部で忌み嫌われていたのだ。
ロベルト・フィツォはスロバキア首相の第一期を務めていたし、ヴィクトル・オルバーンはハンガリーで台頭中であり、カチンスキ兄弟の「法と正義」党はすでにポーランドで連立政権を率いていた。
彼らに対する非難は、まったく根拠がなかったというわけではない。フィツォの連立相手の右派たちは、集会などでハンガリア人やロマたちに対してひどいコメントを発することで悪名高かった(スロバキア国民党のヤン・スロタは1995年に「ジプシー問題」は「小さな中庭の長いムチ」で解決すべきだと述べている)。
そして「法と正義」党は現在と同様に、当時から党に忠誠な人物を名目上は中立であるべき公務員や官僚に採用しており、その民主政治に対して被害妄想的で陰謀論的なアプローチをとるなどして評判が悪い。
ところがそれを批評する当国の人々も、彼らを旧ドイツのワイマール共和国になぞらえて讃えているのだ。
クラステフがうまく述べているように、この「ワイマール解釈」の最大の問題は、その解釈そのものがまず間違っているだけでなく、明らかに自己利益を狙ったものでしかないという点だ。
「ブダペストとワルシャワの街にあふれているのは、問題の最終解決の方法を求めた相手は、機動隊ではなく、最終セールを求める落ち着かない消費者たちである」とクラステフは書いている。
市場資本主義と同様に、民主制度も健全だということだ。
ところがここで辛辣に否定されていたのは、われわれが「常識的なリベラルの世界観」とでも言うべきものであり、これは冷戦終結以降にいままで政治面では問いかけられることのなかった、一種の「ポリティカル・コレクトネス」だったのだ。
EUはある政治的な要件を、熱心に参加したがっていた中欧や東欧諸国に対する一つの参加条件として課すことになった。EUの官僚たちは「もしEUに参加したければ、制度機関をわれわれの基準にあわせて変革するだけなく、国内である種の政治的な言説を禁止せよ」と要求したのだ。
「反資本主義的な動きを封じるために、リベラルたちは反資本主義的な言説をうまく封じ込めたが、その代わりにシンボルやアイデンティティの問題に関する政治的な動きを許してしまうような空間をつくり、これによって自らの首を締めるような条件をつくりだしてしまったのだ」とクラステフは記している。
これをいいかえれば、冷戦後に勝ち誇ったリベラルたちは「リベラリズム」を道義問題にまで高めてしまい、政治的に疑問をさしはさむことさえ許されないものとしてしまったのである。
個人の権利や私有財産権、そして自由で開放された合理的な市場の代わりに、彼らはそれに同意しない人間であれば、それは非難に値する「逆行」、つまり単に「間違っている」(wrong)だけでなく「悪」(bad)であるとして、議論をすることさえ禁止してしまったのである。
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クラステフはこれを書いていた当時、禁止されていたのは「反資本主義」だけではないという点に気づいていなかったのかもしれない。たとえば「国民性」(nationaliry)や「国民文化」(national culture)という概念そのものが、長年にわたって民主政治にはあまりにも危険なものとみなされるようになっていた点だ。
もちろんこの原因の一部は、共産主義の崩壊の直後にヨーロッパの周辺部を揺るがした、血なまぐさいバルカン半島における戦いにあるのかもしれない。ところがフランク・フレディが『ポピュリズムと欧州の文化戦争』(Populism and the European Culture Wars)という洞察力にあふれる新刊で論じているように、「善なる欧州」としての歴史的な自己理解の核心にあった「国民性」というものを、彼らは正統的な概念とはみなさず、大きく拒否してしまったのである。
西欧の民主国家は、第二次世界大戦の数十年間にわたって、欧州大陸の政治からナショナリズムというものを消滅させようとして必死に働いたわけであるが、これはホロコーストに関する集合的な罪悪感をつぐなおうとしてのことであった。
たしかに欧州の人々の経済的・心理的に立ち直ろうとする努力そのものを過小評価するのは間違っている。ところがこの努力は、たしかにその傷跡を残したのだ。
1990年代における国際的な共産主義の「敗北」のおかげで、この「都合のよい敬意」は、いまやリベラリズムの勝利の最大の原因であるかのように見なされ、ますます賞賛されるようになったのだ。
ユルゲン・ハーバーマスのような政治思想家は、「国民国家は必然的にガス室へとつながるものだ」と議論しはじめ、国家を超越したEU――これはいまや世界的な普遍的プロジェクトであり、人類が原始・民族的な衝動を超越するための手段とみなされるようになった――は、人類がめざすべき唯一の道義的目標となったのである。
このような尊敬すべき「ポストナショナリズム」は、当然のように、ろくに検証されずに正当化された市場開放とあいまって論じられることになったのである。
彼らの議論に従えば、グローバル化した経済ではヨーロッパの小国はEUに主権をあけわたし、国境を開放して労働力と資本を流入させない限り競争力を持ち得ない、となるのだ。
したがって、「善なる欧州人」であるアンゲラ・メルケルやジョージ・ソロスのような人々が移民の流入――最初はEU内の労働者だが、2015年以降はシリア、北アフリカ、そしてアフガニスタンからの不幸な集団――を、ヨーロッパ文明の素晴らしさを特徴づけるものとしてみなしたことは偶然ではないのである。
フレディによれば、欧州のリベラルたちの最大の問題は、選挙民たちが自分たちのプロジェクトをあまり強く正当化できないものであると見なしていた点にあるという。
ソ連の脅威と戦後経済の復活は数十年間にわたって彼らをつなぎとめる役割を証明してきたと言えるが、1970年代の経済危機が強まってくると、EUの最も熱心な信奉者たちにさえ、このような状態は長期的に続けられないことが明らかになってきた。
ところがそれから40年以上たってから、このような鋭い洞察も、無血で手に入れたEUという国境を越えたアイデンティティをなげやりなPR によって広める程度のことしかできなかったのである。
2011年になると、ジャック・デロアのような大御所でさえ、ユダヤ・キリスト教的な伝統をかくしたこの壮大な欧州におけるプロジェクトがうまくいっていないことを認めざるを得なくなったのである。
ところが彼の警告に耳を傾けた人は少なかった。EUが世界に向かって「普遍性」を訴えるような形になるにつれて、最も熱心な擁護者たちは、欧州大陸内の有権者たちに対して「EUには欧州伝統の素晴らしさがある」と訴えるような力を失ってしまったのである。
今日に至っては、状況はさらに深刻になっている。フレディによれば、「(いわゆるポピュリストのような)国家主権の原則が公的に主張されるにいたって、EUに対して“王様は裸だ”というような状況がつくりだされてしまった」のである。
しかもこれは、必ずしも有権者たちが非リベラル的になったことを意味するわけではなく、むしろ彼らはそもそもエリートたちが望んでいたほど、もしくは想像していたほど、リベラルの理想と一体化してはいなかったということだ。
少なくとも中欧と東欧では、リベラリズムの知的な面からの訴えは、国民たちに響かなかったのである。
「リベラルの考えに盲目的に従うこと」が生活水準の向上や将来の経済的繁栄のために支払うべき代償である限り、ほとんどの人々はそれに積極的に従った。ところが「リベラリズムという宗教」への普遍的な熱望は、虚しく響くだけだったのだ。
いざその「未来」がやってきて、欧州統合がカラ約束であることが明らかになると、このような信仰心は捨てられてしまったのである。
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もちろんアメリカ側の事情はそれとはかなり異なるものだが、今日の政治状況を動かしている背後の力学は驚くほど似ている。
常識的なリベラルの世界観に対する多数の人々からの反発に直面したおかげで、パニックにおちいったアメリカのエリートたちは、おしなべて「破滅的かつ独裁的な未来が来る!」と予言している。
そして「政治の実行」という段階になると、リベラルたちは過去に成功したやり方を、また熱心に再利用しようとするのである。
私は熱心な反トランプのほとんどの人々の間にこのような感傷的な望みが朝もやのように漂っていることに気づいてしまったわけだが、この望みというのは「あらゆる偽情報が暴かれ、すべての文書が真実であると証明され、すべての確定申告書類が検査され、大統領の関係者全員が逮捕されたら嬉しい」というものであり、もしこれが実現すれば以前のような「まともな状態」が復活する、というものだ。
すでに確立された支援団体などを持つ既存の政党は、政党が「常識的な人々」として擦り寄る、賢明な中間層を代表する「無党派層」の支援を再びとりつけようとするだろう。
私の友人たちは、「それでもわれわれは重要な論点、たとえば中絶や税金、貿易、そして移民などの問題に関しては意見の違いを残したままだ」というだろう。この分裂状態はもちろん続くはずだ。なぜならトランプが去っても政治は終わるわけではなく、結局のところはアメリカは分裂したままの状態で残るからだ。
ところがそれよりも大きな枠組みについての議論はもう起こらなくなっている。それは、われわれの「価値観」、つまりトランプ大統領個人や「トランプ主義」(Trumpism)によって侮辱されているその価値観が、そもそも議論されなくなったからだ。
これはたしかにその通りかもしれない。
ところが、第一期トランプ政権の最初の10ヶ月に入り、「トランプ主義」(とでも言うべきもの)は、共和党の中でその力を強めてきたのである。
メディアはコーカー上院議員とフレイク上院議員の最近のトランプ大統領に対する抗議を熱狂的に賞賛したが、当然のごとく、この賞賛は「次の選挙にどのような影響が出るのか」という本当の議論を避けたため、有権者にはほとんど意味のないものとして無視されている。
右派のトランプの支持者たちは、決して反トランプにはならず、むしろトム・コットン上院議員のように、明らかに共和党支持者たちの意向を忖度しながら、ほとんどの議題に関して彼らに積極的に歩み寄ろうとするのだ。
民主党によって、次の中間選挙における古いタイプの「中立派」の候補が出てきて、郷愁感(ノスタルジア)の正しさが証明される可能性はもちろんあるだろう。だがこれまでの時点で判明しているのは、左派からもそのような候補を求める気力が感じられないことだ。
ミレニアル世代の左派を狙ったVOXというサイトの創設者であるエズラ・クレインは、ミシガン州知事の候補として若いイスラム系の人物を注目する記事を書いており、「オバマ大統領のような経歴を持ち、サンダース議員のような政策案を持った政治姿勢であり、これは民主党が求めていたスタイルなのだ」と持ち上げている。
ところがこれは、私の視点からみれば、クラステフが「リベラル・コンセンサス」と呼び、これまで行われてきた「古い枠組み」の中の話でしかない。失われたのは自由貿易や移民についての肯定感であり、いわゆる「リベラルな国際秩序」に対する信念であった。
ナイルズ・ギルマンが数日前に本サイトに掲載された記事で述べたように、トランプ大統領が行ったのは、アメリカでこれまで政治的に可能(そして許される)とされていたものごとの範囲を大きく広げたということだ。彼はおそらくこのようなことを、単なる右派だけでなく、党派の左右に関係なく幅広く行ったのである。
過去にこのような「リベラル・コンセンサス」を信じていた人々にとっては、現代は迷いの多い時代であることは間違いない。ただし確実に言えるのは、民主制度は単に生き残っているだけでなく、実に有効に作用しているということだ。
自惚れて形骸化したイデオロギーに対する大衆的な不満は、欧州全土に広まっただけでなく、アメリカでも(大きな欠点を持つ)指導者を見い出したのである。
リベラリズムの未来は、メッセージを大きくはっきりと伝え、残すに値する哲学的な伝統のすべての要素を守るための方策を探し出すことができる、有能な政治家たちの双肩にかかっている。
ところがリベラル聖職者たちの金切り声による執拗な高説は、そのような事態をまったく改善できていないのである。
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