先日、高橋洋一の「官僚とマスコミは嘘ばかり」と読みました。 内容の多くはこれまで高橋洋一自身が書いてきた記事や、出演番組で言ってきた事と被ります。
しかしこの本では「官僚とマスコミは嘘ばかり」とのタイトル通りに、官僚がいかにマスコミを利用して情報操作を行うかを、高橋洋一自身の体験を交えて克明に描いています。
これを見る限り日本のマスコミの言う「権力を監視する」など言うのは、全く虚偽である事がわかります。
「権力を監視する」というのは嘘であるどころか、官僚の指示に従ってプロパガンダを行う機関とさえいえるのではないでしょうか?
日本は民主主義国家で議会制民主主義ですから、内閣は国民の意思によって選ばれます。 そしてその内閣は選挙で公約した政策を実行しなければなりません。
各省庁に所属する官僚は、総理大臣が任命した大臣に従って、この公約の実現に努力するべきなのです。
しかし現実には官僚達は官僚達の意思があり、また彼等が代々確保してきた利権がありますから、素直に内閣の命令などには従わないのです。
それどころか自分達の不都合な内閣はつぶそうとするのです。
その為に彼等が利用するのが、マスコミであり、更に大学など所謂「反権力」「権力を監視をする」という人達なのです。
やり方はシンプルです。
自分達が職権で得ている情報で、内閣に不都合な物をマスコミにリークするのです。
するとマスコミは官僚から与えられた情報を「大スクープ」として大騒ぎをはじめ、倒閣世論を作るのです。
官僚も内閣も権力であることには変わりないのに、何で「権力を監視する人々」が官僚には従ってしまうのか?
だって徴税権や許認可権などを直接握っているのは、官僚であって内閣ではないのです。
因みにモリカケ騒動でマスコミが安倍総理を叩いているのは、「官僚が安倍総理に忖度した」ことです。 忖度することさへ大問題として丸一年以上騒ぐぐらいですから、個別案件に政治家が口を出すなんて不可能なのです。
だからマスコミは官僚に従って内閣を叩くのです。
一般国民は新聞やテレビ以外に情報源のないので、反権力を標榜する人々が権力の悪を糾弾しているのだと信じてしまいます。
すると国民から選ばれた内閣が、国民から選ばれたわけでもない官僚によって倒されて、官の意思や利権が国家の運命を決める事なります。
何のことはない、これでは反民主主義、官僚制その物です。
しかしこの反民主主義官僚制を生んでいるが、官僚とマスコミの連携です。
高橋洋一によるとこうした官僚の内でも最も強力なのが財務官僚だそうです。 なぜなら財務省は予算を握る事から、全ての省庁の情報を握っています。
そしてどの官庁の予算は欲しいので財務省には逆らいにくいのです。
また徴税権握り、税務査察を行う権限を持つ事から、税金に関して欠片でも怪しい事をやっている人間は、財務省には逆らえません。
脱税がばれたら、政治家は即落選です。
新聞社やテレビ局だって大変でしょう?
所謂言論人だって同じです。
財務省はこの20年余、このようにして得た権力を駆使して、増税と緊縮財政の維持に邁進し続けたのです。
なるほどどんな組織でも、財布を握る人間、金庫番がある程度の権力を持つのは当然でしょう。
そして金庫番とすれば、金庫の中の金を減らさないように努力するのは当然です。
しかし金庫の金を減らさない事が、組織の最大の目的となると、組織そのものの活動が萎縮し衰亡するしかありません。
だから健全な組織ではそんなことにならないのです。 金庫番は金庫の金が無駄遣いされないように見張るけれど、上司に命令されたら必要な金は出すのです。 金庫の金を見張るのも、必要な時に必要な金が出せるようにするためです。
ところが日本、この金庫番が金庫の金を増やすために、社長をクビにする事を繰り返してきたのです。
そしてマスコミはそれを「権力を監視する」「反権力」と呼んでいたのですから、何とも滑稽な話です。
それにしても、何で財務省はここまでやるのか?
できるのか?
徴税権から税務査察権や、職権を通して得らる情報など、財務省が潜在的に持つ力は大きいのですが、しかし持てる権力をどこまで生かすかは、その権力を持つ者の能力次第です。
ところが財務省の官僚達はこの能力が抜きんでているのです。
財務省の官僚の殆どは大学受験の最高峰東大法学部卒です。 その法学部卒の中でも特に優秀な人達が財務官僚になるのです。
だから頭が良くて、しかも勤勉であることにおいては、全ての日本人の中でも最高レベルの人達なのです。
そういう人達なので、自身の権力を保持し拡大し、更にそれ使って目的を遂行するのには、有効な手段を幾らでも思いつくし、またいかなる労も惜しまないのです。
但し法学部卒なので、経済学には知識はありません。
そこで彼等が目指す唯一の政策は、財政規律の維持だけになります。
また彼等は所詮役人でなので、自分の権限の範囲だけが関心事のすべてですから、常にこれを最優先にして行動します。
そこで彼等はまさに倹約家の専業主婦と同じレベルで、国家財政を管理することに熱中するのです。
怖いのはこの倹約家専業主婦が大秀才であることです。 そしてこの専業主婦はあまり家族を愛していません。
だから彼等は食費も教育費も家の補修費も削り、ありとあらゆる手段を尽くして倹約し続けるのです。
つまりマスコミの情報をリークして増税に不都合な政治家を潰すとか、財務査察をチラつかせて、政治家や言論人を操るとか、一流大学の経済学部を全部増税派に都合のよう経済学者で固めるとか、できる事は何でもやるのです。
しかも彼等はこれを何十年も組織を挙げて営々と続ける事ができます。 何しろ彼等は終身雇用で、しかも権力維持のノウハウを代々伝授し続けるですから。
一方、国民の代表である国会議員は、衆議院議員は任期が4年で解散あり、参議院議員は6年です。
そして内閣はこの国会により選ばれます。
これだと憲法で内閣の権力が保障されても、内閣が簡単に官僚を従わせるわけにはいかないのです。
だってこんなに限られた期限内で官庁内の膨大な実務に精通するのは難しいし、一方官僚がつむじを曲げて実務が滞れば、たちまち国政が混乱します。
更に言えば、経済が悪化して状況が悪くなればなるほど、内閣は弱体化します。 だから益々官僚の力が強くなります。
これだと財務省が、緊縮財政と増税に邁進すればするほど、財務官僚の権力は増大するのだから、絶対に緊縮を辞めるにはならないでしょう。
いや、もうため息しか出ません。
そしてこの財務省の権力と、そしてその結果の経済学的を無視しての緊縮財政推進を見ていて、前々から疑問が一つ解けました。
前々からの疑問。
それは「科挙制度を持つ中国はなぜ発展しなかったか?」です。
中国は隋の時代から学力試験による官僚採用制度、科挙を始めました。
これは人類史上画期的な話で、ヨーロッパが官僚の採用に学力を問い始めたのは19世紀半ば以降です。
科挙は皇帝が行う官僚採用試験で、中国人の男性でありさへすれば身分や出自を全く問われる事なく受験できました。
そして合格すれば直ぐに高級官僚となり、強大な権力を得る事ができました。
しかも極めて厳正な試験で、あの賄賂文化の中国でも、こればりは賄賂も全く通用しないし、また親族に高級官僚や有力者がいるからと言って有利になる事もなかったのです。
その意味でも申し分なく公正な制度なのです。
だから科挙制度を知ったヴォルテールは言いました。
「東方の理想社会では、知識があればる程金持ちになれる。」と・・・・・。
その為でしょう、その後の中国王朝は延々とこの制度を引き継ぎます。 また中国だけでなく、朝鮮やベトナムなど中華文明圏でも行われるようになります。
因みにホー・チ・ミンの父親はベトナムの科挙の秀才(秀才というのは元来科挙合格者を指す言葉でした)でした。 そこで息子のホー・チ・ミンも科挙を目指す教育を受けたのでしょう、彼の漢詩・漢文は超一流です。
彼の漢詩・漢文を見れば、科挙の秀才なる人々がどんな人々だっかを想像できます。
ところがこの素晴らしい制度の下で、中国もまた科挙制度を取り入れた中華文明圏諸国の社会も、延々と停滞し続ける事になるのです。
中国政府は中国が衰退したのは、アヘン戦争以降、列強の侵略を受けたからで、それまでの中国は世界で最も豊かで優れた文明国であったと宣伝しています。 そしてまた欧米でも日本でもそのように信じている人が少なくありません。
しかし現実に中国の国民一人当たりのGDPを調べてみると、14~15世紀にはヨーロッパ諸国に抜かれているのです。
つまりアヘン戦争の起きた近代ではなく、中世末期或いは近世初頭には、既にヨーロッパ文明が中国に優越しているのです。
そして国家統治のシステムは隋と全く変わらないままでしした。
これは誰が考えても非常に不可解なことでした。
世界で初めて全ての国民から能力だけで官僚を採用するという素晴らしい制度を始めたのだから、他の国々をはるかに凌ぐ優れた統治をおこない、ますます発展するはずではないのか?
しかし高橋洋一の著書を読み、東大法学部卒の財務官僚という現代日本の科挙の秀才のやる事を見ていたら、中国の科挙の秀才達が中国社会を停滞させた理由もわかります。
日本の財務官僚は法学、しかもカルトと言われて久しい日本の憲法学を含む東大の法学だけしか学んでいないのです。
だから簿記も知らないまま、国家の財政を運営しているのです。
その為にひたすら緊縮財政だけに執着しているのです。
そしてそれにより自らの権力を維持拡大することだけに執心しているのです。
では中国の科挙の秀才達はどうでしょうか?
科挙の秀才の受験科目は、儒教中心にして詩文と漢文でした。
儒教的価値観では古代に存在したと言われる三皇五帝の統治が理想でした。
これは要するに一人の君主が、その卓抜した人徳により全ての人民を支配するという社会です。
これなら儒教試験で最高成績を挙げた人々が、目指すのが封建諸侯が割拠する封建社会だったり、まして民主社会であるはずもないのです。
そしてまた儒教では経済発展には極めて否定的だし、国防にもそれほどの関心はありません。
なによりも皇帝の徳と慈悲により国家が安定する事を重視します。
そしてそれはまた皇帝の官僚である官僚自身の地位と権力の安定と直結します。
しかし科挙の秀才は皇帝と違い、所詮は役人なのです。
だかから国家に対して全責任を負うという意識はありません。 その為、国家よりも自身の保身や利権を優先させてしまいます。
これでは彼等が経済発展や社会の進化を望むはずはありません。 それどころか経済の発展や社会の進歩は、社会変革を生み、自分達の権力基盤を弱体化させますから、全力で阻止するのです。
そして恐ろしい事に、こういう事にかけて彼等は極めて勤勉で有能だったのです。 だって大変な難関試験を自身の頭脳と努力だけで突破してきた人々なのですから、努力家であり頭が良い事にかけては、中国最高の人々なのです。
国中で最高に頭がよく、しかも勤勉で努力家の人々が、強大な権力を持ち、団結してその権力を利権を守ろうとするのでは、金城鉄壁ではありませんか?
このような人々が一致団結して国家の経済発展や社会の進歩を阻害するのですから、経済や社会が進歩発展するわけもないのです。
勿論権力を保持している人々が、自身の権力保持の為に社会の進歩や経済の発展を阻害するのは、世界中どこでも同じでしょう。
しかし西欧や日本で権力を握っていた貴族や大名は、ただ世襲でその権力を得ただけの人々なので、そんなに頭がいいわけではありません。 そして権力を得る為に苦労するとか、努力するという発想さへないのです。
これでは科挙秀才達に適うわけもないのです。
科挙の秀才に可能なことも、彼等には不可能だったのです。
そしてそれが結局これらの国々を発展させたのです。
しかし日本は明治以降、また欧米諸国でもフランス革命以降辺りから、学力による官僚採用を始めました。
民主主義により身分制度を廃止すれば、官僚を採用するには、能力試験を課すしかありません。
しかし仕事をした経験のない若者に能力試験を課すとなれば、結局学力試験になるしかないのです。
皮肉なことに科挙がなかった事により民主主義体制を作る事の出来た国々が、皆民主主義により科挙を採用することになってしまったのです。
その結果、日本ではそれが財務省の緊縮原理主義となって、日本経済の発展を阻止することなっています。
これは大変恐ろしい事です。
日本はこの科挙の弊害を克服する方法を考え実行しない限り、日本は衰亡に向かうではないでしょうか?