珍しく続けて投稿です。(雪でも降るんじゃね?←自虐)
ニッキのやばすぎる過去
なぜかというと、ある凄い本を読んでしまったから。
「実録教団紛争史: 日本基督教団(小林貞夫著, メタブレーン)」
以前私は、
むかし日基の総会でヘルメットを被り棒を携えた活動家が突入し議事が進行できなかったケースがあった
と、小耳にはさんだことがあり、いつか詳細を知りたいと思っていました。
そんな折、この本はまさにそれを主題とし事件の細かな記録を収載していると聞き、購入。
開いて読んでみると...............
もうブッタマゲ。天を仰いでしまいました。
私は、当初これは単発的な事件と思っていましたが、全くそうではなったのです。
まずこれは、「反万博」の機運のもと1969年時点における総会に左翼の若者が突入しヤジと暴力をもって議事を捻じ曲げたことが発端だったのだそうですが、
一部の牧師にも、過激派におもねったり賛同したり、最悪の場合はけしかけたりする者がおり、その後のある時点で「過激派が執行部と議会を完全掌握」したこともあったとか。
結局この問題が収束したのは2006年だというから左翼過激派はかなり長期に影響を及ぼしていたようです。
さらにさらにあきれ果てたのは、
これらの騒動の渦中にあって、過激派を率いた運動家、あるいは過激派に屈したり妥協しておもねった人達や、賛同していた人達が数名名指しで挙げられていたので検索してみたところ、
なんと何名かは日基のHPなどに消息が載っていました。高齢なので既に亡くなった方がほとんどですが、どうも現役で牧師をしている人も中にはいるようです。
で、亡くなった人たちについての書きぶりを見てみると、当該騒動への関与などいっさい匂わせず、「惜しい方を亡くしました」的な無難な記述に終始しているのです。
ウィキペディアで名前を検索してみても、そういった人たちが教団の役職についていたことは自体は記述されていますが、「教団紛争」における彼らの役割など一ッ言もありません。
あきれ果てるを通り越して恐ろしくなってしまいました。
いやしくもキリスト者を名乗る者が暴力と威嚇をもって教団の運営を捻じ曲げ最後には支配してしまったという悪しき事例が、
まるで「なかったこと」にされているような印象を受けます。
いや、よくよく検索してみるとそれらしいことはクリプレとかに書いてあるんですね。
ですが、これらの事例で暴言、威嚇を駆使してきた人たちはほぼほぼどの媒体でも名指しされていません。
だから、一体誰が問題の張本人だったのかが全く明らかにされていないように見えます。
これ、日基が常々HPに掲示している「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」よりもよほど重大な事案じゃないですか?
あきれ果てる実態の数々
騒いでいるだけでは始まらないので、この本の中から気になった記述を例示していきます。
「教団紛争の核心は暴力であった.......ここでの暴力は、物理的暴力と精神的暴力となって現れた。
物理的暴力の第一は、文字通りの暴力である。会議場や受付を竹棒(槍)で襲うとか、相手に物を投げつけ、なぐる、ける、などがある。第二は議場での妨害である。議事の進行を妨げるために、ヘルメット姿でとび回るとか、議長席を取り囲んで進行させない、ハンドマイクなどで叫び続けて困惑させるなどである。」
「精神的暴力の第一は威嚇である。名指しで集中的にやじったり、悪口を言い続けたりした。時には、座席の側に立ち続けて威嚇したりもした。これらによって体調を崩した人は幾人もいた。
第二には、論説、著書、言説などへの糾弾である。周辺に多大の迷惑をかける程の騒ぎを起こしたりして相手を屈服させた。」
まずこれが著者の総評というか総論です。そして具体的な日時を交えた例が記述されていきます。
ことの始まりは九・一、二事件といい(この、日付で呼ぶ左翼独特の言い方、ナツカシ~!)、1969年9月1日と2日にわたって行われた教団総会での騒動だということです。
「会全体は、『大衆団交』という、当時のはやりの形となった。分かりやすく言えば、紅衛兵ばりの『つるし上げ大会』である。十九時間も、正規の休憩時間なしで追及する。へとへとになって、心にもない事を言わせて勝利する造反者たちの作戦である。」
「北森嘉蔵テーマ委員も主張を曲げない。くやしくなった学生が、北森嘉蔵をなぐった。
時間を経て、二回目もなぐったのである。暴力が教団の最高責任者たちのいる所で振るわれたのである。そして会は中止ではなく続いたのである。」
この暴力の記述のほか、著者は議事録をもとにどれほど不規則発言がされたかをも克明に記しています。それによればヤジ:150回とか、ナンセンス(注:発言者が話している途中で反対を表明するときの左翼の常套句。)100回とか。他も全部含めれば数百回のレベルです。
そして、彼等が起こす騒ぎの激しさに当時の議長が折れてしまったとか。
「礼拝を中心に主を仰ぎ、それぞれの持ち場に遣わされて生きる。これが信仰生活である。罪を犯し、傷つき、再び礼拝に集う。これが信仰の希望である。これが破壊されてしまった。
九・一、二事件の主役たちは「教会は革命の拠点である」と主張し、実行し始めたのである。反政府、反体制でないものは教会ではないと絶叫して止まなかった。
そして、ついに、飯清教団議長が、それに屈したのである。妥協させられてしまった。
それは連鎖反応となった。勝ったと連呼する学生、教師たちは、(やくざ)まがいの脅迫や、ヘルメットでの乱入などで、うろたえた教師たちを変節させて行った。」
左翼の戦術
これらの記述の中で、私が常々考えていたことのいわば「答え合わせ」となったような箇所があります。以下、平山照次さんという牧師さんの見解が引用されている箇所を示します。
「『教団の正式常議員会?は、出席議員の何倍かの数の姓名不審者も含む『万博反対者集団』に囲まれて、怒号と罵倒の一斉射撃を浴びながら開かれました...
最初『反博集団』の代表六名だけの傍聴を認めることになっていました。しかし、飯議長と高倉総幹事が、二階玄関で『反博集団』と折衝した結果、ついに数十名集団全員の出席を認めさせられたのでした。
私は見ていました。一度に何人も立ち上がっての激烈な発言、怒号、罵倒の中で、常議員会?は、司会こそ飯議長がしていましたが、会の運営は完全に『反博集団』によって主導権を握られていました。
常議員の何人かの顔には恐怖と困惑と『反博集団』におもねるような表情さえ見ました。
......私は、フッと拷問の鞭の下で意識もうろうとなって、無実の罪を自白させられる被疑者の光景をそこに見ました』」
私は常々、今の左翼というものは、議論や事実や証拠などまったく気にすることをせず、ただ反対勢力を叩き潰すことだけを考えており、そのためには何を言われてもひたすら罵倒を浴びせかけて、相手を「へとへとに疲れさせて黙らせる」ことだけを志向していると考えていました。
しかし、既に1969年の時点で、しかも日基の中の左翼たちが、この戦術を採用していたわけです!
しかも、最初は彼等集団の出席を認めていなかったのに「折衝」の結果認めてしまった。そしてこのような展開になってしまったと。
すなわち、彼らに一歩でも譲歩すれば、陣地を全て奪われるということです。彼らの側には、譲歩とか、調和とか、交渉とか、そういった概念は一切存在せず、すべての目的は相手(保守側)を完全に屈服させ、征服すること。「進歩、保守両方の意見をすり合わせてよりよい案を....」とか、そんな穏健な話は夢物語というわけです。
彼らに対応する場合にはそれを肝に銘じるべきと思いました。
信仰の崩壊と「反サベツ」
さらに著者は嘆きます。
「九・一、二事件をきっかけに、政治的プロパガンダが持てはやされ、万博反対イコール信仰という思い込みが蔓延してしまった。勢いがあり、暴力も伴って、学生・青年たちを熱狂させた。指導した教師も間違えてしまった。
万博問題が冷えてしまった後は、信仰の崩壊だけが一人歩きすることになった。
信仰義認、聖書正典、三位一体を否定することになってしまったのである.....
端的に言えば、<イエスはキリストである>かどうかの議論といい換えてもよい。この<イエスはキリストである>に条件をつけたのである。万博に反対する、資本主義に反対する場合にだけイエスはキリストである、としてしまった」
こ...これは...!
ここで説明される「造反派」の主張は、私が拙ブログで以前取り上げさせていただいた「リベラル進歩主義キリスト教」とかなりの共通点があります。
本当に不思議なのですが、社会セーギに入れこめば入れ込むほど、反比例するように、信仰の本質とは何かとか聖書の権威とかそういう部分への意識が消失していくんですね。
その他「伝道は教勢拡張主義である(岩井健作、他)」として伝道が否定されたり、
「『聖霊とか祈りとか、口にするのが気恥ずかしいような、顔を赤らめて言わねばならないような、そのような雰囲気を教団総会に感じていた。』」(←志村信夫さんという方のご発言として)
「課題解決は闘いで勝ちとるもので祈りに逃避してはならない、という造反派の主張が、常議員会や総会を支配していた状況を吐露している。」
祈りや聖霊の話をするのが気恥ずかしい思いにさせられる、って、もはや「戦前」の日本を思わせるレベルです。
また、「リベラル進歩主義キリスト教」と共通するような左翼側の主張は他にもあります。
「『私のはいわばイエス教です。革命家イエスです。政治の体制、宗教の体制、あらゆる体制に反抗し粉砕するのがイエスの目的とする所で、私たちはその精神に立つ者です(一九七二・三教団問題協議会・堀光男)』」
こんな無茶な考え方が既に1970年代当初からあったなんて驚きです。他にはこんなものも。
「『聖餐式は差別であり、洗礼も差別を招く』春名康範『この議論には、聖書をその成立の歴史の過程で明かになる問題点をふまえて読み直しの必要性・・・・』桑原重夫『聖書の中の差別思想と事象の洗い直しと、聖書のとらえ直し作業が必要』平良修」
これもピンときました。「聖書の中のサベツ」。つまり、聖書の中のさまざまな逸話や教えを取り上げ、「ここにサベツがある!」と警報を鳴らし、聖書が私たちに何を教えようとしているかを汲み取るより先に「聖書を裁く(!)」作業をするわけですね。現在でもそのような人たちは散見されます。(これらについては後でもう一度触れたいと思います。)
終息したかに見えたが....
結局のところこの騒動は2006年まで続きました。その年、議長が「荒野の40年」という総括声明を出し、歪められた教団運営を反省し、これからは再び伝道に励む旨を宣言しました。
......ところが。
この声明は議長の総括を超えているとして不信任案が提案され、採決の結果否決されたものの、なんと372人中134名は不信任案に賛成したのだとか。
ということは、この134名はこの正視に堪えないような酷い紛争の歴史について「反省」したくはない、ということなのでしょうか?
また、この問題についてよく調べると、一部ではこの紛争を「社会派と教会派の対立が先鋭化し」などと書いていますが、
いやいや、この「紛争史」を読めば分かりますが、そんなものではないでしょう。
「造反派が暴力を振るって自らの主張を押し通した」
→これを「社会派と教会派の対立が先鋭化し」た
‥‥‥っていったいどんだけ言い換えてるんでしょう?
ほとんど「歴史修正」の域に入ってませんか?
それに、上記の不信任案に賛成した134名。つまり、2006年の時点で総会の会議体の1/3くらいが、この紛争の反省を会議の総意とすることを拒否したわけですから、相当数の教職者たちが、もしかすると紛争そのものを悪かったと思っていなかったのでは?と疑ってしまうのです。
現に、「荒野の40年」声明を否定するこんな牧師さんも.......
なにか、この紛争の40年間にもポジティブな意義があったと言いたげな書きぶりです。
まず第一に。
それにしても、「紛争史」の読後、本当に私は怒りを感じました。
私は実は若いころ左翼でした。警官隊と衝突したりヤクザ(てか右翼)に取り囲まれたこともあります。(はい、スイマセン。今では悔い改めています。(-_-;))
ですが、私の先輩であった左翼青年たちは、自分より非力な者を脅したりすることは全くありませんでした。もっぱら相手は政府や警察など。いわゆる「権力」ですね。ですので私も彼らの姿勢にならっていました。
ところが、日基の左翼活動家たちは違う。彼らはいち宗教法人のメンバーに過ぎない牧師や信徒さん、しかもキリスト教信条ゆえ暴力に対し暴力を返してくることの決してない人達を、あえてターゲットにしたわけです。
......主張がどうとかいう以前に卑劣過ぎるだろ、こいつら。マジで。
本当に胸がムカムカしました。
それで自分たちが正義だと思っていたわけですから余計です。
しかももっと信じられないのは、そういうことをしたり、あるいは自分はしなくても賛同・黙認してきた人達が、
そのことを後から批判されることも、指弾されることもなく、その後ごくフツーに牧師をしていたりする。
普通の会社だったらありえねえだろ。それこそ一人づつ「総括して自己批判」しなきゃならない話だと私は思いました。
それをしていないということは、日基という組織そのものが「否認」の状態にあるように見えます。
他人が話しているときにヤジを飛ばして邪魔をし、気に入らない意見を持つ人を取り囲んで威嚇し、果ては暴力を振るっていうことをきかせるというのは、普通の社会では完全にアウトです。全員解雇、クビです。
ところが、この「不法行為」のオンパレードに対して、きちんとした形で張本人の責任が取らされたということがないままに、
あいも変わらず主日礼拝で「神は愛です」とやっているのなら、もはや教会・教団って何?という感じです。
サヨクの根は今も生きている
以前私は、日基の牧師で、沖縄における反基地闘争の一環で政府職員に暴力を振るってしまい逮捕され有罪となった人がいたことをブログで取り上げました。(奇妙なことにアメブロから削除されていました。バックアップにしてあったライブドアブログからリンクしています)
さすがにここまで酷い事件は滅多に聞きませんが、私は以前から日基(や、それに限らずバプ連その他のキリスト教団体も)なぜこんなにも左翼的なのだろうか、と常々疑問を持っていました。
でも、完全に答え合わせができた気がします。
既に1969年時点で日基は芯から左翼に冒されていました。対抗して立ち上がる人がおり、最終的に紛争が終わったのは良かったですが、この騒動を起こした活動家連中を徹底排除することも、おもねったり賛同したりしていた人達を公に処分することもしないまま来てしまったのです。
(いわゆる「ナイフ事件」に関わった人たち三名は処分されたようですが、特定の活動にかかわる役職を解任されただけで教職免許そのものを剥奪されたりとか教団から除名されたわけではないようです。)
つまり、高齢になったとはいえ、この騒動の張本人たちはまだ教団のそこここに残っている可能性があるわけですね。
引用元の「紛争史」には、それまで右肩上がりだった日基の教勢が、紛争後ピタリと上がらなくなったとあります。それは当然です。(著者さんはそのことの反省もきちんと書いておられます。)
ですが、私はこの「左傾化」こそが、日基だけでなく日本全体でキリスト教が広がらない大きな理由の一つなのではないかという疑いを強くしました。
左傾化しているのは私の観察では日基だけではなく、バプ連や聖公会などもその痕跡が見受けられますからね。
で、もしそうならばいったい誰が好き好んで左翼の牧師が牧する教会になど通いたがるのだろう?という疑問が出ます。
さらに付言すると、以前当ブログでも触れましたが、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」には「どうして日基が政府の圧力に転んでしまったのか」の内面的な反省が含まれていないと私は評価していますが、
いま教団は、上述の議長声明はともかくとして、教団の総意としては「なぜ総会や執行部は左翼過激派の圧力に転んでしまったのか?」の反省をしていないわけです。(「紛争史」の著者さん個人は除きます。)
だとすれば、日基の体質は本質的に変わっていないのではないか、と私は思います。
進化形左翼の浸透
私は自分が左翼だったこともあり、左翼というものがどのような思考システムによって働くか、一般の人達よりかは理解しているつもりです。
そして、この「紛争史」を通読し、また過去に観察してきた日本のリベラル進歩主義その他のトンデモ・キリスト教を再び吟味してよくわかったことがあります。
上でも少し触れましたが、左翼の種は形を変えていまも脈々と生き続けている、ということです。
↑過去の拙ブログ記事では、あるプログレッシブキリスト教の主張を取り上げています。
『人間社会は、弱い者、変わった人、皆と歩調を合わせない人達を犠牲にして自分たちの「平和」を保ちます。しかしイエスはそのような社会的・組織的な罪と偽善に対して「NO!」を突き付けます。私たちの今の社会でも、そのような組織的な罪が周りにはびこっています。クリスチャンがそれに加担してしまうこともあります。それに「NO!」を突き付け、虐げられている者たちを救い出すのがキリスト者の使命です。』へえ~......ほお~............
「イエスは革命家です」
「福音は抑圧された人たちのためにあります」
云々かんぬん.......................
でもね、「紛争史」を読んでみて確信しました。
そんなものは50年以上前から言い古されてきた「オルグ」(人を説得し左翼活動に引き込むこと)のための常套句だったのです。
私は改めてこのような戯言の本質を確認することができました。
しかしです。形を変えた現代の左翼の種は、巧妙化しています。
現在では、突入、罵倒、ヤジ、吊るしあげ、粉砕でもって教会の方向を捻じ曲げるのではなく、
上記のようなメッセージを少しづつ福音に混ぜ込んで教会を聖書から、み言葉から引き離そうとしている動きがあります。
賢明な読者のみなさん、よくよく注意してください。
フェミニズム神学、LGBT神学、クイアー神学、その他もろもろが日本に流入してきてしばらく経ちました。
すると、その過激さや荒唐無稽さに驚かれ会衆から受け入れられなかったことを知ったのか、これら勢力の働きは形を変えてきています。
しかし、そこに通底するメッセージは同じです。
「XXに同情しなかったり、その擁護のために行動しないお前はYYだ」
(XX=弱者; すなわち移民、LGBT云々。YY=レイシスト、ホモフォブ、サベツ者云々)
「ZZという体制にサベツが組み込まれている。諸君、立ち上がって打倒せよ!」
(ZZ=異性婚のみを認める法制、入国管理法、云々)
罪悪感を掻き立て、「弱者」と対比する「強者」によるサベツ構造を言い立てる。
そしてこれを粉砕するか、できないようであれば浸食し変質させる。
私筆者は、日基のこの暗い過去を知り、その暗部の根源となった思想がいまだ消えていないことを覚知することでかえって現在の日本の教会の霊的状態に対する危機感が高まりました。
私は、クリスチャンの読者諸氏にはぜひこの「実録教団紛争史」をご一読いただくようお勧めするとともに、
私自身は当ブログなどの媒体を通じて警鐘を鳴らしていきたいと思います。