藤原氏とは? わかりやすく解説

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ふじわら〔ふぢはら〕【藤原】

読み方:ふじわら

[一]姓氏の一。

[二]古代氏族中臣鎌足(かまたり)が藤原朝臣の姓を賜り鎌足の子不比等(ふひと)の流に藤原姓認められたのに始まる。奈良時代南家北家式家京家四家分かれ平安時代には北家皇室姻戚関係結んで摂関政治行った鎌倉時代以後九条家近衛家二条家一条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家分立

[補説] 「藤原」姓の人物
藤原伊織(ふじわらいおり)
藤原銀次郎(ふじわらぎんじろう)
藤原咲平(ふじわらさくへい)
藤原審爾(ふじわらしんじ)
藤原惺窩(ふじわらせいか)
藤原智美(ふじわらともみ)
藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)
藤原明衡(ふじわらのあきひら)
藤原明子(ふじわらのあきらけいこ)
藤原家隆(ふじわらのいえたか)
藤原宇合(ふじわらのうまかい)
藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)
藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)
藤原兼家(ふじわらのかねいえ)
藤原兼実(ふじわらのかねざね)
藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)
藤原兼通(ふじわらのかねみち)
藤原鎌足(ふじわらのかまたり)
藤原家隆(ふじわらのかりゅう)
藤原清河(ふじわらのきよかわ)
藤原清輔(ふじわらのきよすけ)
藤原清衡(ふじわらのきよひら)
藤原公任(ふじわらのきんとう)
藤原薬子(ふじわらのくすこ)
藤原行成(ふじわらのこうぜい)
藤原伊尹(ふじわらのこれただ)
藤原伊周(ふじわらのこれちか)
藤原伊房(ふじわらのこれふさ)
藤原伊尹(ふじわらのこれまさ)
藤原定家(ふじわらのさだいえ)
藤原実定(ふじわらのさねさだ)
藤原実資(ふじわらのさねすけ)
藤原実頼(ふじわらのさねより)
藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)
藤原俊成女(ふじわらのしゅんぜいのむすめ)
藤原彰子(ふじわらのしょうし)
藤原佐理(ふじわらのすけまさ)
藤原純友(ふじわらのすみとも)
藤原隆家(ふじわらのたかいえ)
藤原隆信(ふじわらのたかのぶ)
藤原隆能(ふじわらのたかよし)
藤原忠実(ふじわらのただざね)
藤原忠平(ふじわらのただひら)
藤原忠文(ふじわらのただふみ)
藤原忠通(ふじわらのただみち)
藤原種継(ふじわらのたねつぐ)
藤原為家(ふじわらのためいえ)
藤原為氏(ふじわらのためうじ)
藤原為兼(ふじわらのためかね)
藤原為定(ふじわらのためさだ)
藤原為相(ふじわらのためすけ)
藤原為業(ふじわらのためなり)
藤原為教(ふじわらのためのり)
藤原為世(ふじわらのためよ)
藤原定家(ふじわらのていか)
藤原定子(ふじわらのていし)
藤原時平(ふじわらのときひら)
藤原俊成(ふじわらのとしなり)
藤原永手(ふじわらのながて)
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)
藤原成親(ふじわらのなりちか)
藤原信実(ふじわらののぶざね)
藤原宣房(ふじわらののぶふさ)
藤原信頼(ふじわらののぶより)
藤原範兼(ふじわらののりかね)
藤原浜成(ふじわらのはまなり)
藤原秀郷(ふじわらのひでさと)
藤原秀衡(ふじわらのひでひら)
藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)
藤原房前(ふじわらのふささき)
藤原藤房(ふじわらのふじふさ)
藤原不比等(ふじわらのふひと)
藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)
藤原雅経(ふじわらのまさつね)
藤原麻呂(ふじわらのまろ)
藤原道兼(ふじわらのみちかね)
藤原道隆(ふじわらのみちたか)
藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)
藤原通俊(ふじわらのみちとし)
藤原道長(ふじわらのみちなが)
藤原通憲(ふじわらのみちのり)
藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)
藤原基家(ふじわらのもといえ)
藤原基経(ふじわらのもとつね)
藤原基俊(ふじわらのもととし)
藤原基衡(ふじわらのもとひら)
藤原百川(ふじわらのももかわ)
藤原師輔(ふじわらのもろすけ)
藤原泰衡(ふじわらのやすひら)
藤原行成(ふじわらのゆきなり)
藤原良経(ふじわらのよしつね)
藤原良房(ふじわらのよしふさ)
藤原良基(ふじわらのよしもと)
藤原頼経(ふじわらのよりつね)
藤原頼長(ふじわらのよりなが)
藤原頼業(ふじわらのよりなり)
藤原頼通(ふじわらのよりみち)
藤原義江(ふじわらよしえ)


藤原氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/29 17:15 UTC 版)

藤原氏

下がり藤(代表的な家紋
※ 各、藤原氏によって異なる。
氏姓 藤原朝臣
始祖 天児屋命
出自 中臣氏
氏祖 藤原鎌足
種別 神別天神
本貫 大和国高市郡藤原
著名な人物 藤原鎌足
藤原不比等
藤原仲麻呂
藤原冬嗣
藤原良房
藤原基経
藤原兼家
藤原道隆
藤原道長
藤原頼通
その他は藤原氏の人物一覧参照
後裔 藤原南家(長男藤原武智麻呂
藤原北家(次男藤原房前
藤原式家(三男藤原宇合
藤原京家(四男藤原麻呂
記上藤原不比等の子、4家以後については、各家項目を参照
凡例 / Category:氏

藤原氏(ふじわらし、旧字体藤󠄁原氏)は、日本氏族

姓(カバネ)は朝臣。略称は藤氏とうし

飛鳥時代藤原鎌足を祖とする神別氏族であり、多くの公家を生み出し、朝廷の中枢を担った。また多くの支流を生み、武家・神職などその後裔を称する家系も多数に上る。

概要

の代表的なものの一つとして源氏平氏橘氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称された。

中臣鎌足大化の改新の功により天智天皇に賜った「藤原」のが、子の藤原不比等の代に認められたのに始まる。鎌足が中臣氏の出身であるため、祖は中臣氏と同じく天児屋命と伝える。

奈良時代南家北家式家京家の四家に分かれ、平安時代には北家が皇室と姻戚関係を結んで摂関政治を行った。北家の中でも権勢を誇った藤原道長の嫡流子孫(摂家)は院政期以降も摂政関白をほぼ独占し、臣下としては最高の家格を保った。藤原氏の一族は、奈良時代から平安時代までは本姓の「藤原」を称したが、鎌倉時代以降は姓の藤原ではなく、「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」などの苗字に相当する家名(家格)を名のり、公式な文書以外では「藤原」とは名乗らなかった。これらをあわせると特に朝廷における比率は圧倒的であり、地方に散った後裔などもふくめ、日本においては皇別など)に次いで大きな広がりと歴史を持つ家系である。江戸時代の朝廷において大臣就任の資格を持つ上位公卿17家系(摂家清華家大臣家)のうち14家系が藤原氏、残り3家系が源氏であり、徳川をはじめとした主要武家の多くも源平や藤原流を称していることを併せると、皇別(皇胤)と藤原氏の二つだけの血流が支配階級をほぼ独占するという世界でも稀な状態であった。

出自

日本書紀』天智天皇紀によれば、中臣鎌足は、中大兄皇子(天智天皇)とともに乙巳の変から大化の改新に至る諸改革に携わった。その後功績を称えられ、死の直前に天智天皇から藤原姓を与えられたとされる[1]。『藤氏家伝』大織冠伝によれば、鎌足の生地・大和国高市郡藤原(のちの藤原京地帯、現 橿原市)にちなみ、「藤原朝臣姓」を受けたとされる[1]。通説では、鎌足の子である不比等がその姓を引き継ぎ、以後不比等の流が藤原朝臣と認められたとされる。

他方、この時に与えられた藤原の姓は鎌足一代のものであり、後に改めて鎌足の遺族に藤原朝臣の姓が与えられたとする説[2]もある。この見解は、鎌足の死後中臣氏を率いた右大臣中臣金壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)方について敗北し処刑されたため、乱とは無関係の鎌足流も一時衰亡の危機を迎えたことを一因とする。乱平定ののち、天武天皇13年(684年)に八色の姓が定められた際には、朝臣姓を与えられた52氏の中に「藤原」の姓は登場せず、鎌足の嫡男である不比等を含めた鎌足の一族は、この際に「朝臣」を受けた「中臣氏」を名乗っていたとする。そして『日本書紀』に鎌足没後最初に「藤原」が登場する翌天武天皇14年(685年)9月以前に、鎌足の遺族に対してあらためて「藤原朝臣」が与えられその範囲が定められた、とするものである。

いずれにしても、当時不比等がまだ若かったこともあって不比等以外の成員にも藤原朝臣が与えられ、鎌足の一族であった中臣大嶋や中臣意美麻呂(鎌足の娘婿でもある)が、不比等が成長するまでの中継ぎとして暫定的に「氏上」(うじのかみ)に就いていたとみられている[2]

のちに不比等が成長して頭角を現すと、藤原氏が太政官を、中臣氏が神祇官を領掌する体制とするため、文武天皇2年(698年)8月鎌足の嫡男である不比等の家系以外は元の「中臣」姓に戻された。

なお、鎌足の死は、庚午年籍が編纂されて全ての臣民が戸籍に登録される前年であるが、藤原の姓の由来が大和国高市郡にもかかわらず、戸籍上の藤原朝臣は全て京戸として扱われている。これは天智・天武両天皇の子孫である諸王及び諸氏と同じ待遇であった[3]

皇別の藤原氏

また、奈良時代には皇族臣籍降下した際、母の姓を受け継いで藤原朝臣を賜姓されることもあった。藤原弟貞(山背王、長屋王の子)や藤原仲麻呂の養子となった石津王が該当する。しかし弟貞の子孫は永原朝臣を賜姓されて藤原氏を称することはなくなり、石津王は仲石伴と改名したとも伝えられるが、いずれにせよ後裔は不明なため、皇孫の藤原朝臣は残らなかった。

藤原氏分離後の中臣氏

中臣意美麻呂は中臣姓に復帰後に不比等の推薦で中納言となり、その七男の清麻呂は右大臣まで昇った。そのため、以後はこの子孫が中臣氏の嫡流とされて特に「大中臣朝臣」と称されるようになった。平安時代以降になると他の中臣氏も大中臣氏を名乗るようになるが、清麻呂の系統が嫡流であることは変わらず、藤波家として堂上公家に列する。

歴史

飛鳥時代

持統天皇末年頃に少壮官僚であった藤原不比等は、天武7、8年頃(678年頃)に蘇我連子の娘・蘇我娼子を嫡妻として迎えた。これによって不比等は、大臣家である蘇我氏の尊貴性を自己の子孫の中に取り入れることができ、藤原氏は氏として成立したばかりであるにもかかわらず、蘇我氏の地位を受け継ぐ氏であることを支配者層に示した[4]文武天皇元年(697年)8月には、持統天皇の譲位により即位した軽皇子(文武天皇)に不比等の娘の藤原宮子が夫人となっており、中央政界に台頭する。文武天皇二年(698年)9月には藤原の姓の継承者が不比等に限定され、意美麻呂らは中臣姓に復した[5]

なお、不比等の出生について『興福寺縁起』には「公避くる所の事有り」とあり、これは不比等が天智天皇の御落胤であることを意味するとされる。『大鏡』、『公卿補任』、『尊卑分脈』にはその旨が明記される。

不比等は下毛野古麻呂らとともに大宝律令と、それに続く養老律令を編纂して律令制度の確立に貢献した。大宝元年(701年)には高い位階を持ったものの子孫が高位に叙される蔭位制が開始された。これは正一位相当とされた鎌足の子孫にとって極めて優位な制度であり、不比等の家系が高い地位を得るもととなった[6]。対して出身の段階で高い位階を得られない他の氏族は昇進も停滞するようになり、子孫に蔭位で高い位階をつけることはますます困難なものとなっていった[7]

さらに宮子が首皇子(後の聖武天皇)を産むと、皇子の後宮にも娘の光明子(後の光明皇后)を入れて、天皇の姻戚としての地位を確立した。文武天皇以降、天皇のほとんどの后・妃が藤原氏の娘となる[8]

奈良時代

不比等の死後、外孫である首皇子(聖武天皇)が皇位に就くと、不比等の男子である武智麻呂房前宇合麻呂藤原四兄弟と天武天皇の孫である長屋王皇族を中心とする一派の対立が深まっていった。729年天平元年)、長屋王の変が起こり長屋王は自害する。これは、藤原四兄弟が自分達の異母妹で天皇の妃である藤原光明子を史上初の皇族以外出自の皇后に立てるため、反対する長屋王を讒言により陥れた陰謀事件であったとされる。なお、光明子の立后によって藤原氏の地位が向上することは、藤原氏を母方の実家とする聖武天皇にとっても好都合であることから、天皇の意向を受けた政変であったとも解される。

藤原四兄弟は、それぞれ武智麻呂南家房前北家宇合式家麻呂京家の4家に分かれ、藤原四家の祖となった。731年(天平3年)、役人達の投票によって四兄弟全員が議政官に昇った。これは藤原氏が単に後宮政策のみならず、不比等以来律令編纂に関わってきた実績をもって官僚組織を掌握していったことの証でもあった。この中で、京家は最も振るわず早々に政治の舞台から姿を消すこととなる。

737年(天平9年)、天然痘の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死する。それを受けて橘諸兄玄昉吉備真備らが藤原氏の突出を抑えようと努めたが、光明皇后の信任を得た南家・藤原仲麻呂(武智麻呂の子)の台頭により抑えられた。仲麻呂は757年天平宝字元年)には諸兄の子・橘奈良麻呂も排除した(橘奈良麻呂の乱)。仲麻呂は独裁的な権力を振るい、仲麻呂の一家には特に「恵美」を姓に加えられ、「藤原恵美朝臣」を称した。しかし光明皇太后の死後孝謙上皇の寵愛を得た道鏡が台頭し、764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂の乱で敗死した。

仲麻呂の失脚後も、重祚した称徳天皇(孝謙上皇)は、藤原氏の援助と支持を必要としていた。左大臣藤原豊成が没すると、北家の永手を右大臣・左大臣と相次いで昇進させ、首班公卿とした。この際に永手に対し、かつて天智天皇が「鎌足・不比等の子孫で明き浄き心を持ち朝廷に奉仕するものは必ず取り立て、その子孫を絶やさない」と述べたという書を示し、特別な一族であることを示している[9]

三家の興亡

神護景雲4年(770年)、称徳天皇が後継を定めないまま没すると、後継となった光仁天皇の擁立に功があった式家の藤原良継百川の勢力が強まった[10]。しかし良継は間もなく没し、北家の魚名が台頭した[11]。天応2年(782年)、魚名が氷上川継の乱で失脚すると、桓武天皇の近臣であった式家の種継が勢力を伸ばし始める[12]延暦4年(785年)に種継が暗殺されると、しばらくは南家の継縄・北家の内麻呂らによって政権が主導された[13]延暦12年(793年)9月には、藤原氏に限り、二世以下の女王と結婚することが許可された[14]

桓武天皇の跡を継いだ平城天皇は自身の擁立に功があった種継の子薬子仲成を重用した[15]大同2年(807年)に伊予親王の変が発生し、南家の雄友乙叡が失脚、南家の勢力は大きく衰退したが、これは仲成の策動によるものとされている[16]。大同4年(809年)、平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位した。嵯峨天皇は内麻呂の子である北家の冬嗣を登用し、天皇の意思を直接太政官に伝える蔵人所の長官である蔵人頭に据えた[17]弘仁元年(810年)、内麻呂と冬嗣を中心とする嵯峨の宮廷はクーデターを起こして仲成を処刑し、平城の影響力を排除した[18]

冬嗣の子良房は嵯峨天皇の娘である源潔姫と結婚し、早くから藤原氏の中心人物となると見られていた[19]承和9年(842年)の承和の変では中納言に過ぎなかった良房に全ての処理が命じられた。この事件では式家から中納言吉野や東宮坊の官人5名が処分されている[20]。この事件により良房の妹順子を母とする道康親王(後の文徳天皇)が立太子し、良房の優位は決定的なものとなった[20]

承和10年(843年)に式家最後の大臣である藤原緒嗣が没し、承和13・14年(848年847年)に良房の兄弟である長良良相参議となると、以降の藤原氏の議政官はほぼ北家に独占されることとなった[21]嘉祥元年(848年)に良房が右大臣となると、以降は北家のみが大臣に登ることとなった[21]

摂関政治

良房は清和天皇外戚となり、人臣で初めての摂政となった。そして、良房の養子・基経もまた、陽成天皇の外戚として摂政と関白を務めた。

藤原道長頼通父子の代になると摂関政治の最盛期を極めた。道長の嫡流は御堂流とよばれ、藤氏長者・摂関に登りうる唯一の家、いわゆる摂関家とされ、他の公家とも隔絶した地位を得た。

一方で官人の大半が藤原氏の後裔で占められるようになり、それらの家系は家職をもった公家の家として続いていくこととなる[22]。代表的な家系には中御門流松木家持明院家等)[23]閑院流[24]勧修寺流[25]日野流[25]などがある。

また受領層となった家の一部は地方に土着して武士化した。特に藤原清衡奥羽において勢力を拡大して反映し、その家は特に奥州藤原氏と呼ばれるようになる。特に藤原利仁藤原秀郷の後裔を称する武家は特に多かった。ただし、実際には家系を粉飾し、藤原氏後裔を仮冒する武家も多かったと見られる。

平安後期になり、摂関家とミウチ関係を持たない上皇による院政が始まると、摂関家の影響力は低下した。一方でこのことは天皇との外戚関係と無関係に摂関家が摂関の地位を占めることにつながった[26]。一方で院近臣となった一部の藤原氏家系は勢力を拡大した。藤原基隆葉室顕隆はその中でも大きな勢力を誇った。また閑院流は院政期に複数の天皇の外戚となったことで家格を上昇させ、西園寺家三条家徳大寺家を始めとする清華家など多数の堂上家を輩出している。一方で、藤原氏の氏寺である興福寺による強訴が行われた際は、衆徒春日大社神木を入京させることがしばしば行われるようになった。神木が京中にある時は藤原氏の公卿・殿上人は謹慎しなければならず、ほとんどの高官が藤原氏で占められた朝廷の政務が麻痺することとなったため、強訴の効力は極めて大きいものであった。

平安時代末期以降には公家では称号、武家では名字と言われる「家名」が一般的となり、後世から「藤原」の氏を関して呼ばれる人物は少なくなっていく。

中世

鎌倉時代に入ると、摂関家の嫡流近衛家九条家の二流に分裂し、近衛家からは鷹司家、九条家からは二条家一条家が分かれた。これらは五摂家と呼ばれ、これらの家から摂関・藤氏長者を出すこととなった。

九条家の九条道家の子頼経将軍となり、その子の頼経とともに摂家将軍と呼ばれる。道家はこれにより朝廷と鎌倉幕府に対して強い影響力を誇ったが、宮騒動宝治合戦によって摂家将軍に代わって親王が迎えられる体制となった。代わって朝廷と幕府の連絡役である関東申次となった西園寺家の勢威が増大した。

鎌倉時代に勢力を張った藤原氏の武家は武蔵国比企氏安達氏下野国小山氏宇都宮氏下総国結城氏常陸国小田氏伊豆国伊東氏相模国山内氏、九州の少弐氏菊池氏、幕府の官僚となった二階堂氏などが知られる。

室町時代になると、二条良基室町幕府に接近し、将軍足利義満を朝廷に深く参画させることで、その安定を図ろうとした。このため二条家は将軍から代々偏諱を受けるなど 関係を深め、他の摂家平均の2倍以上の間摂関を務めることとなる[27]。また日野家は義満以降の代々の将軍家御台所を出し、8代将軍義政の御台所であった日野富子は、明応の政変を主導するなど大きな影響力を持った。武家では関東管領を世襲した上杉氏が知られる。

戦国時代においては藤原氏の後裔を称する戦国大名が多く勢力を拡大した。陸奥国伊達氏津軽氏肥前国龍造寺氏鍋島氏肥前有馬氏が知られる。この時代、公家の多くは困窮し、摂家の一部が地方に在国することも行われた。なかでも一条教房土佐国に下り、その子孫は公家でありながら地方権力として統治を行う、一種独特の体制を築きあげた(土佐一条氏)。近衛家は足利義晴義輝父子に接近し、日野家に代わって将軍家御台所を出して幕政に深く関与した。この体制は足利―近衛体制とも呼ばれる[28]

近世

江戸時代において、禁中並公家諸法度で確立された朝廷秩序は摂家の指導によって維持されるものとされた。江戸幕府を支えた譜代大名にも藤原氏を称する家があり、井伊氏本多氏大久保氏内藤氏戸田氏田沼氏などがある。また下冷泉家の出身である藤原惺窩儒学の研究で知られ、その弟子の林羅山の子孫である林家は代々大学頭として江戸幕府に影響を与えていた。

近代以降

明治維新後、明治2年7月8日(1869年8月15日)の職員令の公布に伴い、任官者である政府の官僚・政治家は任官の証書である「官位記」や職員名簿に本姓で記載されることとなった[29]。この時期に「藤原朝臣」を称していたのは内閣制度成立まで政府首班を務めた三条実美維新の三傑である西郷隆盛大久保利通などが知られる。しかし明治4年10月12日(1871年11月24日)には姓氏を公用文書に書くことは廃止され、氏が公的な役割を果たすことはなくなった[30]。しかし、公家・大名諸侯が列せられた身分である華族の多くは藤原氏の一族であった。明治9年(1876年)に開始された宗族制度は華族を先祖ごとの「類」に分類するものであるが、藤原朝臣の「類」は最も多く、第42類から第63類までの21類におよぶ。これら藤原氏後裔の華族は多くの政治家などを輩出した。内閣総理大臣を2度務め、実質的な首相選定者であった元老となる西園寺公望、三度首相となった近衛文麿などが代表的である。


系譜

藤原氏系図(藤原四家成立まで)[31]
藤原氏諸家略系図
堂上公家に限定して記載。江戸時代末には、堂上公家である5摂家・9清華家・3大臣家・66羽林家・28名家・26半家(計137家)のうち、5摂家・7清華家・2大臣家・55羽林家・25名家・2半家(計96家)が藤原氏出身であった。
系図の詳細については各家項目の系図を参照。

藤原氏と宗教

鎌足の長子定恵が出家して以降、藤原氏は多くの仏僧を輩出してきた。平安時代後期には大寺院における門跡制度が定まり、大寺院の主を摂家出身者が占めることが長く続いている。摂家出身の高僧としては慈円満済尋尊などが知られる。

浄土真宗の祖となった親鸞は日野家の出身であり、親鸞の曾孫で第三代本願寺門主であった覚如は藤原氏の一族であることを強く意識しており[32]広橋兼仲の養子となるなど、日野家一族との関係を深めた[33]。本願寺十世の証如九条尚経猶子となり、以降は九条家と深い関係を結ぶようになった[34]。以降代々の法嗣(門主継承予定者)も九条家の猶子となる慣例が江戸時代まで続いた[35]

藤原氏の武家

藤原氏は多くの地方官人を輩出したため、軍事貴族となる家も多く生まれた。中でも藤原利仁藤原秀郷の後裔を称する武家は特に多い。これらの武家で江戸時代に大名として残り、明治時代に華族となった家は藤原氏の旧堂上家と同族として扱われた。

また、徳川家康は任官の都合上、一時的に藤原氏を称している。

藤原氏を称する著名な武家

現代の藤原氏

藤原氏の後裔で構成される親睦団体「藤裔会」が組織され、年1回秋頃に全国の藤原氏の末裔が奈良市春日大社で会合などが執り行われている。

藤原氏由来の名字

談山神社が組織した「談の会」が発行した『藤原氏族一覧』には3452の名字が掲載されている[36]。特に「藤」の字が入った名字は藤原氏の末裔であるとされることも多い。

ただし全国に散らばる藤原氏同族とされる雄族の多くが、藤原氏と氏神を共有せず、地方への赴任事情が不明であり、系図上でも親子関係などで疑問が残るものも存在する。これらの事情には、他の氏族の後裔が藤原氏の一族の養子・猶子となるか、先祖の系図を藤原氏に無理矢理接続させたという類例が武家では非常に多いためとされる。また地方の古族(国造県主など)で先祖が不詳になったものには、中央の権門勢家にかこつけ藤原氏一族と称したものも数多く存在したと見られる。佐藤・斎藤・伊藤・加藤・後藤・武藤・近藤・安藤・尾藤・遠藤などはその多くが本来藤原氏とは無関係であったとも見られる[37]

十六藤

特に以下の名字は十六藤(じゅうろくとう) と呼ばれる。

その他の著名な名字

十六藤以外で、藤原氏由来とされる苗字。藤を「とう」と読まない場合もある[38]

脚注

  1. ^ a b 奥田尚 1997, p. 77.
  2. ^ a b 高島正人「藤原朝臣氏の成立」(初出:『政治経済史学』第164号(1980年1月)/所収:高島『奈良時代の藤原氏と朝政』(吉川弘文館1999年ISBN 978-4-642-02342-9 第一章
  3. ^ 市川理恵『王朝時代の実像2 京職と支配 平安京の行政と住民』(臨川書店、2021年) ISBN 978-4-653-04702-5 P184-185.
  4. ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社、2015年)
  5. ^ 倉本一宏 2017, p. 52.
  6. ^ 倉本一宏 2017, p. 52-53.
  7. ^ 倉本一宏 2017, p. 56-59.
  8. ^ 鎌田東二「日本的霊性」を問い直す」(PDF)『公共研究』第3巻第1号、千葉大学、2006年6月、56-78頁。 
  9. ^ 倉本一宏 2017, p. 126.
  10. ^ 倉本一宏 2017, p. 130-132.
  11. ^ 倉本一宏 2017, p. 134.
  12. ^ 倉本一宏 2017, p. 136.
  13. ^ 倉本一宏 2017, p. 143-149.
  14. ^ 倉本一宏 2017, p. 148.
  15. ^ 倉本一宏 2017, p. 143.
  16. ^ 倉本一宏 2017, p. 152.
  17. ^ 倉本一宏 2017, p. 153-154.
  18. ^ 倉本一宏 2017, p. 154-156.
  19. ^ 倉本一宏 2017, p. 162.
  20. ^ a b 倉本一宏 2017, p. 163.
  21. ^ a b 倉本一宏 2017, p. 164.
  22. ^ 倉本一宏 2017, p. 202.
  23. ^ 倉本一宏 2017, p. 243.
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参考文献

関連項目

神社
元は「多武峯妙楽寺」という名の寺院。鎌足の子・定恵の創建。
伝・鎌足墓所、伝・不比等墓所が所在。
祭神は下記4柱で、合わせて「春日神」と呼ばれ、藤原氏から氏神として崇敬を受けた。全国の春日神社は、当社や藤原氏子孫による分祠に由来する。
寺院
その他

藤原氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/26 03:10 UTC 版)

平安時代の人物一覧」の記事における「藤原氏」の解説

北家本流 藤原内麻呂……藤原真楯の子右大臣藤原真夏……内麻呂の子参議刑部卿平城天皇側近薬子の変連坐左遷日野家祖。 藤原冬嗣……内麻呂の子左大臣藤原愛発……内麻呂の子大納言承和の変失脚藤原大津……内麻呂の子藤原衛……内麻呂の子藤原助……内麻呂の子参議左兵衛督藤原長良……冬嗣の子権中納言藤原良房……冬嗣の子摂政太政大臣人臣として初の摂政藤原良相……冬嗣の子右大臣藤原良門……冬嗣の子勧修寺流祖。 藤原良仁……冬嗣の子藤原良世……冬嗣の子左大臣藤原基経……長良の子。良房の養子関白太政大臣関白の初。 藤原時平……基経の子左大臣昌泰の変に関係。 藤原兼平……基経の子藤原仲平……基経の子左大臣藤原忠平……基経の子摂政関白太政大臣。『貞信公記』の著者藤原実頼……忠平の子関白摂政太政大臣。『清慎公記』の著者藤原師輔……忠平の子右大臣。『九暦』の著者藤原師保……忠平の子藤原師氏……忠平の子大納言藤原師尹……忠平の子左大臣藤原伊尹……師輔の子摂政太政大臣藤原兼通……師輔の子関白太政大臣藤原兼家……師輔の子摂政関白太政大臣藤原忠君……師輔の子右兵衛督藤原遠度……師輔の子右兵衛督從三位藤原高光……師輔の子右少将出家歌人藤原為光……師輔の子太政大臣藤原公季……師輔の子太政大臣閑院流の祖。 藤原道隆……兼家の子摂政関白内大臣藤原道綱……兼家の子大納言藤原道兼……兼家の子関白右大臣藤原道長……兼家の子摂政太政大臣摂関家最盛期示現。『御堂関白記』の著者藤原頼通……道長の子摂政関白太政大臣藤原頼宗……道長の子右大臣藤原顕信……道長の子右馬頭出家藤原能信……道長の子権大納言藤原教通……道長の子関白太政大臣藤原長家……道長の子権大納言藤原通房……頼通の子権大納言藤原師実……頼通の子摂政関白太政大臣藤原定綱……頼通の子藤原忠綱……頼通の子藤原師通……師実の子。関白内大臣藤原家忠……師実の子。左大臣花山院家の祖。 藤原経実……師実の子。権大納言大炊御門家の祖。 藤原能実……師実の子。大納言藤原忠教……師実の子。大納言難波家飛鳥井家の祖。 藤原忠長……師実の子。 藤原忠実……師通の子関白太政大臣。『殿暦』の著者藤原家政……師通の子参議左中将藤原家隆……師通の子少納言藤原忠通……忠実の子摂政関白太政大臣藤原頼長……忠実の子左大臣。「悪左府」と称される。『台記』の著者藤原基実……忠通の子近衛基実関白左大臣近衛家の祖。 藤原基房……忠通の子松殿基房摂政関白太政大臣松殿家の祖。 藤原兼実……忠通の子九条兼実摂政関白太政大臣九条家の祖。 藤原兼房……忠通の子太政大臣藤原基通……基実の子。近衛基通摂政関白内大臣藤原忠良……基実の子。粟田口忠良大納言歌人藤原家実……基通の子近衛家実関白太政大臣藤原道経……基通の子近衛道経右大臣藤原兼基……基通の子鷹司兼基大納言藤原滋子……基経の娘か。源能有室。 藤原寛子……忠平の娘。重明親王妃。 愛宮……師輔の娘。 藤原繁子……師輔の娘。藤原道兼平惟仲室。 藤原寛子……道長娘。敦明親王妃。 藤原尊子……道長娘。源師房室。 北家鳥養藤原葛野麻呂……藤原小黒麻呂の子遣唐大使中納言藤原道雄……小黒麻呂の子葛野麻呂の弟。右大弁参議宮内卿藤原常嗣……葛野麻呂の子渡唐した最後遣唐使参議左大弁藤原氏宗……葛野麻呂の子右大臣藤原興邦……常嗣の子藤原有文……氏宗の子歌人北家永手流 藤原雄依……藤原永手の子藤原宗成……永手の曾孫北家魚名流名-取流) 藤原藤嗣……名の孫。参議右衛門督藤原山蔭……嗣の孫。中納言吉田神社総持寺創建藤原中正……山蔭の子摂津守。時姫藤原兼家正室)の父。藤原道隆・超子・道兼・詮子道長外祖父藤原在衡……山蔭の孫。左大臣儒学者漢詩人藤原安親……山蔭の孫。中正の子参議藤原兼家側近藤原忠信……山蔭の曾孫藤原貞仲……山蔭の玄孫藤原道長家人藤原経臣……嗣の玄孫藤原雅材……経臣の子儒学者漢詩人藤原元命……経臣の子尾張守の時民衆訴えられる藤原惟成……雅材の子権左中弁花山天皇側近藤原忠輔……在衡の孫。国光の子權中納言儒学者漢詩人藤原時姫……中正の子。安親の妹。藤原兼家室。道隆・道兼・道長生母。 (名-末茂流藤原末茂……の子父とともに左遷される。 藤原総継……末茂の子光孝天皇外祖父贈太政大臣藤原有穂……総継の孫。中納言学者歌人藤原後蔭……有穂の子歌人藤原有時……歌人藤原隆経……歌人後三条天皇側近藤原顕季……隆経の子大宰大弐修理大夫白河天皇側近藤原長実……顕季の子権中納言白河院側近美福門院の父。 藤原家保……顕季の子参議白河院側近藤原顕輔……顕季の子歌人藤原長輔……長実の子。右京大夫藤原家成……家保の子中納言鳥羽院側近藤原清輔……顕輔の子歌人藤原重家……顕輔の子歌人藤原実清……長輔の子藤原隆季……家成の子権大納言四条家の祖。 藤原家明……家成の子従三位藤原成親……家成の子権大納言俊寛らと謀議の後、発覚し誅殺藤原実教……家成の子。公親の猶子中納言藤原経家……重家の子歌人藤原有家……重家の子歌人新三十六歌仙一人藤原季能……長実の曾孫後白河法皇側近藤原隆房……隆季の子冷泉隆房権大納言藤原成経……成親の子。父に連座して流罪。後に赦免参議皇太后宮大夫藤原師高……家成の猶子西光の子。父に連座して誅殺藤原教成……家成の子実教養子実父平業房権中納言山科家祖。藤原乙春……総継の娘。藤原長良室、基経高子母。 藤原経子……家成の娘。平重盛室。 (その他魚名流藤原藤成……の子曾孫藤原秀郷武人として著名藤原真雄……名の孫。平城上皇側近藤原松影……真雄の甥。 北家楓麻呂流 藤原園人……藤原楓麻呂長子右大臣藤原氏雄……園人の孫。 藤原貞守……麻呂曾孫園主の孫。諸貞の子参議式部大輔藤原梶長……元慶の乱出陣北家真永流 藤原嗣宗……藤原真永の孫。左中弁仁明天皇側近北家真夏藤原濱雄……真夏の子藤原家宗……濱雄の子参議左大弁藤原弘蔭……家宗の子大学頭藤原博文……真夏曾孫関雄の孫、貞幹の子儒学者漢詩人菅原道真門下藤原範綱 藤原有国……弘蔭の曾孫、繁時の孫、輔道の子参議藤原兼家道長側近藤原広業……有国の子式部大輔参議儒学者漢詩人藤原資業……有国の子式部大輔従三位儒学者漢詩人藤原経衡……有国の孫。歌人藤原家経……広業の子式部権大輔儒学者漢詩人藤原実綱……資業の子式部大輔文章博士儒学者漢詩人藤原実政……資業の子参議左大弁式部大輔大宰大弐儒学者漢詩人宇佐八幡宮争い伊豆配流藤原敦宗……実政の子儒学者漢詩人藤原正家……家経の子右大弁儒学者漢詩人歌人藤原俊信……正家の子右少弁藤原有綱……資業の孫、実綱の子、有信の兄。儒学者漢詩人歌人藤原有信……資業の孫、実綱の子、有綱の弟。右中弁儒学者漢詩人歌人藤原有定……有綱の弟。歌人藤原実光……有信の子権中納言儒学者漢詩人歌人藤原顕業……俊信の子参議儒学者漢詩人藤原資長……実光の子権中納言儒学者漢詩人藤原兼光……資長の子。権中納言儒学者漢詩人歌人後白河院信任を得る。伊勢……歌人北家大津藤原良縄……大津の子参議文徳天皇側近北家当麻呂流 藤原諸数……藤原福当麻呂の子諸陵頭藤原扶幹……内麻呂玄孫。福当麻呂の曾孫の子大納言北家長良流 藤原国経……長良の子大納言藤原遠経……長良の子右大弁藤原弘経……長良の子藤原高経……長良の子歌人右兵衛督藤原清経……長良の子参議右衛門督藤原忠幹……国経の子中宮亮勘解由長官藤原輔相……弘経の子歌人藤原倫寧……長良曾孫藤原文信……忠幹の子筑後尾張守藤原季平……尚範の子従三位治部卿藤原元名……清経の子参議宮内卿藤原国章……元名の子従三位藤原文範……元名の子中納言藤原長能……倫寧の子歌人藤原為信……文範の子紫式部外祖父藤原為雅……文範の子備中守。 藤原中清……為信の甥。 藤原範永……中清の子歌人藤原範綱……範永の曾孫歌人藤原良清……範綱の子歌人藤原為忠……白河院鳥羽院近臣歌人藤原為業……為忠の子歌人法名寂念藤原頼業……為忠の子歌人法名寂然藤原為経……為忠の子歌人法名寂超藤原親盛……親康の子後白河院北面武士歌人藤原隆信……為経の子似絵師として著名藤原信実……隆信の子似絵師として著名兵衛命婦……長良の孫。藤原忠房室。歌人藤原道綱母……歌人作家。倫寧の娘。藤原兼家愛妾藤原範永女……範永の娘。歌人二条院三河内侍……為業娘。歌人順徳院兵衛内侍……隆信娘。歌人藻璧門院少将……隆信娘。歌人弁内侍……隆信娘。歌人後深草院少将内侍……隆信娘。歌人北家門流 (良門-利基流) 藤原利基……良門の子右中将藤原兼茂……利基の子参議歌人藤原兼輔……利基の子中納言歌人藤原清正……兼輔の子歌人藤原雅正……兼輔の子刑部大輔歌人藤原為頼……兼輔の孫。雅正の子太皇太后宮大進歌人紫式部伯父藤原為時……兼輔の孫。雅正の子越前守左少弁越後守漢詩人歌人紫式部の父。 藤原惟規……為時の子。蔵人式部丞従五位下紫式部同母弟。 藤原邦綱……惟規の玄孫。盛国の子権大納言平清盛盟友として立身藤原清隆……為頼流、頼成曾孫、隆時の子。権中納言藤原隆能……清隆の子絵師藤原光隆……清隆の子権中納言藤原定隆……清隆の子従三位藤原雅隆……光隆の子正三位藤原家隆……光隆の子歌人宮内卿従二位紫式部……為時の娘作家歌人『源氏物語』作者。 (良門-高流) 藤原高藤……良門の子内大臣藤原定国……高の子大納言藤原定方……高の子右大臣歌人藤原朝忠……定方の子中納言歌人藤原朝成……定方の子中納言藤原朝頼……定方の子左兵衛督藤原為輔……朝頼の子権中納言藤原説孝……為輔の子左大弁藤原宣孝……為輔の子右衛門権佐紫式部の夫。 藤原惟憲……為輔の孫。惟孝の子大宰大弐正三位藤原道長家司藤原隆佐……宣孝の子従三位藤原泰憲……惟孝の孫。泰通の子権中納言藤原隆方……宣孝の孫。隆光の子左中弁但馬守藤原為房……隆方の子参議大蔵卿。『為房卿記』の著者白河院側近藤原為隆……為房の子参議左大弁白河院側近藤原顕隆……為房の子権中納言白河院側近藤原朝隆……為房の子権中納言藤原親隆……為房の子参議藤原光房……為隆の子権右中弁藤原敦頼……歌人道因法師藤原盛憲……保元の乱崇徳上皇方藤原経憲……保元の乱崇徳上皇方藤原顕頼……顕隆の子権中納言鳥羽院側近藤原顕長……顕隆の子権中納言藤原顕時……為房の孫、長隆の子権中納言藤原朝方……朝隆の子権大納言藤原経房……為隆の孫、光房の子権大納言吉田経房。『吉記』の作者藤原光長……為隆の孫、光房の子参議右大弁藤原定長……為隆の孫、光房の子参議左大弁藤原光頼……顕頼の子権大納言藤原惟方……顕頼の子参議左兵衛督検非違使別当二条天皇側近藤原成頼……顕頼の子参議高野宰相入道藤原長方……顕隆の孫。顕長の子。権中納言歌人藤原行隆……顕時の子。左大弁東大寺造寺長官藤原清房……後鳥羽院側近上杉氏遠祖藤原光雅……光頼の子権中納言藤原宗頼……光頼の子権大納言藤原宗隆……長方の子権中納言藤原穆子……朝忠娘。源雅信室。倫子母。 大弐三位……藤原宣孝紫式部娘。歌人殷富門院大輔……歌人帥典侍……本名藤原領子平時忠の妻。 小宰相……平通盛の妻。 北家良仁流 藤原有実……良仁の子参議北家良世流 藤原邦基……良世の子。中納言藤原恒佐……良世の子。右大臣北家時平流 藤原保忠……時平の子大納言藤原顕忠……時平の子右大臣藤原敦忠……時平の子権中納言歌人藤原元輔……顕忠の子参議藤原仁善子……時平娘。保明親王御息所北家実頼流 藤原敦敏……実頼の子右少将藤原頼忠……実頼の子関白太政大臣藤原斉敏……実頼の子参議右衛門督検非違使別当藤原佐理……敦敏の子参議大宰大弐三蹟の一。 藤原公任……頼忠の子権大納言歌人。『北山抄』の著者藤原定頼……公任の子権中納言歌人藤原高遠……斉敏の子左兵衛督正三位歌人一条天皇の笛の師。 藤原懐平……斉敏の子権中納言。実資の兄。 藤原実資……斉敏の子。実頼の養子右大臣。『小右記』の著者藤原経通……懐平の子権中納言藤原資平……懐平の子。実資の養子大納言藤原経任……懐平の子藤原斉信養子権大納言藤原経家……定頼の子権中納言藤原資房……資平の子参議春宮権大夫。『春記』の著者藤原資仲……資平の子権中納言藤原経季……経通の子中納言藤原経平……経通の子大宰大弐従三位藤原顕家……経通の子参議藤原公房……資房の子参議藤原顕実……資仲の子参議藤原通俊……経平の子権中納言歌人藤原季仲……経季の子権中納言藤原公定……経家の子参議藤原資信……顕実の子。中納言北家師尹流 藤原済時……師尹の子大納言藤原実方……師尹の孫。左中将陸奥守歌人藤原通任……済時の子。権中納言藤原朝元……実方の子藤原師成……通任の子従三位北家伊尹藤原挙賢……伊尹の子蔵人頭左少将。弟の義孝同日卒去藤原義孝……伊尹の子右少将歌人。兄の挙賢と同日卒去藤原義懐……伊尹の子権中納言花山天皇側近藤原行成……義孝の子権大納言三蹟の一。『権記』の著者藤原成房……義懐の子右中将藤原行経……行成の子参議能書家藤原伊房……行経の子權中納言能書家藤原定信……伊房の孫。能書家藤原伊行……定信の子能書家藤原師子……源雅実妾。顕通母。 建礼門院右京大夫……伊行の娘。歌人北家兼通流 藤原顕光……兼通の子左大臣藤原時光……兼通の子中納言藤原朝光……兼通の子大納言藤原正光……兼通の子参議大蔵卿藤原重家……顕光の子左少将出家藤原朝経……朝光の子権中納言藤原師経……朝光の孫。登朝の子従三位藤原延子……顕光の娘。敦明親王妃。 北家為光流 藤原誠信……為光の子参議左衛門督藤原斉信……為光の子権大納言藤原道信……為光の子左中将歌人藤原公信……為光の子権中納言藤原親通……伊信の子下総守山城守下野守藤原親盛……親通の子下総守藤原親政……親盛の子武士阿波守。 北家公季流 藤原実成……公季の子中納言藤原公成……実成の子権中納言藤原実季……公成の子大納言藤原公実……実季の子権大納言三清華家の祖。 藤原保実……実季の子権中納言藤原仲実……実季の子権大納言藤原実隆……公実の子。中納言藤原実行……公実の子。太政大臣三条実行三条家の祖。 藤原通季……公実の子。權中納言西園寺家先祖藤原実能……公実の子。左大臣徳大寺実能徳大寺家の祖。 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藤原兼頼……頼宗の子権中納言藤原俊家……頼宗の子右大臣藤原能長……頼宗の子叔父能信養子内大臣藤原能季……頼宗の子権中納言藤原宗俊……俊家の子権大納言藤原師兼……俊家の子参議藤原基俊……俊家の子歌人藤原基頼……俊家の子鎮守府将軍藤原宗通……俊家の子権大納言藤原基長……能長の子。権中納言藤原長忠……能長の子。権中納言藤原宗忠……宗俊の子右大臣。『中右記』の著者藤原宗輔……宗俊の子太政大臣藤原信通……宗通の子参議右中将藤原伊通……宗通の子太政大臣藤原季通……宗通の子藤原成通……宗通の子大納言蹴鞠名手歌人今様も。大納言藤原重通……宗通の子大納言南家同名人物周防守)とは別人藤原宗能……宗忠の子内大臣中御門宗能。 藤原宗成……宗忠の子参議藤原俊通……宗輔の子権中納言藤原為通……伊通の子参議藤原伊実……伊通の子中納言藤原宗家……宗能の子権大納言藤原泰通……為通の子成通猶子権大納言藤原家通……重通の養子実父中納言藤原忠基権中納言藤原基家……基頼の孫。持明院基家後高倉院養育藤原能保……基頼の曾孫権中納言一条能保。親幕府派の廷臣藤原高能……能保の子参議左兵衛督一条高能北家教通流 藤原信家……教通の子権大納言藤原通基……教通の子侍従正三位藤原信長……教通の子太政大臣北家長家藤原忠家……長家の子大納言藤原祐家……長家の子中納言藤原基忠……忠家の子権中納言藤原俊忠……忠家の子権中納言歌人藤原俊成……俊忠の子歌人。『千載和歌集編纂藤原光能……俊忠の孫。忠成の子参議左兵衛督後白河院近臣藤原成家……俊成の子右中将正三位兵部卿藤原定家……俊成の子権中納言歌人、『新古今集編纂、『小倉百人一首撰者末裔冷泉家藤原俊成女……俊成養女実父藤原盛頼。歌人北家家忠流 藤原忠宗……家忠の子権中納言藤原忠雅……忠宗の子太政大臣藤原忠親……忠宗の子内大臣中山家祖。『山槐記』の著者藤原兼雅……忠雅の子左大臣藤原兼宗……忠親の子権大納言北家経実流 藤原経定……経実の子。権中納言藤原光忠……経実の子。中納言藤原経宗……経実の子。左大臣藤原頼定……経定の子参議藤原頼実……経宗の子太政大臣北家忠教藤原忠基……忠教の子権中納言藤原教長……忠教の子参議右中将左京大夫歌人能書家保元の乱崇徳上皇方藤原頼輔……忠教の子蹴鞠名手難波頼輔藤原宗長……頼輔の孫。蹴鞠名手難波宗長藤原雅経……頼輔の孫。歌人蹴鞠名手飛鳥井雅経北家家政藤原雅教……家政の子中納言藤原雅長……雅教の子参議北家長流 藤原兼長……頼長の子。権中納言藤原師長……頼長の子。太政大臣藤原隆長……頼長の子。左中将北家基房流 藤原隆忠……基房の子左大臣藤原家房……基房の子権中納言歌人藤原師家……基房の子松殿師家摂政内大臣藤原忠房……基房の子大納言北家兼実流 藤原良通……兼実の子。九条良通内大臣藤原良経……兼実の子。九条良経摂政太政大臣藤原良平……兼実の子。九条良平太政大臣藤原良輔……兼実の子。九条良輔左大臣南家南家巨勢麻呂流藤原黒麻呂……藤原巨勢麻呂の子藻原荘開墾藤原伊勢人……藤原巨勢麻呂の子東寺鞍馬寺創建関わる藤原貞嗣……藤原巨勢麻呂の子中納言。『日本後紀』の編纂参加藤原真作……藤原巨勢麻呂の子阿波守。 藤原三守……藤原巨勢麻呂の孫。真作の子右大臣藤原三成……藤原巨勢麻呂の孫。真作の子、三守の同母弟。春宮亮藤原仲統……三守の子参議右兵衛督藤原諸葛……三守の孫。有統の子中納言藤原岳雄……三成の子左少弁藤原千乗……岳雄の子左中弁藤原季縄……千乗の子右近衛少将右近……季縄の子歌人藤原玄上……諸葛の子参議刑部卿藤原道明……貞嗣の曾孫。保蔭の子大納言右大将藤原敏行……歌人藤原元真……歌人藤原棟世……清少納言の夫の一人藤原重通……棟世の子。北家同名人物大納言)とは別人藤原菅根……良尚の子参議式部大輔学者漢詩人藤原当幹……良尚の子参議治部卿藤原元方……の子大納言学者漢詩人怨霊伝説著名藤原致忠……元方の子薫物名手藤原陳忠……元方の子『今昔物語集』における受領逸話著名藤原懐忠……元方の子大納言藤原重尹……懐忠の子権中納言藤原経仲 藤原登任……陸奥守藤原実範……道明玄孫文章博士学者漢詩人藤原実兼……実範の孫。季綱の子蔵人文章生。通憲(信西)の父。早世藤原通憲……実兼の子少納言出家して信西称す学者平清盛と結び、勢力伸ばす藤原俊憲……通憲(信西の子参議学者藤原貞憲……通憲(信西の子権右中弁藤原成範……通憲(信西の子中納言藤原脩範……通憲(信西の子参議藤原尹明……平治の乱功績藤原範季……後白河法皇側近藤原美都子……藤原冬嗣室。長良、良房、良相らの母。 藤原盛子……藤原師輔室。伊尹、兼通、兼家らの母。 上東門院小馬命婦……歌人。棟世と清少納言娘。南家その他) 藤原継縄……藤原豊成の子右大臣藤原雄友……乙麻呂の孫。大納言伊予親王の変連座藤原乙叡……継縄の子中納言伊予親王の変連座藤原保則……乙叡の孫。貞雄の子参議民部卿寛政により元慶の乱鎮撫藤原清貫……保則の子大納言清涼殿落雷事件によって死亡式家 藤原縄主……中納言藤原薬子の夫。 藤原仲成……種継の子平城天皇側近参議薬子の変で誅される。 藤原緒嗣……藤原百川の子左大臣藤原綱継……藤原蔵下麻呂の子参議兵部卿藤原吉野……綱継の子淳和天皇側近中納言承和の変失脚藤原元利万呂……新羅国王との共謀嫌疑を受ける。 藤原佐世……儒学者藤原基経側近阿衡事件に関係。 藤原興範……縄主の曾孫。正世の子。参議藤原枝良……緒嗣の孫。春津の子参議藤原忠文……緒嗣の曾孫の子参議征東大将軍藤原後生……佐世の孫。儒学者漢詩人藤原仲文……歌人藤原明衡……儒学者漢詩人藤原敦基……明衡の子儒学者漢詩人藤原成光……明衡の孫。儒学者漢詩人藤原人数……藤原良継娘。藤原鷲取室。 京家 藤原貞敏……藤原浜成の孫。継彦の子琵琶名手藤原冬緒……藤原浜成の孫。豊彦の子大納言京家最後公卿藤原興風……歌人藤原忠房……歌人舞楽家。 藤原輔遠……藤原清光の子氏爵にて問題起こす

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藤原氏

出典:『Wiktionary』 (2016/08/20 13:56 UTC 版)

名詞

ふじわらし

  1. 藤原ふじわら名乗った一族

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