じとう‐てんのう〔ヂトウテンワウ〕【持統天皇】
持統天皇
持統天皇は、名を鵜野讃良皇女といい、諡を大倭根子天之広野日女という。
657年に大海人皇子(天武天皇)の妃となった。
中大兄皇子(天智天皇)らが計画した百済救援の兵を挙げたときに夫の大海人皇子に随行したという。
663年白村江(はくすきのえ・「はくそんこう」ともいう)の戦いで倭国軍と百済軍は唐・新羅連合軍の大攻勢を受けて大敗北すると、大海人皇子らとともに大和へ帰国した。
この間に斉明天皇が崩御し、また、筑紫で草壁皇子を生んだ。
この後中大兄皇子が即位して天智天皇となり近江大津宮に遷都したので夫とともに移った。
天智天皇が大友皇子(弘文天皇)を寵愛しているのをみて、大海人皇子は吉野へ出家したが持統も草壁皇子とともに行動を共にした。
この対立は、大海人皇子の吉野側が大友皇子(弘文天皇)の近江側を破り、大友皇子が自害するに及んで吉野側の勝利に終わった(「壬申の乱」という)。
この後飛鳥に入り飛鳥浄御原宮を造営して673年に即位して夫の大海人皇子は天武天皇となった。
即位とともに持統は皇后となり、686年の天武天皇の崩御まで天皇を補佐して崩御後は皇后の身分で政治をみた(「称制」という)。
この称制の期間は686年から689年といわれている。
持統は皇子の草壁を擁立して後任を託そうとしたが、天武天皇と父母を同じくする姉妹の大田皇女との間に生まれた大津皇子の謀反が川島皇子によりもたらされて、強権を発動して大津皇子らを捕縛し死罪とした。
これにより安泰にみえた持統朝であったが、草壁皇子が病を得て689年に薨去した。
翌690年に自ら即位して持統天皇となる。
694年に中国の都を模した「藤原京」に遷都。
持統朝では、「八省百寮」の選任が行われ、「庚寅年籍」が作成された。
697年に草壁皇子と阿閉皇女(元明天皇)の間に生まれた軽皇子に皇位を譲って太上天皇となりその後見をしたが、702年崩御した。
657年に大海人皇子(天武天皇)の妃となった。
中大兄皇子(天智天皇)らが計画した百済救援の兵を挙げたときに夫の大海人皇子に随行したという。
663年白村江(はくすきのえ・「はくそんこう」ともいう)の戦いで倭国軍と百済軍は唐・新羅連合軍の大攻勢を受けて大敗北すると、大海人皇子らとともに大和へ帰国した。
この間に斉明天皇が崩御し、また、筑紫で草壁皇子を生んだ。
この後中大兄皇子が即位して天智天皇となり近江大津宮に遷都したので夫とともに移った。
天智天皇が大友皇子(弘文天皇)を寵愛しているのをみて、大海人皇子は吉野へ出家したが持統も草壁皇子とともに行動を共にした。
この対立は、大海人皇子の吉野側が大友皇子(弘文天皇)の近江側を破り、大友皇子が自害するに及んで吉野側の勝利に終わった(「壬申の乱」という)。
この後飛鳥に入り飛鳥浄御原宮を造営して673年に即位して夫の大海人皇子は天武天皇となった。
即位とともに持統は皇后となり、686年の天武天皇の崩御まで天皇を補佐して崩御後は皇后の身分で政治をみた(「称制」という)。
この称制の期間は686年から689年といわれている。
持統は皇子の草壁を擁立して後任を託そうとしたが、天武天皇と父母を同じくする姉妹の大田皇女との間に生まれた大津皇子の謀反が川島皇子によりもたらされて、強権を発動して大津皇子らを捕縛し死罪とした。
これにより安泰にみえた持統朝であったが、草壁皇子が病を得て689年に薨去した。
翌690年に自ら即位して持統天皇となる。
694年に中国の都を模した「藤原京」に遷都。
持統朝では、「八省百寮」の選任が行われ、「庚寅年籍」が作成された。
697年に草壁皇子と阿閉皇女(元明天皇)の間に生まれた軽皇子に皇位を譲って太上天皇となりその後見をしたが、702年崩御した。
第41代天皇 | |
天皇名 | 持統天皇 |
読み方 | じとうてんのう |
名・諱等 | 高天原広野姫天皇 |
読み方 | たかまのはらひろのひめのすめらみこと |
時代区分 | 古代 |
天皇在位 | 690年から697年 |
生年 | 645 |
没年 | 702 |
父 | 天智天皇 |
母 | 遠智娘 |
兄弟 | 大田皇女・建皇子 |
配偶者 | 大海人皇子(天武) |
皇子女 | 草壁皇子 |
即位宮 | 飛鳥浄御原宮 |
天皇陵 | 檜隈大内陵 |
所在地 | 奈良県高市郡明日香村大字野口 |
持統天皇 檜隈大内陵
(じとうてんのう ひのくまのおおうちのみささぎ)
持統天皇
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