日野家とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 実業家 > 貴族 > 公家 > 日野家の意味・解説 

日野家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/13 09:20 UTC 版)

日野家
鶴丸つるのまる
本姓 藤原北家真夏流(日野流)嫡流
家祖 日野資業
種別 公家名家
華族伯爵
出身地 山城国宇治郡日野
主な根拠地 山城国平安京
神奈川県大磯町堀之内
著名な人物 親鸞
日野俊光
日野資朝
三宝院賢俊
日野有光
日野勝光
日野富子
日野輝資
日野捷郎(実吉捷郎)
支流、分家 広橋家(名家伯爵)
柳原家(名家・伯爵)
烏丸家(名家・伯爵)
外山家(名家・子爵)
豊岡家(名家・子爵)
竹屋家(名家・子爵)
日野西家(名家・子爵)
勘解由小路家(名家・子爵)
裏松家(名家・子爵)
三室戸家(名家・子爵)
北小路家(名家・子爵)
大谷家(本願寺門跡家・伯爵)
松波家(地下家士族)
世続家(地下家・士族)
土御門家(地下家・士族)
日野氏(武家)
六角氏(武家・士族)
寺村氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

日野家(ひのけ)は、藤原北家真夏流(日野流)の嫡流にあたる公家華族の家。公家としての家格名家、華族としての家格は伯爵[1]

歴史

平安時代

日野家は右大臣藤原内麿の長子である参議藤原真夏の子孫にあたる[2][3]。真夏の孫にあたる参議藤原家宗は、弘仁12年(822年)に延暦寺戒壇を設けることを許した嵯峨天皇勅許状最澄に届けた際、感謝した最澄からより持ち帰った薬師如来像をもらった[4]。家宗は山城国宇治郡日野(京都市伏見区日野西大道町)に法界寺を建立し[3]、この薬師如来像を安置した[4]

家宗から5世後の子孫資業11世紀半ばに日野法界寺のうちに薬師堂を建立し[3]、薬師如来像をここに移した[4]。これを機に資業は「日野三位」を名乗るようになり[4]、これ以降日野が家名となった[3]

日野家は儒学と文章を家業として代々朝廷に仕え、大学頭に任じられることが多かった[3]。また歌道の家でもあったが、日野家からは名のある歌人は出ていない[5]院政期以降弁官を経て中納言大納言に至る名家の家格を確立し[5][3]、後世には旧家内々の家格も確立した[6]

鎌倉時代

平安時代末から鎌倉時代初期の日野兼光鎌倉幕府源頼朝に近い立場をとった親幕派の公家であり、文治元年(1185年)に頼朝が後白河法皇に迫って議奏10人を設置させた際にも頼朝の推挙でその一人に加えられている[5]

鎌倉前期の僧侶で浄土真宗開祖の親鸞は、日野一族の有範の子と伝わる。親鸞は娘覚信尼を同族の広綱に嫁がせているが、その子孫が代々門主として本願寺を率いた大谷家である。

鎌倉末まで日野家当主の極官は権中納言であったが、持明院統派の公卿日野俊光嘉暦元年(1326年)4月28日に持明院統の後伏見上皇から鎌倉への使者に建てられた際に権大納言に任じられ、これ以降持明院統では日野家を代々権大納言とするのが佳例となり、日野家の極官は権大納言に上がった[7]

しかし日野家一族全員が持明院統派だったわけではなく、俊光の次男資朝と庶流の日野俊基は、大覚寺統派であり、彼らは元亨2年(1324年)に後醍醐天皇の倒幕計画に参加したことで幕府に捕らえられている(正中の変[8]。さらに元弘の変後には二人とも幕府に処刑されている[3]

建武新政~南北朝時代

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の建武新政下で持明院統派の日野資名は出家隠棲したが、その次男日野氏光は建武2年(1335年)に西園寺公宗北条氏残党(北条高時の弟泰家、高時の次男時行名越時兼ら)とともに後醍醐天皇を暗殺してその混乱に乗じて京都と鎌倉を占領する計画を企てた。しかしこの陰謀は事前に露見して西園寺公宗とともに捕らえられて処刑された[9]

その後鎌倉幕府再興を掲げる北条残党が鎌倉を占領したが、これを追った足利尊氏が突如後醍醐天皇に弓を引きはじめ、建武3年(1336年)正月に京都を占領するも翌2月には楠木正成に京を追われた。朝敵になっては勝つことができないことを思い知らされた尊氏は、資名の弟大僧正賢俊(狙っていた醍醐寺座主の地位を認められなかった件で後醍醐天皇を恨んでいた)を仲介役に持明院統の光厳上皇に接近してその院宣を拝受。これにより足利軍が優勢となり、京都を再占領して持明院統の光明天皇を北朝の天皇として即位させるとともに自らを征夷大将軍に任命させて室町幕府を興した[10]

足利将軍家との縁戚関係

資名の娘日野宣子後光厳天皇典侍となって後宮の第一人者となり[11]、資名の子で日野宗家を継いだ日野資教は後小松天皇乳人となり、後円融上皇院執権をつとめるなど朝廷においても重要な地位を占めるようになった[12]。以降日野家は後光厳側近でありつつ室町将軍家にも仕えることで、室町将軍の公家化を強く推し進めるようになる[12]。資名の子時光の娘業子は3代将軍足利義満に嫁ぎ、その没後には時光の次男裏松資康の娘康子が継室となった。康子は後小松天皇の准母となり、北山院女院号を受けた。これ以降室町時代を通じて日野家は歴代足利将軍と婚姻・外戚関係をもち権勢をふるうこととなった[13]

康子の妹栄子は、4代将軍足利義持に嫁ぎ、5代将軍足利義量を儲けた。資康の子裏松重光の娘である宗子重子は、いずれも6代将軍足利義教に嫁いでいる[14]。特に重子は7代将軍足利義勝と8代将軍足利義政兄弟の生母となった[15]

しかし資教の子であった有光は義持・義教と対立して失脚し、跡を継いだ弟の家秀も永享4年(1432年)に子を儲けないまま没した。このため日野家の家督は日野家庶流の広橋兼郷の子春龍丸が継ぐこととなったが[16]、まもなく没したため兼郷が日野兼郷を名乗って日野宗家を継ぐこととなった[17]

永享6年(1434年)には義教の不興を買った裏松義資が殺害された[14]。また、一旦赦免されていた有光も再び所領を没収されている[18]

日野富子の登場

足利義教が嘉吉の乱で殺害された嘉吉元年(1441年)10月、義資の孫勝光が元服して日野宗家を相続し、兼郷は広橋家に戻った[17]。一方で進退窮まった有光は、嘉吉3年(1443年)9月に後南朝尊秀王と共に朝廷を襲撃して神璽・宝剣を奪取し、比叡山延暦寺に立て籠もったが、結局幕府軍や延暦寺僧徒に攻め殺され、その子日野資親も六条河原で斬首された[18]


康正元年(1455年)、足利義政生母日野重子の協力で、勝光の妹である日野富子を義政の室に入れたことで日野家は権勢を復活させることに成功する[14]。勝光は将軍の義兄として幕政に介入して権勢をふるい、官位も日野家の当主としては異例の従一位左大臣まで登った。その権勢から押大臣と称された[19]

富子は寛正6年(1465年)に実子足利義尚を設けると、それまで義政の後継者に擬せられていた義政弟足利義視を追い払うため山名宗全と結託し、細川勝元と結託した義視と争って応仁の乱を引き起こした[20]

文明5年(1473年)に息子義尚が9代将軍に就任した後、富子は夫義政が政治を嫌って隠遁生活を送ったのと対照的に政治に深く関与するようになり、特に1476年(文明8年)に兄勝光が死去した後には幕政を一手に掌握する立場となった[20]。文明12年(1480年)に富子は兄勝光の娘祥雲院を息子義尚の正室にさせたが、義尚はこの妻を好まず男子ができなかった[21]

権勢をふるう富子は関所の設置による関銭の徴収、米の投機的売買、高利貸などによって私腹を肥やし、「天下の料足(お金)はみな富子のもとに集まる」と称された[20]。文明10年(1478年)には内裏修理料の名目に京都七口関を設置して関銭を徴収するようになり、一時廃されるも文明12年(1480年)に再設置させた。その収益はすべて富子により着服されていたため、反発が広がり、1480年(文明12年)には関打ちこわしの土一揆が発生している[20][22]

延徳元年(1489年)に男子のない義尚が死去した後には富子も義視の息子義材(後の義稙)を10代将軍に就けることを余儀なくされ、幕政の実権は細川政元が掌握するところとなり、富子の権勢は衰えたが[20]、明応2年(1493年)には政元と謀って義材を将軍の座から追い払い、堀越公方家の義澄を後継の11代将軍に擁立し、富子の弟日野永俊の娘阿子をその正室に迎えさせた[23]。しかし実権は政元が握り続け[24]、権勢を落としていく富子は明応元年(1496年)に死去した[20]

戦国時代~江戸時代

応仁の乱後には足利将軍家や室町幕府自体が衰退の一途をたどり、日野家の家運も衰退する。勝光の子政資の跡は徳大寺実淳の次男日野内光が継いだが、大永7年(1527年)に足利義晴方の細川高国武田元光らと、柳本賢治三好元長政長らが桂川原の戦いで激突した際、敗北する高国側で参戦したため敗走中に戦死した[25]

内光の息子の権大納言日野晴光周防国守護大内氏を頼って周防山口に下向した[6]

広橋国光の子で晴光の養子として跡を継いだ輝資は正二位権大納言まで登ったが、慶長7年(1602年)に息子資勝とともに出仕を止められ、慶長12年(1607年)に出家して唯心院と号したが、徳川家康の知遇を得てしばしば駿府に下向してはその諮問に預かっていた[26]

江戸後期の日野資愛は平堂上としては最高位の従一位准大臣まで登っている[27]

江戸時代の日野家の家禄は、名家としては破格の1,034石だった[注 1]。家臣として雑掌に山中家、辻家、吉田家があった[6]

明治以降

明治維新時の当主は資宗(文化12年5月19日生、明治12年8月25日没)[28]

明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると、日野家も旧公家として華族に列した[29][30]。明治3年(1870年)12月に資宗は隠居し、長男の資貴(文久元年6月10日生、大正10年12月11日没)が家督相続[28]

明治3年12月10日に定められた家禄は、現米で618石5斗[31][注 2]。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は2万1675円30銭4厘(華族受給者中215位)[33]。当時の資貴の住居は京都府愛宕郡第四組小山村[34]。当時の家令は近藤真輔、家扶は松田保、宮田健[34]

資貴は明治16年10月に隠居し、資宗の次女甲斐と結婚して資貴の養子(柳原光愛五男)となっていた資秀(文久3年5月19日生、明治36年11月24日没)に家督を譲った[28]

明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると大納言宣任の例多き旧堂上家[注 3]として資秀が伯爵位を授けられた[1]

初代伯爵資秀は東宮侍従を務めた[36]。資秀の死後に伯爵位を継いだ資謙(明治36年11月29日生、大正14年2月20日没)が若くして死んだあと、資秀の娘と結婚していた大正から昭和期のドイツ文学者[37]日野捷郎(海軍軍医中将実吉安純子爵六男)が3代伯爵を継いだが、昭和6年(1931年)に妻と離婚したため実吉姓に戻って息子の日野資純(大正15年1月1日生)に伯爵位を譲った[36]

歴代当主

藤原北家真夏流

代数 肖像 名前
(生没年)
続柄 位階 備考
1 藤原真夏
(774年-830年)
藤原内麻呂の長男 従三位 参議
2 藤原濱雄
(826年-840年)
先代の三男 従五位下
3 藤原家宗
(817年-877年)
先代の長男 従三位 参議
4 藤原弘蔭
(不詳-904年)
先代の長男 従五位上
5 藤原繁時
(不詳-943年)
先代の長男 正五位下
6 藤原輔道
(生没年不詳)
先代の長男 正五位下
7 藤原有国
(943年-1011年)
先代の四男 従二位 参議

日野家

代数 肖像 名前
(生没年)
続柄 位階 備考
8 日野資業
(988年-1070年)
藤原有国の七男 従三位
9 日野実綱
(不詳-1082年)
先代の次男 正四位下
10 日野有信
(1040年-1090年)
先代の三男 従四位下
11 日野実光
(1069年-1147年)
先代の長男 従二位 権中納言
12 日野資長
(1119年-1195年)
先代の次男 正二位 権中納言
13 日野兼光
(1145年-1196年)
先代の次男 従二位 権中納言
14 日野資実
(1162年-1223年)
先代の次男 正二位 権中納言
15 日野家光
(1199年-1237年)
先代の次男 従二位 権中納言
16 日野資宣
(1224年-1292年)
先代の次男 正二位 権中納言
17 日野俊光
(1260年-1326年)
先代の子 正二位 権大納言
18 日野資名
(1286年-1338年)
先代の長男 正二位 権大納言
19 日野時光
(1328年-1367年)
先代の子 正三位 権大納言
20 日野資教
(1356年-1428年)
先代の子 従一位 准大臣(1425年-1428年)
21 日野有光
(1387年-1443年)
先代の子 従一位 権大納言
院執権
後南朝派。三種の神器を奪取。
比叡山で戦死
22 日野家秀
(1401年-1432年)
先代の弟
(20代資教の子)
従三位 権大納言。初名秀光。
23 日野春龍丸
(1425年-1432年)
広橋兼郷の子
- 日野兼郷
(1401年-1446年)
広橋兼宣の子、春龍丸の父 従二位 権中納言
24 日野勝光
(1429年-1476年)
裏松義資の子 従一位 左大臣(1476年5月-6月)
院執権
日野富子の兄
25 日野政資
(1469年-1495年)
先代の子 正三位 権中納言
26 日野内光
(1489年-1527年)
先代の養子
(徳大寺実淳の子)
正三位
(追贈従一位
権中納言(追贈左大臣
桂川原の戦いで戦死
27 日野晴光
(1518年-1555年)
先代の子 正二位 権大納言
28 日野輝資
(1555年-1623年)
先代の養子
(広橋国光の子)
正二位 権大納言
29 日野資勝
(1577年-1639年)
先代の子 正二位 権大納言
30 日野光慶
(1591年-1630年)
先代の子 従二位 権中納言
31 日野弘資
(1617年-1687年)
先代の子 正二位 権大納言
32 日野資茂
(1650年-1687年)
先代の子 従二位 権中納言
33 日野輝光
(1670年-1717年)
先代の子 従二位 権大納言
34 日野永資
(1694年-1712年)
先代の子 正五位下 右小弁
35 日野資時
(1690年-1742年)
先代の養子
(豊岡弘昌の子)
従一位 権大納言
36 日野資枝
(1737年-1801年)
先代の養子
(烏丸光栄の子)
従一位 権大納言
37 日野資矩
(1756年-1830年)
先代の子 従一位 権大納言
38 日野資愛
(1780年-1846年)
先代の子 従一位 准大臣(1845年-1846年)
39 日野資宗
(1815年-1878年)
先代の養子
(広橋胤定の子)
正二位 権大納言
40 日野資貴
(1861年-1921年)
先代の子
41 日野資秀
(1863年-1903年)
39代資宗の養子
(柳原光愛の子)
正三位 伯爵
宮内省官僚
貴族院議員(1900年-1903年)
42 日野資謙
(1903年-1925年)
先代の子 伯爵
43 日野捷郎
(1895年-1962年)
41代資秀の婿養子
(実吉安純の子)
伯爵
ドイツ文学者
妻と離縁し実吉に復姓
44 日野資純
(1926年-2019年)
先代の子 伯爵
国語学者

系図

実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。

分家

同じ藤原北家真夏流の堂上家には、広橋家柳原家烏丸家竹屋家日野西家勘解由小路家裏松家外山家豊岡家三室戸家北小路家の12家がある。また親鸞の末裔である本願寺門主の大谷家は、堂上家ではないが、繁栄する教団の政治力と財力を背景にして堂上家と同格の准門跡の格式を獲得した。これらの家はいずれも維新後華族に列した。

江戸前期、旗本花房正栄の息子で、外祖父にあたる日野輝資の養子に入った日野資栄は日野家から分家して江戸幕府高家旗本となり、1533石余を知行した。王政復古後の慶応4年(1868年)3月には江戸を引き払って上京し、同年4月に新政府に勤王誓詞を提出。これにより本領を安堵されて朝臣に列して旧高家として中大夫席に列せられた。明治2年(1869年)に中大夫以下の称が廃されると士族に編入された。華族令で華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や『叙爵規則』案(『爵位発行順序』所収)では元高家が男爵に含まれており、旧高家日野家も男爵家の候補として挙げられていたものの、最終的な『叙爵内規』では元高家は対象外となったため結局同家は士族のままだった[38]

脚注

注釈

  1. ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の日野家領は、山城国愛宕郡田中村のうち40石5斗2升6合、山城国葛野郡下津林村のうち253石、山城国葛野郡東梅津村のうち219石3斗7升3合、山城国葛野郡西梅津村のうち78石7斗2升7合、山城国紀伊郡吉祥院村のうち304石、摂津国島上郡大塚村のうち12石1斗3升、摂津国島上郡磯島村のうち243石2斗1升7合であり、合計7村、1,150石9斗7升3合。
  2. ^ 明治3年12月10日に定められた堂上華族の家禄の計算方法は、本禄米に分賜米・方料米・救助米・臨時給与を合算して現高を出し、現米と草高の比率である四ッ物成で計算して草高を算出し、その二割五分を家禄とするものである[32]
  3. ^ 日野家の大納言直任(中納言からそのまま大納言になることを直任といい、直任される家は中納言を一度辞してから大納言になる家より格上と見なされていた)の回数は15回なので叙爵内規の伯爵の基準である「大納言まで宣任の例多き旧堂上」に該当[35]
  4. ^ 藤原永範の養子。一説には藤原良仁7世孫である斎宮次官・藤原利永の子とも。
  5. ^ 藤原実光の末子。
  6. ^ 三善為教の子。
  7. ^ 広橋兼郷の子。
  8. ^ 徳大寺実淳の次男。初めは将軍足利義高(義澄)の偏諱を賜って高光、澄光を名乗っていた。
  9. ^ 広橋国光の子。
  10. ^ 旗本寄合席5,000石・花房正成の子。
  11. ^ 安芸国広島藩浅野氏家老の上田重次の子
  12. ^ 冷泉為綱の次男。
  13. ^ 婿養子。高家旗本畠山義紀の次男
  14. ^ a b 烏丸光栄の子。
  15. ^ 丹波篠山藩主青山忠裕の子。
  16. ^ 広橋胤定の七男。
  17. ^ 柳原光愛の五男。
  18. ^ 実吉安純の六男。

出典

  1. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 325.
  2. ^ 太田 1934, p. 5031.
  3. ^ a b c d e f g 日野家」『日本大百科全書(ニッポニカ)、百科事典マイペディア、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、旺文社日本史事典 三訂版、世界大百科事典 第2版』https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%AE%B6コトバンクより2022年11月16日閲覧 
  4. ^ a b c d 吉見 1994, p. 39.
  5. ^ a b c 吉見 1994, p. 42.
  6. ^ a b c 太田 1934, p. 5033.
  7. ^ 吉見 1994, p. 42-47.
  8. ^ 吉見 1994, p. 43.
  9. ^ 吉見 1994, p. 52.
  10. ^ 吉見 1994, p. 52-54.
  11. ^ 家永遵嗣 2013, p. 47.
  12. ^ a b 家永遵嗣 2013, p. 55.
  13. ^ 吉見 1994, p. 54.
  14. ^ a b c 吉見 1994, p. 55.
  15. ^ 吉見 1994, p. 52-55.
  16. ^ 八木聖弥「『看聞日記』における病と死(4)」『Studia humana et naturalia = Studia humana et naturalia』第40巻、京都府立医科大学医学部医学科 (教養教育)、2006年、13頁、ISSN 03856755NAID 110006459480 
  17. ^ a b 家永遵嗣 2013, p. 75.
  18. ^ a b 日野有光」『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%87%8E%E6%9C%89%E5%85%89コトバンクより2022年11月16日閲覧 
  19. ^ 日野勝光」『朝日日本歴史人物事典、日本大百科全書(ニッポニカ)、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%8B%9D%E5%85%89コトバンクより2022年11月16日閲覧 
  20. ^ a b c d e f 日野富子」『朝日日本歴史人物事典、日本大百科全書(ニッポニカ)、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%AF%8C%E5%AD%90コトバンクより2022年11月16日閲覧 
  21. ^ 吉見 1994, p. 122.
  22. ^ 吉見 1994, p. 201.
  23. ^ 吉見 1994, p. 172-173.
  24. ^ 吉見 1994, p. 173.
  25. ^ 日野内光」『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%86%85%E5%85%89コトバンクより2022年11月16日閲覧 
  26. ^ 日野輝資」『朝日日本歴史人物事典、世界大百科事典 第2版』https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%BC%9D%E8%B3%87コトバンクより2022年11月16日閲覧 
  27. ^ 日野資愛」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%B3%87%E6%84%9Bコトバンクより2022年11月16日閲覧 
  28. ^ a b c 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 410.
  29. ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
  30. ^ 浅見雅男 1994, p. 24-25.
  31. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 10.
  32. ^ 刑部芳則 2014, pp. 105–106.
  33. ^ 石川健次郎 1972, p. 50.
  34. ^ a b 石井孝太郎 1881, p. ひ之部.
  35. ^ 浅見雅男 1994, p. 118.
  36. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 156.
  37. ^ 実吉 捷郎」『20世紀日本人名事典』https://kotobank.jp/word/%E5%AE%9F%E5%90%89%20%E6%8D%B7%E9%83%8Eコトバンクより2022年11月16日閲覧 
  38. ^ 松田敬之 2015, p. 601.

参考文献


日野家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 04:48 UTC 版)

少年メイド」の記事における「日野家」の解説

千尋クラスメート祐司家族造園業営んでおり子だくさんも3匹いる。自宅は割と古風な日本建築一軒家だが、台所リフォームされている模様アニメ10話)。年齢及び学年特記のない限り物語開始及び翌年時点原作では2巻家族全員登場しており、アニメでは9話までに全員登場した3話きょうだい紹介7話授業参観参加していない美枝イメージ画を除く)。小説版では家族紹介はあるものの、祐司以外で登場した人物祖父・母2人の姉のみとなる。 日野 祐司(ひの ゆうじ) 声 - 斎賀みつき / 梶裕貴 日野家の次男小学5年生6年生10月1日生まれAB型千尋とは1年生の時から同じクラスメイトであり親友で、千尋を家に連れていく仲。母親亡くし天涯孤独となった千尋を心配していたが、引っ越し先訪れた時の千尋と円の関係を見て安心し千尋メイド服姿にも理解示していた。円や美耶子とも携帯メール送り合う仲で、頻繁に連絡取っている。また有頂天BOYSの竜児とも連絡取った千尋の家でゲームをする仲でもある。辛口カレー好物甘口邪道というほど。同様に玉子焼き塩味派。別荘行った際は円が一郎飲もうとして用意したウイスキー一緒に飲もうコップ差し出したり、お花見では祖父からの差し入れとして日本酒持参し一郎没収される。 妹の花子にはかなり甘く学校ではシスコンと言われるほどで、千尋花子結婚相手にしようと本気で考えていたり(原作2巻おまけ、アニメ3話予告小説6章)、運動会では花子親しく話している円を見て厳し視線浴びせたりした。その一方で兄の耕司や2人の姉には厳しく過去作文朗読された屈辱から姉を「悪魔」と呼ぶほどで、花子を姉のようにはさせないように育てているつもりでもあった。 観察眼鋭く千尋引き取られた家で無理しているのではないかと気にかけたり、一砂のことを千尋祖母ではないかと勘づいていた。同級生の女子からは「割と大人ぶってる」と言われている(アニメ11話)。 通学にはランドセルではなく斜め掛けボディバッグ使用している。 日野おじいちゃん 声 - 塩屋翼 日野家の家父長で「日野造園」の棟梁である庭師下の名前不明豪快気風がいい。アニメのキャストテロップでは「日野祖父」と表記されている。 千尋千代とは面識があり、千尋がよく懐いていて、千代亡くなったときも身寄りのいなくなった千尋引き取ることも考えていたほど。一方で鷹取家の庭の手入れをしていたため円とも面識がある。その円を「変わり者のにーさん」との印象持ち千代の弟と知ったときは驚きを隠さなかった。 千尋制服を「かーいらしい(可愛らしい)作業着」と誉めていたが、当の千尋心中複雑な気持ちだった。 バレンタインチョコ茶飲み友達お婆さんから近所女子中学生まで満遍なくもらってくるため、祐司から猛者呼ばれている。 日野家で悪さをすると最終的に拳骨をする係になっており(祐司曰くラスボス)、鷹取家の庭の手入れ訪れた時の祐司いい加減な挨拶にも拳骨をしていた(原作第9話アニメ3話小説6章)。 常に作業服姿で頭にタオル巻いているが、原作2巻のおまけではタオル取った姿を見せたり原作29話(花子小学校入学家族での記念撮影)では袴姿で登場している。 日野 耕司(ひの こうじ) 声 - 福島潤 日野家の長男大学生。全財産126円を払ってでも話に入りたがる混ざりたがり。アニメでは後ろ姿のみだが4話で妹の花子一緒にTV見ているシーン初登場。日野家で悪さをして祐司祖父拳骨されるときは一緒にごめんなさいをしてくれる係でもある。 大学授業自主休講し、葉子と共に祐司授業参観足を運んだ運動会では朝早くから並んで保護者席の場所を確保し、場所を確保できなかった円ら招き入れたり、親子競技祖父と共にジャンケン勝って祐司組んで参加した一方花子には祖父組んでいる)。 花子とは一緒に子供向けアニメ見た魔法少女ごっこをするなど仲が良い友達との交換ノート祐司見られ家出したときにはつかまえてと言われ事情知らず祐司捕まえていた(原作第23話)。 バレンタイン成果徳用麦チョコ駄菓子系のチョコレートばかりだった(4巻おまけ)。 千尋に「お兄ちゃん」と呼ばれたい願望があり、千尋を弟にしたいと考えていた。さらには生前千代のことをめっちゃ美人だったと語り千代含めて日野家の家族にしたいと言うほどで、泊りに来たとき(2回目単行本10巻番外編)は千尋たちのために部屋増築することを決意する毎回突拍子もない言動や行動をするため、祐司や妹らからは「キモい」「ウザいと言われている。 ハロウィンでのランタン作り時には花子からは「(千尋への)感謝強要ダメ」と釘を刺される一方あれこれ引き受けた千尋には「自分一人抱えこまないでもっと頼ってほしい」と言葉をかけている(原作44話)。 日野 葉子(ひの ようこ) 声 - 中原麻衣 日野家の長女短大生千尋に「お姉さま」と呼ばれたい願望がある。 鷹取家に訪れた際に円を見て変な人だけど美形だったわ」と母親伝えている。 歌劇団かアイドル追っかけで、アニメ11話で妹や祐司同級生らと千尋の家に向かう途中有頂天BOYSの3人を見かけ驚いていた。 短大休講だったため、兄の耕司と共に祐司授業参観行ったアニメでは葉子花子を除く家族総出足を運び、耕司共々自主休講変更されている)。 祐司祖父バレンタインチョコの数対決では祐司の「まんじゅうノーカン」の異議対しラッピングに本気臭がしたので有り」というジャッジ下す日野 美(ひの みえ) 声 - 水橋かおり 日野家の次女高校2年生3年生。 円の印象は「美形だったわ人見知りだけど」と母親伝え密かに撮影していた携帯電話画像見せている。葉子同様歌劇団かアイドル追っかけで、同じく千尋に「お姉さま」と呼ばれたい願望がある。 円の作った花子魔法少女服を持って着ている姿をイメージし決めセリフをしている所を祐司見られ慌てていた(単行本5巻おまけ)。 高校生であるため、アニメ版での祐司授業参観には花子共々参加していない。そのためアニメでの初登場イメージ画は除く)は9話と遅い。 日野 花子ひの はなこ) 声 - 矢島晶子 日野家の三女年長小学1年生。自らを「花」と呼ぶ。 泣きおとしで祐司説得して千尋会い行き千尋制服を「ひらひらのかわいーね」と羨ましそう見て千尋心中複雑にさせた(原作2巻おまけ)。 友達との秘密の交換ノート祐司見られたことて家出して千尋の家へ駆け込みそのまま一晩を過ごす。そのときに円に魔法少女風の服を作ってもらう(原作第23話アニメ9話)。 千尋のことは平仮名表記の「ちひろくん呼びで、円のことは「円ちゃん」と呼び千尋とは会うたびに駆けながらハグをするのが定番となっている。 秘密の交換ノートやり取りしている友達とは小学校でも同じクラスになり、学校内では一緒に行動することが多い。 日野 慎司(ひの しんじ) 声 - 斎藤桃子 1歳2歳。日野家の三男で6人きょうだい末っ子アニメ版では7話授業参観父親抱きかかえられている)とOVAでの祐司祖父とのチョコの数勝負祖父負けた祐司慰める)の場面のみに登場した。なお、アニメ内での台詞授業参観内の「バーブビー」のみだった。 祐司両親 声 - 竹内栄治(父)、植田佳奈(母) 日野家6人きょうだい父親母親どちらも下の名前不明だ新婚のように仲が良い千尋からは「おじさん」「おばさん」と呼ばれている。日野家で悪さをするとラスボスである祖父前に母(中ボス1)→父(中ボス2)の順で叱られる父親原作ではぎっくり腰祐司授業参観行けなかったり、運動会親子競技ではじゃんけん負けて参加できず悔しがっていた。アニメ版では7話授業参観11話に登場している。 母親肩こり父親同様祐司授業参観行けなかった(原作のみ)。7巻番外編千尋祐司誘われて初めて日野家に遊びに来た際、千尋行儀良さカルチャーショック受けたり、(葉子千尋から美人と言われたことを聞き自分美人と言われたいと拗ねて毎日お父さん言われてるからいいでしょ」とツッコミ入れられている。その千尋のことを祐司祖父同様気にかけ、お彼岸用のぼたもちお裾分け作り方教えたり小説版では草餅を沢山作って千尋招待している)、運動会では千尋らと食べることを考えお弁当多く作っていた。円のことは鷹取家を訪れた上の娘2人から話を聞いて心という印象持ち運動会花子ふれあってる姿を微笑ましく見つめていた。 日野家のわんこ 祐司の家で飼われている3匹の茶色い大型犬太郎丸、黒に近いグレー中型犬がちびすけ、白い小型犬たんぽぽ名付けられている(体毛色はアニメ第3話登場時)。3匹とも祖父服従しており、千尋幼少時代)にも懐いている。 原作では7巻番外編登場したほかに8巻38話で祐司散歩に出かけているシーンがあるが、アニメ版では3話での日野家のきょうだい紹介一緒に登場しているのみ。小説版ではちびすけのみ登場し濃茶色の柴犬系の雑種紹介されている。 名前は原作単行本7巻番外編記載

※この「日野家」の解説は、「少年メイド」の解説の一部です。
「日野家」を含む「少年メイド」の記事については、「少年メイド」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「日野家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

','','','','','','','','','','','','','','','','','',''];function getDictCodeItems(a){return dictCodeList[a]};

すべての辞書の索引

「日野家」の関連用語






6
34% |||||

7
34% |||||

8
32% |||||

9
30% |||||

10
30% |||||

日野家のお隣キーワード
検索ランキング
';function getSideRankTable(){return sideRankTable};

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日野家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの日野家 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの少年メイド (改訂履歴)、でびるち (改訂履歴)、賢い犬リリエンタール (改訂履歴)、鎌倉時代の人物一覧 (改訂履歴)、高家 (江戸時代) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS