たいら‐の‐ときただ〔たひら‐〕【平時忠】
平時忠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/01 09:26 UTC 版)
平 時忠(たいら の ときただ)は、平安時代末期の公家。桓武平氏高棟流(堂上平氏)、兵部権大輔・平時信の子。官位は正二位・権大納言。母は二条大宮(令子内親王)の半物(はしたもの、下仕えの女房)をしていた女性(氏素性は未詳)。平清盛の継室である平時子の同母弟。後白河法皇の寵妃で高倉天皇の母・建春門院は異母妹にあたる。平大納言、平関白と称された。
注釈
出典
- ^ 『吉記』治承5年(1181年)5月28日条
- ^ 『兵範記』仁安3年(1168年)2月11日条
- ^ a b 『吾妻鏡』文治5年(1189年)3月5日条
- ^ a b 『兵範記』
- ^ 『百錬抄』
- ^ a b c 『玉葉』
- ^ 『玉葉』治承2年12月30日条
- ^ 『山槐記』治承3年正月19日条
- ^ 『玉葉』治承4年8月12日条
- ^ 『玉葉』治承4年8月29日条
- ^ 『山槐記』治承4年8月29日条
- ^ 『玉葉』治承4年11月5日条
- ^ 『吉記』治承4年11月6日条
- ^ 『玉葉』治承4年11月12日条
- ^ 『玉葉』治承4年10月20日条
- ^ 『吉記』治承4年11月12日条、『玉葉』治承4年11月16日条
- ^ 『吉記』治承4年11月21日条
- ^ 『吉記』治承4年11月22日条
- ^ 『山槐記』治承4年11月30日条
- ^ 『玉葉』治承4年12月13日条
- ^ 『山槐記』治承4年12月10日条
- ^ 『玉葉』治承5年2月4日条
- ^ 『玉葉』養和元年(1181年)8月1日条
- ^ 『平家物語』
- ^ 『山槐記』元暦元年7月6日条
- ^ 『吾妻鏡』元暦元年2月20日条
- ^ 『玉葉』元暦2年5月3日条
- ^ 元木泰雄『源義経』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2007年。
- ^ 『吾妻鏡』元暦2年5月16日条
- ^ 『吾妻鏡』元暦2年9月2日条
- ^ 『山槐記』元暦2年9月23日条
- ^ 『玉葉』文治2年正月23日、24日条
- ^ 『吾妻鏡』建久6年7月19日条
- ^ “平時忠卿及びその一族の墳・浅井畷古戦場”. 石川県 (2010年9月21日). 2013年4月1日閲覧。
- ^ 『玉葉』安元2年(1176年)7月8日条
- ^ 『愚管抄』
- ^ 『百錬抄』『山槐記』治承3年(1179年)5月19日条
- ^ 山田孝雄 編『平家物語』宝文館、1933年。doi:10.11501/1235982。NDLJP:1235982/85。
- ^ 曽我良成 (2017年1月31日). 物語がつくったおごれる平家. 臨川書店
- ^ 『時国家史料叢書』
- ^ 重要文化財 時國家
- 1 平時忠とは
- 2 平時忠の概要
- 3 時忠の母について
- 4 系譜
平時忠
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公家平氏(堂上家)の長者。清盛の継室・二位の尼の兄。平氏政権において大納言にまで昇り、大いに権勢を振るった。気位が高くこの上なく傲慢で、平氏の最盛期には「平家にあらずんば人にあらず」とまでのたまった。しかし決して軽忽な人物ではなく、宮廷の表裏を知り尽くした経験に裏打ちされた政治眼を備えている。
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