難波家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/10 06:38 UTC 版)
難波家 | |
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本姓 | 藤原北家花山院家 |
家祖 | 藤原忠教 |
種別 | 公家(羽林家) 華族(子爵) |
出身地 | 山城国 |
主な根拠地 | 山城国 東京市大森区 |
著名な人物 | 難波頼輔 難波頼経 難波宗長 難波宗勝 |
支流、分家 | 飛鳥井家(公家・伯爵) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
難波家(なんばけ)は、藤原北家花山院流の公家、華族だった家[1][2]。公家としての家格は羽林家、華族としての爵位は子爵[3]。支流に飛鳥井家がある[4]。
歴史
平安時代後期の摂政太政大臣藤原師実の五男の権大納言藤原忠教を祖とする[1][2]。その子である頼輔は蹴鞠に秀でており「本朝蹴鞠一道長」と謳われた[1]。その子頼経は源義経の同盟者として伊豆に流された[1]。その子宗長は蹴鞠の難波流の祖となり、弟雅経も飛鳥井流の祖となった[1]。以降鎌倉時代を通じて蹴鞠の名手を出して難波流を伝承する家となった。特に宗緒はわずか14歳で天皇の師範を務めたことで知られた[1]。
南北朝時代に宗富の死去で絶家となる[1]。15世紀に入ると蹴鞠の難波流も衰え、飛鳥井流が主流となった[5]。江戸時代初期に飛鳥井雅庸の次男宗勝によって再興されたが[1][2]、宗勝は慶長14年(1609年)の猪熊事件に連座して配流、3年後に赦免されて帰京、名を雅胤(後に雅宣)と改め実家の飛鳥井家を相続している。難波家の方は宗勝の実子宗種が継いだ。
公家としての家格は羽林家[3]、旧家、内々[2]。家業は蹴鞠[2]。江戸時代の家禄ははじめ300石、方領100石、中期に180石、後に300石、明治初期に307石だった[2][注釈 1]。
明治2年(1869年)に公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると難波家も旧公家として華族に列し、明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると、大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 2]として宗美が子爵に叙爵された[3]。
宗美は陸軍軍人となり、輜重兵大尉まで進級した[7]。子の宗治は満州電気水道会社大連支社長や京都市主事などを務めた[7]。
系譜
- 実線は実子、点線は養子。
藤原師実 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠教1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠兼 | 師教 | 忠基 | 親忠 | 有教 | 教長 | 難波頼輔2 | 基教 | 教良 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
教宗 | 家通 | 基家 | 忠仲 | 頼経3 | 教範 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
基保 | 忠行 | 宗長4 | 頼教 | 経長 | 輔長 | 飛鳥井雅経 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠泰 | 範保 | 忠長 | 宗基 | 宗教5 | 忠長 | 輔長 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
範綱 | 光保 | 宗有 | 宗広 | 教継6 | 教俊 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
保世 | 茂保 | 宗賀 | 宗継7 | 宗継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠成 | 宗緒8 | 宗有 | 宗夏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗清9 | 宗秀 | 宗久 | 宗富 | 宗国 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗仲10 | 宗音 | 宗康 | 宗世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗相11 | 宗藤 | 宗敦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗興12 | 宗富 | 宗名 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗富13 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(再興) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗勝14[8] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗種15 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗量16[9] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗尚17[10] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗建18 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗城19 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗董21 | 宗功 | 宗正 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗功22 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗職23 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗弘24 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗礼25 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗美26 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h 「難波家」『ブリタニカ国際大百科事典小項目事典世界大百科事典 第2版』 。コトバンクより2022年11月16日閲覧。
- ^ a b c d e f 太田亮 1934, p. 4336.
- ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 334.
- ^ 「飛鳥井家」『ブリタニカ国際大百科事典小項目事典、百科事典マイペディア、世界大百科事典 第2版』 。コトバンクより2022年11月16日閲覧。
- ^ 「難波流」『世界大百科事典』 。コトバンクより2022年11月23日閲覧。
- ^ 浅見雅男 1994, p. 118.
- ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 312.
- ^ 分家飛鳥井雅庸の次男。
- ^ 飛鳥井雅章の子、宗種の従兄弟。
- ^ 飛鳥井雅章の子、宗量の実弟。
参考文献
- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- 太田亮 著「国立国会図書館デジタルコレクション 難波 ナニハ」、上田, 萬年、三上, 参次 監修 編『姓氏家系大辞典』 第1巻、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、4336頁。 NCID BN05000207。OCLC 673726070。全国書誌番号:47004572 。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
系譜参考
- 日本の名字七千傑「藤原氏師実流」
- 公卿類別譜「難波」 - ウェイバックマシン(2008年12月11日アーカイブ分)
難波家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:45 UTC 版)
(山口県熊毛郡周防村(現在の光市)) 父・市蔵 妻・ロク明治4年(1871年)7月生 - 没 山口県平民、国光左衛門の長女 男・正太郎(黒川正太郎)明治24年(1891年)9月生 - 没 1926年、作之進の弟・黒川本蔵の家籍に入り、1927年に分家する。1916年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、久原鉱業(現・ENEOSホールディングス)勤務を経て、1936年に弁護士を開業。後に東満セメント代表、東満州産業専務取締役、琿春炭鉱取締役を歴任。趣味は園芸。宗教は神道。 同妻・ヤス明治27年(1893年)12月生 - 没 山口県人、市川清の妹、防府高女卒 三男・義人(吉田義人)明治29年(1896年)8月生 - 昭和37年(1962年)2月26日没 吉田駒三郎の長女である登代の婿養子となる。1920年に京都帝国大学法学部政治科を卒業後、三菱造船会社営業課に入り、後に長崎製鋼所に転じる。戦後、GHQの指令で三菱重工が23社に細分されかけた時、高官に接近して贈賄し、東日本・中日本・西日本の3社にとどまらせた。後に新三菱重工業社長。 四男・大助明治32年(1899年)11生 - 大正13年(1924年)11月没 五男・健亮(黒川健亮)明治35年(1902年)9月生 - 没 1927年、京都帝国大学経済学部卒業。1946年9月、白木産業(白木屋の子会社)専務に就任。1956年6月、蛇の目ミシン工業に転じ、のち常務取締役に就任。趣味は碁。宗教は神道。 同妻・辰子明治43年(1910年)4月生 - 没 山口県人、弘中武一の長女、日本女高専卒 次女・安喜子明治39年(1906年)11月生 - 没 山口県人、吉賀忠夫の妻 五女・弥代子大正2年(1913年)3月生 - 没 弟・本蔵(黒川本蔵)明治6年(1873年)8月生 - 没 同妻・フサ明治14年(1881年)1月生 - 没 山口県人、山本梅治の女 妹・マサ明治9年(1876年)2月生 - 没 山口県士族、妻木忠太の妻
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