ほうじ‐かっせん〔ホウヂ‐〕【宝治合戦】
宝治合戦
宝治合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/26 07:06 UTC 版)
宝治元年(1247年)、5代執権・北条時頼と有力御家人三浦氏の対立が激化すると、業を煮やした景盛は老齢の身をおして高野山を出て鎌倉に下った。景盛は三浦打倒の強硬派であり、『吾妻鏡』によれば「三浦一族、傍若無人の勢い」と憤り、三浦氏の風下に甘んじる子の義景や孫の泰盛の不甲斐なさを厳しく叱責した。時頼は三浦氏との和解を模索しており、景盛は連日時頼と談合を繰り返していたが、時頼が三浦氏殲滅の舵切りをすることはなく、自分の思う通りにいかない景盛は業を煮やして息子や孫に八つ当たりをした、と、この『吾妻鏡』の記述は解釈される。 景盛は三浦氏との妥協に傾きがちだった時頼を説得して一族と共に三浦氏への挑発行動を取るなどあらゆる手段を尽くして宝治合戦に持ち込み、三浦一族500余名を滅亡に追い込んだ。例えば、5月21日に三浦氏を糾弾する趣旨の立札が建てられたが、これも安達氏の策謀の一環だとされる。安達氏は頼朝以来源氏将軍の側近ではあったが、あくまで個人的な従者であって家格は低く、頼朝以前から源氏に仕えていた大豪族の三浦氏などから見れば格下として軽んじられていたという。また三浦泰村は北条泰時の女婿であり、執権北条氏の外戚の地位を巡って対立する関係にあった。景盛はこの期を逃せば安達氏が立場を失う事への焦りがあり、それは以前から緊張関係にあった三浦氏を排除したい北条氏の思惑と一致するものであった。 この宝治合戦によって北条氏は幕府創設以来の最大勢力三浦氏を排除して他の豪族に対する優位を確立し、同時に同盟者としての安達氏の地位も定まった。幕府内における安達氏の地位を確かなものとした景盛は、宝治合戦の翌年宝治2年(1248年)5月18日、高野山で没した。
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