日野西家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/23 13:55 UTC 版)
日野西家 | |
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本姓 | 藤原北家日野流広橋支流 |
家祖 | 日野西資国 |
種別 | 公家(名家) 華族(子爵) |
出身地 | 山城国 |
主な根拠地 | 山城国 京都市上京区上賀茂壱町 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
日野西家(ひのにしけ)は、藤原北家日野流広橋家の支流にあたる公家・華族の家。公家としての家格は名家、華族としての家格は子爵家。家紋は鶴丸。
歴史
南北朝時代末期に日野時光の三男の准大臣資国(贈・左大臣[1])によって創設される。資国の妹は将軍足利義満の室[1]。盛光・資宗と続くが資宗の子の朝光が早世したため中絶した[1]。
江戸時代に広橋総光の三男の右兵衛佐総盛が日野西を称して再興する[1][2]。江戸時代の家禄は200石[1]。国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によると、幕末期の日野西家領は山城国葛野郡上桂村のうち200石である。
明治維新後、家禄を289石に加増された[1]。明治2年(1869年)に華族に列し、明治17年(1884年)7月8日、華族令施行により華族が五爵制になると、光善が子爵に叙せられる[3]。光善は平安神宮などの宮司を務めた後、貴族院の子爵議員に当選して務めた[4]。
その息子の2代子爵日野西資博は宮内省に出仕し、侍従、宮内事務官、内匠寮京都出張所所長、宮中顧問官などを歴任した[4]。
昭和前期に日野西子爵家の邸宅は京都府京都市上京区上賀茂壱町にあった[2]。
系図
日野西家が登場する作品
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f 太田 1934, p. 5038.
- ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 200.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 325.
- ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 201.
参考文献
- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- 太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 日野 ヒノ」『姓氏家系大辞典』 第5、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、5029頁。 NCID BN05000207。OCLC 673726070。全国書誌番号:47004572 。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
関連項目
外部リンク
- 公卿類別譜(公家の歴史)日野西 - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分)
- 日野西家(名家) - (世界帝王辞典)
固有名詞の分類
- 日野西家のページへのリンク