ひご‐の‐くに【肥後国】
読み方:ひごのくに
⇒肥後
肥後国
肥後国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/27 05:16 UTC 版)
肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、熊本県に属する。
注釈
出典
- ^ 『和名類聚抄 20巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)29コマ参照。
- ^ 『拾芥抄 3巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)59コマ参照。
- ^ 『節用集 易林本』(国立国会図書館デジタルコレクション)144コマ。
- ^ a b 中世諸国一宮制 & 2000年, p. 621.
- ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 618-621。
- ^ a b 中世諸国一宮制 & 2000年, p. 620.
- ^ 三角町史編纂委員会編纂 『三角町史』 三角町役場、1987年。
肥後国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 09:28 UTC 版)
米良氏は、南北朝時代には南朝方につき、敗れた後、九州山地の肥後国米良郡米良山中に逃れた名族菊池氏の末裔である。徳川家康より米良山が鷹巣山に指定されたことが縁で召し出され、交代寄合衆(四衆に準ずる家)となった。米良氏は江戸中期以降は肥後国米良の中心地小川(現・宮崎県児湯郡西米良村小川)に館を構えた。領地が山中のため米はほとんど収穫できず、石高は無高とされたが、材木、楮、茶、椎茸などを金穀に換えて収入としていた。米良氏が発行した旗本札には、文久2年(1862年)頃発行と推定される五百文、百文、四十八文の額面の御勝手座発行の銭預札がある。米良氏は軍事的・政治的・経済的に肥後国人吉藩、日向国諸藩、薩摩藩など領境を接する諸藩と強いつながりを持っていたが、これら3地域は、藩札の額面表記(銀建て、銭建てなど)や様式についてそれぞれ異なった特徴を有する。米良氏の旗本札は、銭額面表記、札面の様式などから日向国諸藩の藩札の影響が強い。
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