落胤
落胤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 14:19 UTC 版)
能久親王の不慮の薨去後、その外妾だった申橋カネと前波栄がそれぞれ所生の芳之と正雄が親王の後胤だと名乗り出てきた。そこで宮内省が入念な調査を行ったところ、果たして両名とも確かに親王の五男と六男であり、親王も生前その事実を把握していたことが判明した。しかし親王はすでに鬼籍にあり、この両名を認知する旨を記した遺言書もなかったことから、彼らを法的には親王の子として認知することはできず、したがって皇族の一員として王となすこともできなかった。一般の臣民であれば父親の死後でもその子が原告として検察官を相手取るかたちで強制認知の形成を提起する民事訴訟に持ち込むこともできたが、皇室典範にはこうした事態を想定した条文はなく対応する手段を欠いたのである。それでも北白川宮家では他の庶子と同様に富子妃がこの両名を引き取って養育することにした。そこで平民の子供が宮家の一員として生活するという不都合を回避するため、翌明治30年(1897年)明治天皇は優諚によりまだ満8歳と満7歳のこの両名を特に華族に列して伯爵に叙すとともに、それぞれに新たに「二荒」と「上野」の家名を下賜した。当時は皇族の内規により、原則として宮家に生まれた王は、その宮家の継嗣となるか、あるいは皇女と結婚することで天皇の婿として新たに一宮家を創始することができない限り、成人に達した後に臣籍降下し華族に列して一家を起こすことになっていたが、この両名も王に準じるということで実質的にこの内規を前倒しにして適用したものと考えることができる。 なお二荒芳之は病弱で子をなさぬまま満21歳で卒去したが、生前からのたっての願いを容れてその後目には芳之の異母妹である拡子女王を富子妃の実弟にあたる伊達宗徳の九男・芳徳にめあわせ、このふたりを夫婦養子に迎えるかたちで二荒伯爵家を継がせているが、そこには芳之が幼い頃の自身を受け入れてくれた北白川宮家や嫡母として親身に子育てをしてくれた富子妃に対して最期までたいへん気を遣っていた様子が見て取れる。
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