藤原顕業とは? わかりやすく解説

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藤原顕業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 03:45 UTC 版)

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藤原 顕業(ふじわら の あきなり、寛治4年(1090年) - 久安4年5月14日1148年6月2日))は、平安時代後期の貴族藤原北家真夏流(大福寺流)、右少弁藤原俊信の長男。官位正三位参議

経歴

白河院政期中盤の天永2年(1111年文章得業生に補せられ、永久3年(1115年)対策に及第し、翌永久4年(1116年六位蔵人となる。のち、左衛門少尉検非違使尉)を兼ね、元永2年(1119年)従五位下・宮内少輔に叙任された。

勘解由次官を経て、天治2年(1125年)従五位上・丹後権介に叙任されて地方官に転じる。任期を終えて帰京後の大治5年(1130年鳥羽院判官代を務め、大治6年(1131年正五位下に昇叙された。

長承元年(1132年)左少弁に遷ると、長承3年(1134年従四位下・右中弁、保延3年(1137年)左中弁、保延4年(1138年)従四位上次いで正四位下弁官を務めながら順調に昇進する。保延5年(1139年)には春宮・躰仁親王の学士も兼ね、永治元年(1141年)躰仁親王が即位近衛天皇)すると、学士の功労により従三位参議兼左大弁に叙任されて公卿に列した。

議政官として引き続き弁官(左大弁)を兼帯する一方、天養元年(1144年)には式部大輔を兼ねて文人官僚の筆頭となる。久安4年(1148年)正月に大弁の労により正三位に至るが、5月11日に出家し、14日に薨去享年59。

官歴

公卿補任』による。

系譜

注記のないものは『尊卑分脈』による。

  • 父:藤原俊信
  • 母:菅原是綱の娘
  • 妻:大江有継の娘
    • 男子:藤原俊業
  • 妻:大江有経の娘
    • 男子:藤原俊経(1113-1191)
  • 生母不詳の子女
    • 男子:藤原基業
  • 養子女
    • 男子:藤原俊憲(1122-1167)[1] - 実は藤原通憲(信西)の子
    • 男子:顕厳 - 実は中原広忠の子

脚注

  1. ^ 『朝日日本歴史人物事典』

参考文献

  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
  • 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年



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