藤原道隆とは? わかりやすく解説

ふじわら‐の‐みちたか〔ふぢはら‐〕【藤原道隆】

読み方:ふじわらのみちたか

953〜995]平安中期公卿。兼家の長男父の死後、弟道兼を退けて摂政関白となった。娘定子一条天皇皇后中関白(なかのかんぱく)。


藤原道隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/26 05:12 UTC 版)

 
藤原 道隆
藤原道隆(菊池容斎前賢故実』より)
時代 平安時代中期
生誕 天暦7年(953年
死没 長徳元年4月10日995年5月12日
別名 中関白
官位 正二位摂政関白内大臣
主君 冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇
氏族 藤原北家九条流
父母 父:藤原兼家、母:藤原時姫
兄弟 道隆超子道綱、道綱母養女、道兼詮子道義道長綏子兼俊
高階貴子高階成忠娘)、藤原守仁娘、伊予守奉孝娘、橘清子橘好古娘?)、対御方藤原国章娘)
道頼頼親伊周定子隆家原子隆円、頼子、御匣殿周家周頼藤原妍子女房、好親平重義
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藤原 道隆(ふじわらの みちたか、天暦7年〈953年〉- 長徳元年4月10日995年5月12日〉)は、平安時代中期の公卿藤原北家摂政関白太政大臣藤原兼家の長男。官位正二位・摂政・関白・内大臣

花山天皇退位事件(寛和の変)で父兼家の意を受けて宮中で活動。甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進した。娘・定子女御として入内させ、後に中宮となす。父・兼家が死ぬと後を継いで関白となる。朝政を主導するが僅か5年ほどで病没した。

経歴

父の兼家は円融天皇に道隆の同母妹の詮子を女御として送り込み、詮子は懐仁親王(後の一条天皇)を生んでいた。また、同じく同母妹の超子冷泉上皇の女御となり、居貞親王(後の三条天皇)を生んでいた。

永観2年(984年)8月、円融天皇が花山天皇に譲位すると、道隆は従三位に叙せられ、東宮となった懐仁親王の春宮権大夫に任じられる。花山天皇の外祖父は兼家の亡兄・伊尹で、伊尹の子の権中納言義懐が外叔父となり天皇を補佐していた。花山天皇と外戚関係を持つ義懐は脅威であり、そのため、兼家は孫の懐仁親王の早期の即位を強く望んだ。

寛和2年(986年)、兼家は策を講じ、寵妃を失って落胆していた花山天皇を三男の道兼が唆して内裏から寺へ連れ出し、騙すようにして出家させてしまった。天皇が消えて宮中が大騒ぎになっている間に、道隆は弟・道綱と共に神璽宝剣を東宮御所へ運び込む役割を果たした。そして、速やかに懐仁親王が即位した(一条天皇)。一条天皇の外祖父・兼家が摂政となり、嫡男・道隆は正三位権中納言から従二位権大納言へ一気に引き上げられた。永延3年(989年)2月内大臣を拝す。道隆はこれ以上官位が進むのを望まなかったようで、この間、永延元年(987年)10月、従一位に昇叙されるべき所を、嫡男・伊周の正五位下叙爵のために譲っている。

永祚2年(990年)正月、道隆は長女・定子を一条天皇の女御として入内させた。同年5月に病のため兼家が関白を辞すると、代わって関白、次いで摂政となった。7月、父・兼家が死去する。

古事談』などによると、兼家は自分の後継をどの息子にするかを腹心の藤原在国(後の藤原有国)・平惟仲多米国平と諮った。在国は胆力のある三男・道兼をふさわしいとした。一方、惟仲、国平は嫡庶の序によって長男・道隆を推した。結局、後継は道隆となり、この話を知った道隆は在国をはなはだ憎み、関白職に就くと直ちに在国父子の官を奪った。10月に定子を中宮とした。正暦2年(991年)内大臣の官を辞して道兼に譲った。正暦4年(993年)4月22日に再び関白となる。正暦6年(995年)正月、次女・原子を皇太子居貞親王の妃とし、後宮政策の強化を図った。

だが、それから程無く、道隆は病に伏し、長徳元年(995年)3月9日、一条天皇に請うて嫡子の内大臣伊周を内覧とし政務を委任し後継者にしようとしたが、病中の内覧のみ許され、伊周に関白の位を譲る事は許されなかった。4月3日、関白を辞し、伊周の関白就任を再度奏上したが叶わなかった。同6日出家し、10日死没。享年43。死因については、当時流行して多数の貴族の命を奪った疫病ではなく、酒の飲みすぎなどからきた飲水病(糖尿病)の悪化が偶々この時期に重なったものと見られている。

没後

道隆没後、その遺志に反して弟・道兼が関白となり、以後、中関白家の急速な衰退が始まった。道兼は道隆の後を追うように没するが、もう1人の弟である道長が内覧に任ぜられ、これに反発する伊周と争った末に伊周は没落(長徳の変)、以降中関白家が政治の中枢に立つことは無かった。

そうした事情からか、道長やその嫡子の頼通は道隆の怨霊を恐れた。長元2年(1029年)、頼通が東三条殿にて病に倒れた際に陰陽師からはここは道隆が没した場所で、その鬼霊が病を惹き起こしているとして述べ、それを聞いた頼通は一時的に東三条殿を退避して、兼家の弟である深覚に調伏の祈念をさせている[2]

人物

大鏡』や『枕草子』などによれば、道隆は軽口を好んだ朗らかな人であったが、大酒飲みで不羈(「ふき」=自由気まま)な一面もあった。『大鏡』は、藤原済時朝光を飲み仲間とし、道隆らが酔っ払って人前で烏帽子を外した頭を晒した話や[注釈 1]、亡くなる際に念仏を薦められたが、極楽で飲み仲間の済時や朝光と再会することを喜んだ話[注釈 2]を伝えている。その一方で、容貌が端正だった上に、人への気配りが行き届く気の広さを持ち、死の直前に宣命を伝えに来た蔵人頭源俊賢は、彼の優れた立ち居振る舞いを後々まで忘れずに口にかけたという。

『大鏡』の福足君と道隆の項では、兼家の六十歳の賀で舞台に上がってから舞うのを嫌がった甥の福足君(道兼の長男)を見て、道隆は福足君をとらえて共に舞い、誰もが感嘆したという。

官歴

10月11日従五位下に叙す。
11月:昇殿を許される。
1月13日侍従に任ず。
12月18日左兵衛佐に任ず。
12月15日右衛門佐に転任。
1月7日:従五位上に昇叙。
1月8日蔵人に補任。
2月7日伊予権介を兼任。
10月11日:左近衛少将に転任。
1月7日:正五位下に昇叙。
1月28日備後権介に任ず。
1月7日:従四位下に昇叙。
1月:備中権守に任ず。左近衛少将を解任される。昇殿を許される。
10月17日:右近衛権中将に昇任。
1月29日:備中権守を兼任。
1月7日:従四位上に昇叙。
1月7日:正四位下に昇叙。
1月7日:従三位に昇叙。右近衛中将元の如し。
8月27日:春宮権大夫を兼任(ときの皇太子は懐仁親王)。
6月23日:春宮権大夫を止む
7月5日権中納言に転任し、皇太后宮大夫を兼任(ときの皇太后宮は藤原詮子)。右近衛中将元の如し。
7月9日正三位に昇叙。右近衛中将元の如し。
7月13日:右近衛中将を去る
7月20日権大納言に昇任。
7月22日従二位に昇叙。
7月27日正二位に昇叙。
2月23日内大臣に昇任。
7月13日:左近衛大将を兼任。
5月8日関白宣下。左近衛大将元の如し。
5月13日藤原氏長者宣下。
5月26日:関白を止め、摂政宣下。左近衛大将元の如し。
5月30日:左近衛大将を辞退。
7月14日:内大臣を辞退。
4月22日:摂政を止め、関白宣下。
4月3日:関白・藤原氏長者を辞す。
4月6日:出家。
4月10日:死没。享年43。

系譜

山城守・藤原守仁の娘との間に第一子の権大納言道頼を儲けたが、道隆は貴子(高内侍、高階成忠の娘、儀同三司母)との間に生まれた、内大臣伊周・中納言隆家・権大僧都隆円皇后定子ら諸子女を嫡系として優遇した。これは貴子が定子を始めとする「后がね(天皇の后候補)」となる娘を4人産んだ事が大きいと思われる。隆家の子孫からは水無瀬家坊門家堂上家に列した。坊門家は室町時代に断絶となったが、水無瀬家は分家も含めて羽林家として5家を輩出して明治維新まで続き、各家は子爵に列せられた。

西郷隆盛も隆家流菊池氏の末裔と称しており、西郷家の通字「隆」は道隆に由来すると考えられる。

関連作品

テレビドラマ

脚注

注釈

  1. ^ 当時は冠や烏帽子など被り物を常時着けるのが礼儀であり、無帽の頭を晒すことは非常に恥ずべきことだった。ましてや始めから無帽で人前に出ることは、はなはだ礼を失したふるまいとされた。
  2. ^ 当時猛威を振るった疱瘡のため、済時や朝光がいずれも道隆と相前後して亡くなったのは史実であるが、道隆は済時に一ヶ月半以上先立って死没しており、道隆臨終のとき済時に死期が迫っていたかどうかも判らないことから、この逸話の真偽はいずれとも決しがたい。

出典

  1. ^ 小山聡子「平安時代におけるモノノケの表象と治病」小山聡子 編『前近代日本の病気治癒と呪術』思文閣出版、2020年、152-153頁。ISBN 978-4-7842-1988-9
  2. ^ 小右記』長元2年9月13日・18日条[1]
  3. ^ 権記』寛弘8年12月26日条

藤原道隆(ふじわら の みちたか)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 00:57 UTC 版)

姫のためなら死ねる」の記事における「藤原道隆(ふじわら の みちたか)」の解説

定子の父。関白。娘の願い聞き入れて家庭教師募集したが、登用され清少納言行動暴走気味なことに不安を抱き、しばしば局を覗き込んで様子窺っている。妻である貴子との距離が遠いことを気にしている。

※この「藤原道隆(ふじわら の みちたか)」の解説は、「姫のためなら死ねる」の解説の一部です。
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