異常な憎しみ
柴田幸次郎を追う
慶応三年(1867)10月、慶喜、二条城にて大政奉還。
この大政奉還について、学者によって意見がわかれます。
一つは、福地源一郎が「懐往事談」に書いているような
「いったん受け入れておいて、再び委任されるのを期待した」という説。
もう一つは、「徳川慶喜」の著者、家近氏が主張する
「欧米諸国に伍していくには、これまでのような朝幕二重政権ではなく、
天皇の元に挙国一致体制を構築しなければならない
と慶喜自身が考えた」
という説です。
十五代将軍当時の慶喜公。京都にて。
かつてその聡明さを買われて、14代将軍の候補にあげられたとき、
慶喜は父親の斉昭にこんな手紙を出した。
「天下を取るほど気骨が折れることはない。天下を取って仕損じるより、
始めから天下を取らぬほうがよい。だから擁立運動を制止してほしい」
明治の元勲・田中光顕は日記に、
「雨露をしのぐだけの貧しい家に生まれたから、
いつかは王侯貴族のような御殿に住みたいと思っていた」と書いていたが、
薩長(鹿児島県・山口県)などの明治維新の功労者の中には、
そうした本音を持つ者も結構いたのではないかと思うのです。
すでにその環境にいるケーキさんにしてみれば、
底辺から這い上がるような、ドロドロした野望を持つ必要はないわけで…。
慶喜の九男・誠氏の夫人がこんな回顧談を残しています。
「慶喜公という方は不思議な人で、ご自分の人生の大半を
他人が創っているんですね。
公を見たこともない人たちがいろんな(悪意の)逸話を創って…」
慶喜公の孫の富士子さん、17歳の花嫁。まるでお人形さんみたい。
14代将軍家茂と結婚した和宮について、誠氏夫人のちょっと面白い話
「徳川家が宮さまの思う方(熾仁親王)から宮さまを取りあげたように
言われますが、親王と婚約したとき宮さまはまだ6歳ですよ。
愛も恋も起きるひまがありませんでしょ。
川口松太郎さんの「皇女和宮」や、
有吉佐和子さんの「和宮御留」となると、
ウソ、オッシャイという気がしますよ」
ま、それはさておき、当時の状況をざっくりいうと、
会津藩、桑名藩を始め江戸の幕閣、新撰組などの
徳川政権存続を熱望する身内と、今や「ケーキ」と呼び捨てにする
反幕府勢力、加えて「貿易で儲けることしか頭にない」外国勢力。
四面楚歌。ケーキさんでなくても、政権など投げ出したくもなります。
土佐藩の後藤象二郎は、
大政奉還をもって武力衝突を回避しようと薩摩藩に働きかけますが、
西郷隆盛や大久保利通らは全く応じず、
長州藩と呼応して武力討伐に突っ走ります。
薩摩藩内にも倒幕反対の声はあったものの、それも押し切ります。
「王政復古のクーデター」です。
こちらは薩摩藩主父子に下った倒幕の密勅です。
このような天皇の許可が出て初めて倒幕を正当化できるのですが、
「戊辰戦争論」の石井氏は長州藩主への密勅共々ニセモノとしています。
クーデターが起きる10日ほど前の11月下旬、
通詞の福地源一郎は「大坂へまかり越すように」との命令を受け、
軍艦に乗り込み、2日後、「兵庫の浜辺」へ到着。
その数日後、大坂の旅宿にいた福地のもとへ京都から、
「落雷の耳を貫くがごとき」クーデター勃発の知らせが届きます。
翌12日夜半、
京都を追われ「ご疲労の体」の慶喜将軍を大阪城へ迎えました。
その後大阪城には英蘭米仏四国の公使が集まり、
「さてさて、日本国の君主は京都の禁裏か在阪の将軍か」と大激論。
イギリス公使は「内政干渉は一切しない」といいつつ、
「天皇を君主に」と立派に内政干渉。
江戸では薩摩の浪人たちが大暴れ。
怒った親幕府勢力が薩摩藩邸を焼打ちします。
それを聞いた大久保利通はいきり立ち、さらに幕府への攻撃を強めます。
薩摩藩の大久保利通です。
この人はのちに榎本武揚の鎮圧に慶喜をあたらせるよう主張するなど、
冷酷な提案をする人で、「徳川慶喜」の著者は、
「大久保は慶喜に対して異常な憎しみを持っていた」と書いています。
ウヘッ、いやなヤツ。男の嫉妬丸だし。
翌慶応四年(明治元年)1月3日、旧幕府側と新政府側がついに開戦。
これが戊辰戦争の発端となった「鳥羽・伏見の戦い」です。
開戦からわずか3日後の6日夜半、
福地らのもとへ組頭の松平太郎がやってきて、
「将軍はすでに大阪城を退去して江戸へ向かっている。
もうここには誰もいない。君らも早く立ち退け」という。
半信半疑で御用部屋へ行ってみると、
「内閣は寂として一個だに人影はなし」
詰所にきてみると、よほど慌てていたのだろう、
公用書類は散乱し、護身用の拳銃も置きっぱなし。
奉行が正月用に用意した鴨鍋の材料までそっくり残してあった。
ここで大阪城へ行ったときの写真を載せようとしましたが、探せど見つからず。
急きょ、井原西鶴の「一目玉鉾・巻四」から拝借。
置いてけぼりを食った福地ら一同は集まって、
その鴨鍋を「かつ煮、かつ食らい」つつ、今後を話し合った。
福地はその後、敗残兵でごった返す城を抜け、
兵庫奉行・柴田剛中の商船「オーサカ」に拾われて、一路、江戸を目指した。
午後5時ごろ、福地は海上から、
はるか大阪の方角に黒煙があがるのを見た。
「火焔すこぶる盛んなるを見て、
さてこそ大阪の御城はもはや官軍のために、
一炬(いっきょ)にふせられたり(いっぺんに焼かれてしまった)」
そう思いつつ、
ただ首をうなだれて見つめているほかはなかった。
<つづく>
※参考文献・画像提供/「徳川慶喜」家近良樹 日本歴史学会編集
吉川弘文館 2014
/「戊辰戦争論」石井孝 吉川弘文館 2008
/「聞き書き 徳川慶喜残照」遠藤幸威 朝日新聞社
1982
※画像提供/「日本名著全集 西鶴名作集下」「一目玉鉾 巻四」
復刻 日本名著全集刊行会 昭和4年
※参考文献/「世界ノンフィクション全集」「懐往事談」福地源一郎
復刻 筑摩書房 昭和39年
この大政奉還について、学者によって意見がわかれます。
一つは、福地源一郎が「懐往事談」に書いているような
「いったん受け入れておいて、再び委任されるのを期待した」という説。
もう一つは、「徳川慶喜」の著者、家近氏が主張する
「欧米諸国に伍していくには、これまでのような朝幕二重政権ではなく、
天皇の元に挙国一致体制を構築しなければならない
と慶喜自身が考えた」
という説です。
十五代将軍当時の慶喜公。京都にて。
かつてその聡明さを買われて、14代将軍の候補にあげられたとき、
慶喜は父親の斉昭にこんな手紙を出した。
「天下を取るほど気骨が折れることはない。天下を取って仕損じるより、
始めから天下を取らぬほうがよい。だから擁立運動を制止してほしい」
明治の元勲・田中光顕は日記に、
「雨露をしのぐだけの貧しい家に生まれたから、
いつかは王侯貴族のような御殿に住みたいと思っていた」と書いていたが、
薩長(鹿児島県・山口県)などの明治維新の功労者の中には、
そうした本音を持つ者も結構いたのではないかと思うのです。
すでにその環境にいるケーキさんにしてみれば、
底辺から這い上がるような、ドロドロした野望を持つ必要はないわけで…。
慶喜の九男・誠氏の夫人がこんな回顧談を残しています。
「慶喜公という方は不思議な人で、ご自分の人生の大半を
他人が創っているんですね。
公を見たこともない人たちがいろんな(悪意の)逸話を創って…」
慶喜公の孫の富士子さん、17歳の花嫁。まるでお人形さんみたい。
14代将軍家茂と結婚した和宮について、誠氏夫人のちょっと面白い話
「徳川家が宮さまの思う方(熾仁親王)から宮さまを取りあげたように
言われますが、親王と婚約したとき宮さまはまだ6歳ですよ。
愛も恋も起きるひまがありませんでしょ。
川口松太郎さんの「皇女和宮」や、
有吉佐和子さんの「和宮御留」となると、
ウソ、オッシャイという気がしますよ」
ま、それはさておき、当時の状況をざっくりいうと、
会津藩、桑名藩を始め江戸の幕閣、新撰組などの
徳川政権存続を熱望する身内と、今や「ケーキ」と呼び捨てにする
反幕府勢力、加えて「貿易で儲けることしか頭にない」外国勢力。
四面楚歌。ケーキさんでなくても、政権など投げ出したくもなります。
土佐藩の後藤象二郎は、
大政奉還をもって武力衝突を回避しようと薩摩藩に働きかけますが、
西郷隆盛や大久保利通らは全く応じず、
長州藩と呼応して武力討伐に突っ走ります。
薩摩藩内にも倒幕反対の声はあったものの、それも押し切ります。
「王政復古のクーデター」です。
こちらは薩摩藩主父子に下った倒幕の密勅です。
このような天皇の許可が出て初めて倒幕を正当化できるのですが、
「戊辰戦争論」の石井氏は長州藩主への密勅共々ニセモノとしています。
クーデターが起きる10日ほど前の11月下旬、
通詞の福地源一郎は「大坂へまかり越すように」との命令を受け、
軍艦に乗り込み、2日後、「兵庫の浜辺」へ到着。
その数日後、大坂の旅宿にいた福地のもとへ京都から、
「落雷の耳を貫くがごとき」クーデター勃発の知らせが届きます。
翌12日夜半、
京都を追われ「ご疲労の体」の慶喜将軍を大阪城へ迎えました。
その後大阪城には英蘭米仏四国の公使が集まり、
「さてさて、日本国の君主は京都の禁裏か在阪の将軍か」と大激論。
イギリス公使は「内政干渉は一切しない」といいつつ、
「天皇を君主に」と立派に内政干渉。
江戸では薩摩の浪人たちが大暴れ。
怒った親幕府勢力が薩摩藩邸を焼打ちします。
それを聞いた大久保利通はいきり立ち、さらに幕府への攻撃を強めます。
薩摩藩の大久保利通です。
この人はのちに榎本武揚の鎮圧に慶喜をあたらせるよう主張するなど、
冷酷な提案をする人で、「徳川慶喜」の著者は、
「大久保は慶喜に対して異常な憎しみを持っていた」と書いています。
ウヘッ、いやなヤツ。男の嫉妬丸だし。
翌慶応四年(明治元年)1月3日、旧幕府側と新政府側がついに開戦。
これが戊辰戦争の発端となった「鳥羽・伏見の戦い」です。
開戦からわずか3日後の6日夜半、
福地らのもとへ組頭の松平太郎がやってきて、
「将軍はすでに大阪城を退去して江戸へ向かっている。
もうここには誰もいない。君らも早く立ち退け」という。
半信半疑で御用部屋へ行ってみると、
「内閣は寂として一個だに人影はなし」
詰所にきてみると、よほど慌てていたのだろう、
公用書類は散乱し、護身用の拳銃も置きっぱなし。
奉行が正月用に用意した鴨鍋の材料までそっくり残してあった。
ここで大阪城へ行ったときの写真を載せようとしましたが、探せど見つからず。
急きょ、井原西鶴の「一目玉鉾・巻四」から拝借。
置いてけぼりを食った福地ら一同は集まって、
その鴨鍋を「かつ煮、かつ食らい」つつ、今後を話し合った。
福地はその後、敗残兵でごった返す城を抜け、
兵庫奉行・柴田剛中の商船「オーサカ」に拾われて、一路、江戸を目指した。
午後5時ごろ、福地は海上から、
はるか大阪の方角に黒煙があがるのを見た。
「火焔すこぶる盛んなるを見て、
さてこそ大阪の御城はもはや官軍のために、
一炬(いっきょ)にふせられたり(いっぺんに焼かれてしまった)」
そう思いつつ、
ただ首をうなだれて見つめているほかはなかった。
<つづく>
※参考文献・画像提供/「徳川慶喜」家近良樹 日本歴史学会編集
吉川弘文館 2014
/「戊辰戦争論」石井孝 吉川弘文館 2008
/「聞き書き 徳川慶喜残照」遠藤幸威 朝日新聞社
1982
※画像提供/「日本名著全集 西鶴名作集下」「一目玉鉾 巻四」
復刻 日本名著全集刊行会 昭和4年
※参考文献/「世界ノンフィクション全集」「懐往事談」福地源一郎
復刻 筑摩書房 昭和39年
コメント
維新前夜のルポルタージュ
維新前夜、姫は東奔西走してインタービューに忙しいようですね。
とても面白く読ませていただいています。
2016-12-11 06:45 ヨリックです URL 編集
おはようございます
コメントありがとうございます。
知らないことだらけなので本読みに忙しいです。著者もまた贔屓する人によってそれぞれ評価も書き方も違っていますので、フムフムなるほどなどと言いつつ読んでいます。
いつの世も同じなんだなあと思ったのは、今まで慶喜を応援していた人が「新政府の高官」という人参を鼻先にぶらさげられるとコロッと寝返ることです。今の時代も公約違反全盛ですものね。
でも当時、この政変を動かしていたのは20代、30代の若い人たちで、それはすごいなと思っていますが、今回、いかに「勤王史観」「薩長思想」を正史として教えられてきたか、かなり歪んでいたと気づかされました。
2016-12-11 07:20 雨宮清子(ちから姫) URL 編集
薩長
泉光院が山形にいるので山形での事件として書きました。
薩長の力は平成の今でも残っているようですね。
長州の男が日本政府のトップにいて無理無体を押し通すのを見るのはワタクシの好まざるところです。
2016-12-11 19:56 ヨリックです URL 編集
No title
コメントありがとうございます。
時代の変わり目の歴史って面白いですね。
下級御家人の勝海舟が、江戸時代では顔も見ることができなかった元将軍の息子を養子にできたんですから。
維新を境に地位が逆転。なんともすごいなと思いました。
最近の政治ですが、一応国会は見ています。
でも私自身が年をとったせいでしょうか、政治家たちが子供の頃感じた威厳のある大人というイメージからはほど遠いと思っています。言葉が文章になっていないんですね。大人の言葉づかいができていないというか。
カナダの、市議会でしたけど日本の政治とはまるっきり違いました。
会議場が市役所一階の入り口横にあってガラスばり。あちらの方の説明では、市役所へ来た市民が気軽に見ることが出来るようにすべてオープンを心がけているとのことでした。会議の内容は逐一各家庭に放送されていました。
議員で飯を食っているという人はいなかったように思います。
ごまかす政治ではなく、みんなで討論する政治。
民主主義とは何かをほんの少しですが教わりました。
2016-12-11 23:07 雨宮清子(ちから姫) URL 編集
No title
何百年たってもそう。
特に嫌いなのが大久保利通と伊藤博文。
オラは会津藩同様に虐げられた奥羽越列藩同盟の末裔なのだぁ。
2016-12-20 14:25 kappa URL 編集
No title
コメントありがとうございます。
薩長嫌い、とくに長州が嫌いな人、多いですね。
それとやっぱり大久保利通、伊藤博文嫌いが多い。
静岡県令には元薩摩藩士が赴任してきましたが、みんなに嫌われました。
明治維新の志士たちのおかげで人々は悪しき封建時代から解放された、と教わってきましたが、ちょっと違うなあと思い始めています。
だから「維新」という言葉の意味をもう一度考え直すべきだと思っています。
議会制度、近代的軍隊などはすべて徳川の幕閣が考えたことで、新政府はそれを横取りしたにすぎないー。そういう論調もあります。
また、明治新政府は猛烈な言論弾圧を行っています。
当時、外国人が描いた風刺画には「警官がさるぐつわを噛ませた新聞記者たちを座らせて威嚇している」絵があります。
今のマスコミはどうでしょうか。
決して笑えない光景だと思っています。
2016-12-20 18:38 雨宮清子(ちから姫) URL 編集