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兵庫(神戸)開港

柴田幸次郎を追う
12 /08 2016
明治の新時代まであと2年という慶応二年(1866)は、
大久保利通らの薩長が仕掛ける「鉄砲芝居」の序章となりました。

7月、和宮の夫で14代将軍家茂が二十歳の若さで大阪城にて病死。
さらに12月になると、孝明天皇が急死します。
「御九穴より御脱血」(中山忠能日記)が示すように、
体中の穴という穴から血を流しての変死。そのため毒殺とうわさされた。

孝明天皇
孝明 (2)

母が公卿の娘で朝廷とはつながりの深い慶喜は、
ここに、「政治向きのことは苦手だからそれは幕府に任せる」とした
佐幕派で攘夷強硬論者の孝明天皇を失います。


「徳川慶喜」の著者、家近氏は、このことについてこう記しています。

「天皇の崩御が慶喜にもたらしたものは二つある。
そのマイナス面は薩長などの反幕府勢力の台頭。
プラス面は強力な攘夷思想がなくなり、
全国的開国がやりやすくなった」

第15代将軍となった慶喜は開国派に転じ、即座に「プラス面」を実行。
翌慶応三年、懸案だった兵庫開港を幕府単独で着手します。
その重要な任務にあたったのが、我が柴田剛中です。

下図は「徳川道」です。
兵庫(神戸)開港を前に、外国人とのトラブルを回避するため、
幕府はこのような「バイパス」を作りました。

img330.jpg

慶喜が江戸を離れ、なぜ京都に固執し居続けたかというと、
「江戸は一大消費地にすぎないが京阪は日本経済の中心地。
その全国的商品流通の「上方」を失うことは
全国的政権でなくなるということ」

=「戊辰戦争論」石井孝

つまり幕府政治の存続は、
この上方(かみがた。京阪)を掌握することにあり、
その経済圏を幕府の意のままにするには、
まずは外国貿易の拠点としての港を幕府直轄にしなければならない。

京都に居続けたのはこんな理由。

そこで兵庫開港が重要になってきたわけです。
加えて、諸外国と約束した開港期限は本年12月。

期限を守ることは幕府の権威を示すまたとないチャンスです。
大阪・兵庫奉行になった柴田は外国人居留地などの整備を
急ピッチで進めます。

勝海舟の建言をいれて幕府が建造した和田岬砲台
img317 (2)

しかし藩の自立化をめざす薩長は、今さら幕府もクソもあるものかと反発。
さまざまな挑発を仕掛けます。

そういう薩摩を幕府側で、
「二賊(大久保利通・西郷隆盛)」「薩賊」と批難すれば、
薩摩の側では「賊臣・慶喜を討て」といきり立つ。


新たに即位した15歳の天皇の争奪戦となりました。

その両勢力の間にいる公家たちの政治能力は「風にそよぐ葦(無能)」
その間をイギリス公使パークスが、「内政干渉はしない」「あくまでも中立」
と言いながら狡猾に動き回ります。

日本人の外国依存という悪癖の始まりです。

<つづく>

※参考文献/「徳川慶喜」家近良樹 日本歴史学会編集 吉川弘文館
     2014
     /「戊辰戦争論」石井孝 吉川弘文館 2008
※画像提供/「日本発見 港町」「神戸」小西四郎 暁教育図書 昭和54年

コメント

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こんにちは

「ま」の「みや」と申します
神戸生まれの神戸在住ながら
和田岬砲台は行ったことがありません。
でも、お写真を見せていただき
好奇心が刺激されました。
近々見に行きたいと思います。

神戸開港150年でもあり
私も興味を持っていたので

つづきがとても楽しみです♪

ご訪問ありがとうございます

みやさま
コメントありがとうございます。

素敵な町にお住まいですね。
私は観光で行ったことと、九州へ向かう船上から夜の神戸港を眺めたことぐらいです。でもあの夜景の美しさは今でも忘れられません。

実は砲台、私も見ていないんです。
今は造船所の敷地内にあるようですね。ぜひ、訪れてみてください。そして幕末明治のにおいをいっぱい吸いこんできてください。

勝海舟が、慶喜公が、柴田剛中や薩長藩士たちがそこにいたと思うとわくわくします。

つたないブログですが、今後ともよろしくお願いいたします。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞