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徳蔵、再び

神田川徳蔵物語
03 /05 2021
「栗橋八坂神社」の新発見力石の途中ですが、臨時の記事を掲載いたします。

shortyさんというウエイトトレーニングをされている方から、
「徳蔵さんの話が好きで、たまに来ています」という嬉しいコメントが届きました。

以前私は、
大正・昭和初期を代表する力持ち、神田川徳蔵の話を書きました。

神田川米穀市場で、米俵の片手差しをする若き日の徳蔵
20171021115526810_20210302182852d0b.jpg

この話は、徳蔵さんの縁者の方から、
膨大な写真の提供を受けて書くことができたもので、
私も熱が入り、当時は「徳蔵一色」。

スポーツ音痴の私ですから、「ウエイトリフティング」とか「バーベル」なんて
まったく考えたこともなかったのです。

ですが、まず徳蔵さんの人柄に惹きつけられ、
さらに、力石をバーベルに持ち換えて、
日本の重量挙げに多大な貢献をしたことなどを知り、

これは是が非でも書き残しておかなければと思ったのです。

日本政府が海外から初めてバーベルを購入する13年余も前に、
すでに徳蔵はバーベルも鉄アレイも持っていました。

幸龍寺バーベル (3)

ちなみに、日本政府がバーベルを購入したのは、昭和9年(1934)で、
加納治五郎がオーストリアからの購入を依頼したとされています。

こちらはドイツから輸入された「重体操用具」の明治29年の広告です。

一番下に、徳蔵が持っているバーベルと似たものがあります。

正式名称は「グローブ・エンデッド・バーベル」ですが、
徳蔵はこれを「球棹」と呼んでいました。

img023.jpg
復刻版「写真で見る体育・スポーツ百年史」上沼八郎 
日本図書センター 2015より。

昭和の世界大戦中、徳蔵は朝鮮の「力道大会」へ招待されて、
バーベルをあげ、プレス195ポンドで一位になった。

また、世間から「ただ馬鹿力をだすだけのもの」と蔑まれて、
練習もままならない若者たちのために、私費を投じて道場を作った。

徳蔵の「神田川重量挙道場」でバーベルを挙げる若木竹丸
徳蔵アルバム説明2 (2)

この道場から、のちの日本重量挙協会理事長の井口幸男が、
そしてその井口を通じて、
早稲田大学名誉教授の窪田登らが育ち、

徳蔵の甥でコーチの飯田勝康らが育てた三宅義信選手が、
1964年の東京オリンピックで金メダルを獲得。
これを機に、重量挙げの認知度が一気に高まった。

また息子の定太郎は、明治大学ウエイトリフティング部創設に尽力。

下の写真は、「朝鮮力道大会」へ出場した3人です。
左から、徳蔵、真ん中が若木竹丸、右が徳蔵の甥の飯田一郎。
徳蔵と若木の年齢差は20年。

ケトルベルトレーナーで、これまで力石の石上げに挑戦してきた
岐阜の大江誉志氏はこの写真を見て、

「若木先生は、力の世界に憧れる僕のような者にとって
神さまみたいな人なんです。
その若木先生と徳蔵さんが一緒に写っているのでびっくりしました」と。

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門外漢の私が書いた記事に対して、
「当時のトレーニングの記事や手法に関して、
かなり貴重なことが載っていて驚いています」と、shortyさん。

「このブログで、当時の社会情勢、戦時中での庶民の暮らしなど
教科書ではわからないことを山ほど学ぶことができます」とまで。

30歳前半の若い方からそんなふうに褒めていただいて、
なんかもう夢のよう。本当に嬉しいです。

そのshortyさんが貴重な動画を教えてくれました。

日本国内で唯一の世界公認を受けているバーベルメーカー、
「ウエサカ」の工場見学の動画です。

とても珍しいものです。
ぜひ、ご覧ください。

「UESAKAバーベル工場見学」

神田川徳蔵=本名・飯田。旧姓・佐納。茨城県那珂湊出身。

かつて神田川沿いに存在した
米穀市場の荷揚げ業「飯定組」の陸仲士(おかなかし)でした。

「飯定組」の親分・飯田定次郎は、徳蔵を見込んで
自分の長男ではなく、この徳蔵を養子にして会社を継がせた。

前列が飯田定次郎、後列右が徳蔵。左は徳蔵を補佐した羽部重吉。
より神田川徳蔵孫

昔の経営者は世襲より、力量のある者をと考えていたんですね。
徳蔵はこの期待に見事応えて、のちに地元運送業者のまとめ役になります。

そして、自分が極めた力石による「力の道」から、
重量挙げという新しい「力の道」への基礎を作りました。

常に縁の下の力持ちとして。

こんな格好いい男がいたことを、どうか忘れないでいてください。

それが私の願いです。


     ーーーーー追記ーーーーー

重量挙げに全く無知だった私が教えられたのが、
井口幸男氏の「わがスポーツの軌跡」(私家本。昭和61年)でした。

戦前から戦後の重量挙げが置かれた状況、国際大会の様子。
また貴重な写真もたくさんありました。

こちらは印象の深かった大河原宇明吉(捻鉄棒)氏です。

「僕には子供がないので、里子ばかり4人もいるが、それが皆揃って、
父ちゃん、母ちゃんとなつき、可愛いもんだ」と。

のちに群馬県重量挙協会会長を務めました。

img20210306_11142505 (2)

物資のない時代、写真のように手製のコンクリートや車輪を使って、
鍛錬していたそうです。

「ウエサカ製作所」の最先端のバーベルは、
こうした先人たちの工夫の延長線上にあるような気がします。


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狛鯉(こまこい)

栗橋八坂神社・流転の力石
03 /02 2021
八坂神社の池の底にあった力石。
その二つの石には、「舟戸町」と刻まれていた。

「栗橋町史」によると、この「舟戸(船戸)町」は、利根川の堤外にあって、
渡船場で働く船頭たちが住んでいた町とのこと。

彼らはいずれ劣らぬ力自慢揃いだったという。

下は、栗橋八坂神社付近の地図です。

江戸時代、この利根川沿いに「栗橋宿」(現・埼玉県久喜市)があり、
対岸には「中田宿」(現・茨城県古河市)がありました。

map.png

利根川をはさんだこの二つの宿場は、
日光街道、奥州街道が交差する軍事上の重要な場所だったため、
架橋は許されず、すべて渡船に頼った。

橋が架けられたのはなんと、江戸幕府崩壊から50年余もたった大正13年
その間の交通手段は、ずっと船。船頭さんたち、大活躍です。

江戸時代は、というと下の絵のような感じでした。
絵が見にくい上に、ちょっと傾いてしまいましたがご勘弁。

ピンクの丸が「栗橋宿」

この宿場の続きにあったのが、
「房川(ぼうせん)渡し船頭の屋敷」と呼ばれた「舟戸(船戸)町」。

対岸の黄色い丸が茨城県にあった「中田宿」

赤丸が「栗橋宿の関所」、現在の地図でいうと、利根川橋のたもとあたり。

一般には、「栗橋関所」と呼ばれていたそうですが、
正式名称は、「房川(ぼうせん)渡し中田御関所」といいました。

「栗橋宿」「中田宿」をひっくるめて一つ、という考えだったそうです。

青丸は筑波山です。

jpegOutput (3)
「新編武蔵風土記稿」巻之32、葛飾郡之19 国立国会図書館ウエブサイトより転載

渡船場は「栗橋関所」付近にあって、
旅行者や荷物を運ぶ「茶船」と、馬を運ぶ「馬船」が常備されていたそうです。

歴代の徳川将軍が先祖の家康さんが眠る日光東照宮へ行くときには、
50艘もの船を並べて、臨時の浮き橋を作ったとか。

「日光御社参栗橋渡し船橋之図」。最後の日光社参の図。
image_20210228204847069.jpg

十代家治の安永五年(1776)の時の経費は、
22万3000両。今のお金にして約140億円。
動員された人足23万余人。馬30万5000匹。(亀井・秋田両氏の論文より)

馬30万5000頭って、にわかに信じがたい数字ですが、
これ、みんな民衆から搾り取ったお金ですもんね。ああ、いつの世も…。

で、3年もかけて準備したこの船橋は、将軍がお帰りになったらすぐ解体。
こんな贅沢を19回も。付き合わされた船頭さんも大変でした。

さて、その船頭になる条件はなかなか厳しかったそうで、

20歳から50歳までの心身ともに健康で、
栗橋宿・舟戸町生まれの身元の確かな者とされていた。

力石に刻まれた「舟戸町」には、船頭としての若者の誇りが感じられます。

こちらは栗橋八坂神社の狛犬ならぬ「狛鯉」、「招福之鯉」です。

栗坂3
埼玉県久喜市栗橋北・栗橋八坂神社

なぜ、鯉かというと、洪水と関係があるのです。

なにしろ利根川は洪水常襲河川ですから、人々は常に危険と同居。
そのたびに土地を捨てる「瀬替え」を余儀なくされてきた。

水神の碑にも、
「忍び難きを忍び、小異を捨て大同につくの気概を持って」とあります。

家康さんがいた慶長年間のころ、大洪水がありました。

そのとき、濁流にもまれつつ、なにやら流れてきたのを村人たちが見た。
流れてきたのはなんと、に守られた神輿だったのです。

この神輿は茨城県五霞村(元栗橋)にあった「午頭天王社」のもので、
以来、流れ着いた栗橋宿の総鎮守として、ここに鎮座したとか。

「八坂神社縁起」
栗坂2

で、天王さまが鯉と亀に守られて流れ着いたことから、
それに感謝して村人たちは、祭りを行う6月には鯉を食べないとか。

それなら、6月以外の月には食べてもいいのかなぁなんて、
俗人の私は、ふと思ったのでありました。


※参考文献/「栗橋町史・民俗編」栗橋町教育委員会 2010
     /「利根川に見る河川と市街地の関係性の変遷
      -日光街道栗橋宿を対象にー」亀井優樹 秋田典子
      景観・デザイン研究講演集 2016
     /「洪水常襲地域における水神信仰と水防意識の実体調査・報告書」
      藤岡町古文書研究会 平成18年度
     /「利根川改修計画による栗橋河岸の変化」加藤光子
      文教大学教育学部「紀要」第30集 1996
※写真・情報提供/斎藤氏


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞