徳蔵、再び
神田川徳蔵物語
「栗橋八坂神社」の新発見力石の途中ですが、臨時の記事を掲載いたします。
shortyさんというウエイトトレーニングをされている方から、
「徳蔵さんの話が好きで、たまに来ています」という嬉しいコメントが届きました。
以前私は、
大正・昭和初期を代表する力持ち、神田川徳蔵の話を書きました。
神田川米穀市場で、米俵の片手差しをする若き日の徳蔵
この話は、徳蔵さんの縁者の方から、
膨大な写真の提供を受けて書くことができたもので、
私も熱が入り、当時は「徳蔵一色」。
スポーツ音痴の私ですから、「ウエイトリフティング」とか「バーベル」なんて
まったく考えたこともなかったのです。
ですが、まず徳蔵さんの人柄に惹きつけられ、
さらに、力石をバーベルに持ち換えて、
日本の重量挙げに多大な貢献をしたことなどを知り、
これは是が非でも書き残しておかなければと思ったのです。
日本政府が海外から初めてバーベルを購入する13年余も前に、
すでに徳蔵はバーベルも鉄アレイも持っていました。
ちなみに、日本政府がバーベルを購入したのは、昭和9年(1934)で、
加納治五郎がオーストリアからの購入を依頼したとされています。
こちらはドイツから輸入された「重体操用具」の明治29年の広告です。
一番下に、徳蔵が持っているバーベルと似たものがあります。
正式名称は「グローブ・エンデッド・バーベル」ですが、
徳蔵はこれを「球棹」と呼んでいました。
復刻版「写真で見る体育・スポーツ百年史」上沼八郎
日本図書センター 2015より。
昭和の世界大戦中、徳蔵は朝鮮の「力道大会」へ招待されて、
バーベルをあげ、プレス195ポンドで一位になった。
また、世間から「ただ馬鹿力をだすだけのもの」と蔑まれて、
練習もままならない若者たちのために、私費を投じて道場を作った。
徳蔵の「神田川重量挙道場」でバーベルを挙げる若木竹丸
この道場から、のちの日本重量挙協会理事長の井口幸男が、
そしてその井口を通じて、
早稲田大学名誉教授の窪田登らが育ち、
徳蔵の甥でコーチの飯田勝康らが育てた三宅義信選手が、
1964年の東京オリンピックで金メダルを獲得。
これを機に、重量挙げの認知度が一気に高まった。
また息子の定太郎は、明治大学ウエイトリフティング部創設に尽力。
下の写真は、「朝鮮力道大会」へ出場した3人です。
左から、徳蔵、真ん中が若木竹丸、右が徳蔵の甥の飯田一郎。
徳蔵と若木の年齢差は20年。
ケトルベルトレーナーで、これまで力石の石上げに挑戦してきた
岐阜の大江誉志氏はこの写真を見て、
「若木先生は、力の世界に憧れる僕のような者にとって
神さまみたいな人なんです。
その若木先生と徳蔵さんが一緒に写っているのでびっくりしました」と。
門外漢の私が書いた記事に対して、
「当時のトレーニングの記事や手法に関して、
かなり貴重なことが載っていて驚いています」と、shortyさん。
「このブログで、当時の社会情勢、戦時中での庶民の暮らしなど
教科書ではわからないことを山ほど学ぶことができます」とまで。
30歳前半の若い方からそんなふうに褒めていただいて、
なんかもう夢のよう。本当に嬉しいです。
そのshortyさんが貴重な動画を教えてくれました。
日本国内で唯一の世界公認を受けているバーベルメーカー、
「ウエサカ」の工場見学の動画です。
とても珍しいものです。
ぜひ、ご覧ください。
「UESAKAバーベル工場見学」
神田川徳蔵=本名・飯田。旧姓・佐納。茨城県那珂湊出身。
かつて神田川沿いに存在した
米穀市場の荷揚げ業「飯定組」の陸仲士(おかなかし)でした。
「飯定組」の親分・飯田定次郎は、徳蔵を見込んで
自分の長男ではなく、この徳蔵を養子にして会社を継がせた。
前列が飯田定次郎、後列右が徳蔵。左は徳蔵を補佐した羽部重吉。
昔の経営者は世襲より、力量のある者をと考えていたんですね。
徳蔵はこの期待に見事応えて、のちに地元運送業者のまとめ役になります。
そして、自分が極めた力石による「力の道」から、
重量挙げという新しい「力の道」への基礎を作りました。
常に縁の下の力持ちとして。
こんな格好いい男がいたことを、どうか忘れないでいてください。
それが私の願いです。
ーーーーー追記ーーーーー
重量挙げに全く無知だった私が教えられたのが、
井口幸男氏の「わがスポーツの軌跡」(私家本。昭和61年)でした。
戦前から戦後の重量挙げが置かれた状況、国際大会の様子。
また貴重な写真もたくさんありました。
こちらは印象の深かった大河原宇明吉(捻鉄棒)氏です。
「僕には子供がないので、里子ばかり4人もいるが、それが皆揃って、
父ちゃん、母ちゃんとなつき、可愛いもんだ」と。
のちに群馬県重量挙協会会長を務めました。
物資のない時代、写真のように手製のコンクリートや車輪を使って、
鍛錬していたそうです。
「ウエサカ製作所」の最先端のバーベルは、
こうした先人たちの工夫の延長線上にあるような気がします。
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shortyさんというウエイトトレーニングをされている方から、
「徳蔵さんの話が好きで、たまに来ています」という嬉しいコメントが届きました。
以前私は、
大正・昭和初期を代表する力持ち、神田川徳蔵の話を書きました。
神田川米穀市場で、米俵の片手差しをする若き日の徳蔵
この話は、徳蔵さんの縁者の方から、
膨大な写真の提供を受けて書くことができたもので、
私も熱が入り、当時は「徳蔵一色」。
スポーツ音痴の私ですから、「ウエイトリフティング」とか「バーベル」なんて
まったく考えたこともなかったのです。
ですが、まず徳蔵さんの人柄に惹きつけられ、
さらに、力石をバーベルに持ち換えて、
日本の重量挙げに多大な貢献をしたことなどを知り、
これは是が非でも書き残しておかなければと思ったのです。
日本政府が海外から初めてバーベルを購入する13年余も前に、
すでに徳蔵はバーベルも鉄アレイも持っていました。
ちなみに、日本政府がバーベルを購入したのは、昭和9年(1934)で、
加納治五郎がオーストリアからの購入を依頼したとされています。
こちらはドイツから輸入された「重体操用具」の明治29年の広告です。
一番下に、徳蔵が持っているバーベルと似たものがあります。
正式名称は「グローブ・エンデッド・バーベル」ですが、
徳蔵はこれを「球棹」と呼んでいました。
復刻版「写真で見る体育・スポーツ百年史」上沼八郎
日本図書センター 2015より。
昭和の世界大戦中、徳蔵は朝鮮の「力道大会」へ招待されて、
バーベルをあげ、プレス195ポンドで一位になった。
また、世間から「ただ馬鹿力をだすだけのもの」と蔑まれて、
練習もままならない若者たちのために、私費を投じて道場を作った。
徳蔵の「神田川重量挙道場」でバーベルを挙げる若木竹丸
この道場から、のちの日本重量挙協会理事長の井口幸男が、
そしてその井口を通じて、
早稲田大学名誉教授の窪田登らが育ち、
徳蔵の甥でコーチの飯田勝康らが育てた三宅義信選手が、
1964年の東京オリンピックで金メダルを獲得。
これを機に、重量挙げの認知度が一気に高まった。
また息子の定太郎は、明治大学ウエイトリフティング部創設に尽力。
下の写真は、「朝鮮力道大会」へ出場した3人です。
左から、徳蔵、真ん中が若木竹丸、右が徳蔵の甥の飯田一郎。
徳蔵と若木の年齢差は20年。
ケトルベルトレーナーで、これまで力石の石上げに挑戦してきた
岐阜の大江誉志氏はこの写真を見て、
「若木先生は、力の世界に憧れる僕のような者にとって
神さまみたいな人なんです。
その若木先生と徳蔵さんが一緒に写っているのでびっくりしました」と。
門外漢の私が書いた記事に対して、
「当時のトレーニングの記事や手法に関して、
かなり貴重なことが載っていて驚いています」と、shortyさん。
「このブログで、当時の社会情勢、戦時中での庶民の暮らしなど
教科書ではわからないことを山ほど学ぶことができます」とまで。
30歳前半の若い方からそんなふうに褒めていただいて、
なんかもう夢のよう。本当に嬉しいです。
そのshortyさんが貴重な動画を教えてくれました。
日本国内で唯一の世界公認を受けているバーベルメーカー、
「ウエサカ」の工場見学の動画です。
とても珍しいものです。
ぜひ、ご覧ください。
「UESAKAバーベル工場見学」
神田川徳蔵=本名・飯田。旧姓・佐納。茨城県那珂湊出身。
かつて神田川沿いに存在した
米穀市場の荷揚げ業「飯定組」の陸仲士(おかなかし)でした。
「飯定組」の親分・飯田定次郎は、徳蔵を見込んで
自分の長男ではなく、この徳蔵を養子にして会社を継がせた。
前列が飯田定次郎、後列右が徳蔵。左は徳蔵を補佐した羽部重吉。
昔の経営者は世襲より、力量のある者をと考えていたんですね。
徳蔵はこの期待に見事応えて、のちに地元運送業者のまとめ役になります。
そして、自分が極めた力石による「力の道」から、
重量挙げという新しい「力の道」への基礎を作りました。
常に縁の下の力持ちとして。
こんな格好いい男がいたことを、どうか忘れないでいてください。
それが私の願いです。
ーーーーー追記ーーーーー
重量挙げに全く無知だった私が教えられたのが、
井口幸男氏の「わがスポーツの軌跡」(私家本。昭和61年)でした。
戦前から戦後の重量挙げが置かれた状況、国際大会の様子。
また貴重な写真もたくさんありました。
こちらは印象の深かった大河原宇明吉(捻鉄棒)氏です。
「僕には子供がないので、里子ばかり4人もいるが、それが皆揃って、
父ちゃん、母ちゃんとなつき、可愛いもんだ」と。
のちに群馬県重量挙協会会長を務めました。
物資のない時代、写真のように手製のコンクリートや車輪を使って、
鍛錬していたそうです。
「ウエサカ製作所」の最先端のバーベルは、
こうした先人たちの工夫の延長線上にあるような気がします。
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