狛鯉(こまこい)
栗橋八坂神社・流転の力石
八坂神社の池の底にあった力石。
その二つの石には、「舟戸町」と刻まれていた。
「栗橋町史」によると、この「舟戸(船戸)町」は、利根川の堤外にあって、
渡船場で働く船頭たちが住んでいた町とのこと。
彼らはいずれ劣らぬ力自慢揃いだったという。
下は、栗橋八坂神社付近の地図です。
江戸時代、この利根川沿いに「栗橋宿」(現・埼玉県久喜市)があり、
対岸には「中田宿」(現・茨城県古河市)がありました。
利根川をはさんだこの二つの宿場は、
日光街道、奥州街道が交差する軍事上の重要な場所だったため、
架橋は許されず、すべて渡船に頼った。
橋が架けられたのはなんと、江戸幕府崩壊から50年余もたった大正13年。
その間の交通手段は、ずっと船。船頭さんたち、大活躍です。
江戸時代は、というと下の絵のような感じでした。
絵が見にくい上に、ちょっと傾いてしまいましたがご勘弁。
ピンクの丸が「栗橋宿」。
この宿場の続きにあったのが、
「房川(ぼうせん)渡し船頭の屋敷」と呼ばれた「舟戸(船戸)町」。
対岸の黄色い丸が茨城県にあった「中田宿」。
赤丸が「栗橋宿の関所」、現在の地図でいうと、利根川橋のたもとあたり。
一般には、「栗橋関所」と呼ばれていたそうですが、
正式名称は、「房川(ぼうせん)渡し中田御関所」といいました。
「栗橋宿」「中田宿」をひっくるめて一つ、という考えだったそうです。
青丸は筑波山です。
「新編武蔵風土記稿」巻之32、葛飾郡之19 国立国会図書館ウエブサイトより転載
渡船場は「栗橋関所」付近にあって、
旅行者や荷物を運ぶ「茶船」と、馬を運ぶ「馬船」が常備されていたそうです。
歴代の徳川将軍が先祖の家康さんが眠る日光東照宮へ行くときには、
50艘もの船を並べて、臨時の浮き橋を作ったとか。
「日光御社参栗橋渡し船橋之図」。最後の日光社参の図。
十代家治の安永五年(1776)の時の経費は、
22万3000両。今のお金にして約140億円。
動員された人足23万余人。馬30万5000匹。(亀井・秋田両氏の論文より)
馬30万5000頭って、にわかに信じがたい数字ですが、
これ、みんな民衆から搾り取ったお金ですもんね。ああ、いつの世も…。
で、3年もかけて準備したこの船橋は、将軍がお帰りになったらすぐ解体。
こんな贅沢を19回も。付き合わされた船頭さんも大変でした。
さて、その船頭になる条件はなかなか厳しかったそうで、
20歳から50歳までの心身ともに健康で、
栗橋宿・舟戸町生まれの身元の確かな者とされていた。
力石に刻まれた「舟戸町」には、船頭としての若者の誇りが感じられます。
こちらは栗橋八坂神社の狛犬ならぬ「狛鯉」、「招福之鯉」です。
埼玉県久喜市栗橋北・栗橋八坂神社
なぜ、鯉かというと、洪水と関係があるのです。
なにしろ利根川は洪水常襲河川ですから、人々は常に危険と同居。
そのたびに土地を捨てる「瀬替え」を余儀なくされてきた。
水神の碑にも、
「忍び難きを忍び、小異を捨て大同につくの気概を持って」とあります。
家康さんがいた慶長年間のころ、大洪水がありました。
そのとき、濁流にもまれつつ、なにやら流れてきたのを村人たちが見た。
流れてきたのはなんと、鯉と亀に守られた神輿だったのです。
この神輿は茨城県五霞村(元栗橋)にあった「午頭天王社」のもので、
以来、流れ着いた栗橋宿の総鎮守として、ここに鎮座したとか。
「八坂神社縁起」
で、天王さまが鯉と亀に守られて流れ着いたことから、
それに感謝して村人たちは、祭りを行う6月には鯉を食べないとか。
それなら、6月以外の月には食べてもいいのかなぁなんて、
俗人の私は、ふと思ったのでありました。
※参考文献/「栗橋町史・民俗編」栗橋町教育委員会 2010
/「利根川に見る河川と市街地の関係性の変遷
-日光街道栗橋宿を対象にー」亀井優樹 秋田典子
景観・デザイン研究講演集 2016
/「洪水常襲地域における水神信仰と水防意識の実体調査・報告書」
藤岡町古文書研究会 平成18年度
/「利根川改修計画による栗橋河岸の変化」加藤光子
文教大学教育学部「紀要」第30集 1996
※写真・情報提供/斎藤氏
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その二つの石には、「舟戸町」と刻まれていた。
「栗橋町史」によると、この「舟戸(船戸)町」は、利根川の堤外にあって、
渡船場で働く船頭たちが住んでいた町とのこと。
彼らはいずれ劣らぬ力自慢揃いだったという。
下は、栗橋八坂神社付近の地図です。
江戸時代、この利根川沿いに「栗橋宿」(現・埼玉県久喜市)があり、
対岸には「中田宿」(現・茨城県古河市)がありました。
利根川をはさんだこの二つの宿場は、
日光街道、奥州街道が交差する軍事上の重要な場所だったため、
架橋は許されず、すべて渡船に頼った。
橋が架けられたのはなんと、江戸幕府崩壊から50年余もたった大正13年。
その間の交通手段は、ずっと船。船頭さんたち、大活躍です。
江戸時代は、というと下の絵のような感じでした。
絵が見にくい上に、ちょっと傾いてしまいましたがご勘弁。
ピンクの丸が「栗橋宿」。
この宿場の続きにあったのが、
「房川(ぼうせん)渡し船頭の屋敷」と呼ばれた「舟戸(船戸)町」。
対岸の黄色い丸が茨城県にあった「中田宿」。
赤丸が「栗橋宿の関所」、現在の地図でいうと、利根川橋のたもとあたり。
一般には、「栗橋関所」と呼ばれていたそうですが、
正式名称は、「房川(ぼうせん)渡し中田御関所」といいました。
「栗橋宿」「中田宿」をひっくるめて一つ、という考えだったそうです。
青丸は筑波山です。
「新編武蔵風土記稿」巻之32、葛飾郡之19 国立国会図書館ウエブサイトより転載
渡船場は「栗橋関所」付近にあって、
旅行者や荷物を運ぶ「茶船」と、馬を運ぶ「馬船」が常備されていたそうです。
歴代の徳川将軍が先祖の家康さんが眠る日光東照宮へ行くときには、
50艘もの船を並べて、臨時の浮き橋を作ったとか。
「日光御社参栗橋渡し船橋之図」。最後の日光社参の図。
十代家治の安永五年(1776)の時の経費は、
22万3000両。今のお金にして約140億円。
動員された人足23万余人。馬30万5000匹。(亀井・秋田両氏の論文より)
馬30万5000頭って、にわかに信じがたい数字ですが、
これ、みんな民衆から搾り取ったお金ですもんね。ああ、いつの世も…。
で、3年もかけて準備したこの船橋は、将軍がお帰りになったらすぐ解体。
こんな贅沢を19回も。付き合わされた船頭さんも大変でした。
さて、その船頭になる条件はなかなか厳しかったそうで、
20歳から50歳までの心身ともに健康で、
栗橋宿・舟戸町生まれの身元の確かな者とされていた。
力石に刻まれた「舟戸町」には、船頭としての若者の誇りが感じられます。
こちらは栗橋八坂神社の狛犬ならぬ「狛鯉」、「招福之鯉」です。
埼玉県久喜市栗橋北・栗橋八坂神社
なぜ、鯉かというと、洪水と関係があるのです。
なにしろ利根川は洪水常襲河川ですから、人々は常に危険と同居。
そのたびに土地を捨てる「瀬替え」を余儀なくされてきた。
水神の碑にも、
「忍び難きを忍び、小異を捨て大同につくの気概を持って」とあります。
家康さんがいた慶長年間のころ、大洪水がありました。
そのとき、濁流にもまれつつ、なにやら流れてきたのを村人たちが見た。
流れてきたのはなんと、鯉と亀に守られた神輿だったのです。
この神輿は茨城県五霞村(元栗橋)にあった「午頭天王社」のもので、
以来、流れ着いた栗橋宿の総鎮守として、ここに鎮座したとか。
「八坂神社縁起」
で、天王さまが鯉と亀に守られて流れ着いたことから、
それに感謝して村人たちは、祭りを行う6月には鯉を食べないとか。
それなら、6月以外の月には食べてもいいのかなぁなんて、
俗人の私は、ふと思ったのでありました。
※参考文献/「栗橋町史・民俗編」栗橋町教育委員会 2010
/「利根川に見る河川と市街地の関係性の変遷
-日光街道栗橋宿を対象にー」亀井優樹 秋田典子
景観・デザイン研究講演集 2016
/「洪水常襲地域における水神信仰と水防意識の実体調査・報告書」
藤岡町古文書研究会 平成18年度
/「利根川改修計画による栗橋河岸の変化」加藤光子
文教大学教育学部「紀要」第30集 1996
※写真・情報提供/斎藤氏
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