fc2ブログ

憧れのハワイ航路

神田川徳蔵物語
09 /15 2018
「人は彼のことを「勝ちゃん」と呼んだ。
勝ちゃんは江戸っ子気質の下町っ子で、多分に親分気質もあり、
つねに若者たちに愛されていた」

井口幸男は著書の中で、定太郎のいとこの「勝ちゃん」こと
飯田勝康をそんなふうに語っている。

けれど勝康の存在は影が薄く、縁者のEさん姉妹が知り得たことは、

乳飲み子のとき、実母と死に別れたこと。
叔父の徳蔵と共に活躍した長兄の一郎とは、16ほども年が離れていた。
ウエイトリフティングの普及指導に関して多くのことをされたらしい。

実母に抱かれた勝康。左端が長兄の一郎
喜代隆四郎一家 (2)

勝康がどんな活躍をしたのかについては、
重量挙の創設期を共に過ごした井口幸男が一番よく知っていた。

ここではその井口の言葉を借りて話を進めていきます。

勝ちゃんは戦後、事業家として成功を収め、その経済力をもって
自宅工場近くに重量挙の練習場を設けて愛好者を育てた。

重量挙が「ただ重いものを持つだけのもの」と嘲笑されていた時代、
勝康はその理解と普及のために宣伝にも心を砕き、
新聞記者を招いて、紙面一面に記事を掲載させたりした。

そして終戦から7年目の昭和27年春、
井口幸男白石勇(愛媛県出身)、藤原八郎(徳島県出身)とともに
ハワイ遠征へ出かけます。
井口は監督兼選手として、勝康ら3人は選手として。

左から二人目が飯田勝康
img018_20180914141735f9e.jpg
右から二人目の「石原」さんは通訳として同行。

これは前年日本で開催した日米初の重量挙・国際親善大会の返礼として、
米国チームから招待されたものだった。

前年の親善試合は華々しく「日米対抗戦」という看板を掲げたのだが、
予想に反して観客はまばらで寂しい思いをした。
しかし、駆けつけてくれた大野伴睦先生から、
「よくやった」とお褒めの言葉を頂戴した。

大野伴睦は岐阜県山県郡美山町出身の政治家で、
ウエイトリフティング協会の窮状に助け舟を出してくれた人。
その折り、伴睦は井口にこんなことを言ったという。

「岐阜県にも盤持ちという力技があった」

盤持ちとは北陸地方でいう力くらべのことで、力石を盤持石と言っていた。
伴睦さん、力石をご存知だったんですね。

さて、生まれて初めての船旅、
憧れのハワイ航路はどんなだったかというと、
井口は船酔いに苦しみ、海軍経験のある勝康は元気いっぱい。

そして横浜港を出港してから11日目に、ハワイ・オアフ島へ到着。
オアフ島は輝くばかりに美しく、出迎えのハワイ娘もこれまた美しい。
食べ物もおいしくて、つい食べ過ぎた。

競技終了後は、
「女性が観衆の前で肉体美を競うボディコンテスト
(ミスハワイ選出大会)」へ招待された。

その美しさにただ陶然と見入っていた井口が、突然、ステージに呼ばれ、
なんと、ミスハワイ・ナンバーワンからキスを受けた。

img019.jpg

そんな井口を、右後方で白石(左)と勝康(右)が呆然と見ています。
二人から、こんなボヤキが聞こえてきそうです。

「なんだよ。 
♪ 晴ーれた空ァー、そーよぐ風ーは監督だけかよ」 


※この「憧れのハワイ航路」は、
昭和23年にキングレコードから発売された歌謡曲です。
古すぎてみなさんに?と言われそう。


※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年
               

コメント

非公開コメント

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞