卑屈な国際意識
柴田幸次郎を追う
官軍の西郷隆盛と幕臣・山岡鉄舟が駿府で対面したのが、
慶応4年(1868)3月9日。
山岡鉄舟が再建した「鉄舟禅寺」(元・久能寺)です。
静岡市清水区
鉄舟禅寺に建つ鉄舟座像
その4日後、
今度は江戸・芝高輪の薩摩藩邸で西郷は勝海舟との会談に臨んだ。
この会見について、花園大学の松田隆行先生はこういいます。
「勝は巧妙な駆け引きを展開した」
何が巧妙だったかというと、
イギリス公使パークスを巧みに利用したんです。
つまりパークスの圧力を背景に西郷との会見に臨んだということです。
従来「薩摩屋敷」とされてきた写真。
オランダ人ベアトの撮影。
余談ですが、
港区・芝大神宮の力石にその名を残した明治の力持ち・金杉藤吉の家は、
代々、この薩摩屋敷出入りの船頭でした。
さて、パークスと西郷は同じ天皇政府側のはず。
なのに、その西郷にとって圧力となったのは何だったかというと、
パークスのこんな発言だったそうです。
「慶喜を死罪にするなんていう苛酷な処分は、万国公法に合致しない。
そんなことをしたら欧州諸国から非難されます。
そしてそれは、新政府の名声をも傷つけることになります」
西郷さんは「万国公法に合致しない。天皇を傷つけることになる」と聞いて、
これは大変だと慌てます。
薩摩藩の西郷隆盛
「万国公法」だとか「苛酷な処分」だなんて、
権力闘争で血みどろの英王室のお役人に言われたくはないけど、
これ自体は正論で、
パークスのこの言葉で、慶喜が命拾いしたのは確かです。
「万国公法」について、「戊辰戦争論」の著者はこう述べています。
「万国公法とは国際法のことではなく、単に国際世論のこと。
このように、パークスによって伝えられる外国の意見を
世界的規範と見ていたところに、
当時の政府首脳部の卑屈な国際意識がうかがえる」
長州藩の木戸孝允もまた、
アメリカ訪問の時見た同胞たちの「卑屈」な印象を日記にこう記しています。
「米人はかえってよくわが国情を解し、わが国の風俗を知る。
しかし日本の留学生たちは自分の国の本来の所以を深く理解せず、
米人の風俗を軽々しく慕い、いまだ己れの自立する所以を知らず」
でもねえ、日本は今もそれを引きずっているような気がするんですよ。
ヒラリーが次期大統領だと思って握手しに行ったら、そのヒラリーがコケて、
そしたら今度はゴルフクラブ持参で敵対していたトランプに会いにいって、
現職大統領を怒らせただれかさんー。
誤解だったらごめんなさい。
勝海舟は利口ですね。
そうした西郷の「卑屈な国際意識」を巧みに利用して、
江戸開城や慶喜の処分を死罪から水戸への隠居にするなど有利に運びます。
しかし本当は、慶喜さんに大政奉還されちゃった時点で、
西郷や大久保ら倒幕派の攻撃材料は消滅し、
朝敵・死罪などということは成り立たなくなったはずだと思うのですが…。
勝海舟です。
それよりなにより面白いのは、
実は勝も西郷も別々のルートで、パークスと通じていたという事実です。
ただ勝の方が西郷より一枚上手だった。
しかしその上をいっていたのがパークスで、
万国公法などときれいごとをいっていますが、要は、
「戦争になれば外国人居留区は危険にさらされ、貿易に支障をきたす」
ただそれだけ。ことさら日本人を心配していたわけではない。
それが証拠に「横浜全域は外国軍隊のもとに置かれ、
旧神奈川奉行の権力は、
外国の手先として利用されていった」(戊辰戦争論)
なにしろ、あっちこっちを植民地にしていたお国柄ですから。
イギリス公使パークスです。
このパークス、慶喜を「時代の落伍者」と決めつけ、
「ヴィクトリア女王の信任状を天皇に提出し、
イギリスが天皇政府を日本の正統政府として承認した」
と誇らしげに言ったけど、
「承認した」とか「時代の落伍者」などと
植民地支配国家・イギリス国のアンタに言われたかァないよ。
慶喜の大政奉還の真意は、
「天皇のもとに挙国一致体制を構築しなければ、
欧米諸国に伍して、独立を保てない」とした
「植民地化させない防衛策」だったのだから。
<つづき>
=追記=
「薩摩藩邸」として載せた写真の件です。
最初、文献等を鵜呑みに「薩摩藩邸」としてご紹介してしまいましたが、
ヨリックさまのコメントを契機に調べ直したところ、
近年、この写真は薩摩藩邸ではないことが判明したそうです。
お詫びして訂正いたします。
なお西郷・勝会見の場については
一回目は下屋敷で、2回目は蔵屋敷とのことです。
※参考文献/「徳川慶喜」家近良樹 日本歴史学会編集
吉川弘文館 2014
/「戊辰戦争論」石井孝 吉川弘文館 2008
/「世界ノンフィクション全集」「木戸孝允日記」
復刻 筑摩書房 昭和39年
/花園大学講座資料 松沢隆行
慶応4年(1868)3月9日。
山岡鉄舟が再建した「鉄舟禅寺」(元・久能寺)です。
静岡市清水区
鉄舟禅寺に建つ鉄舟座像
その4日後、
今度は江戸・芝高輪の薩摩藩邸で西郷は勝海舟との会談に臨んだ。
この会見について、花園大学の松田隆行先生はこういいます。
「勝は巧妙な駆け引きを展開した」
何が巧妙だったかというと、
イギリス公使パークスを巧みに利用したんです。
つまりパークスの圧力を背景に西郷との会見に臨んだということです。
従来「薩摩屋敷」とされてきた写真。
オランダ人ベアトの撮影。
余談ですが、
港区・芝大神宮の力石にその名を残した明治の力持ち・金杉藤吉の家は、
代々、この薩摩屋敷出入りの船頭でした。
さて、パークスと西郷は同じ天皇政府側のはず。
なのに、その西郷にとって圧力となったのは何だったかというと、
パークスのこんな発言だったそうです。
「慶喜を死罪にするなんていう苛酷な処分は、万国公法に合致しない。
そんなことをしたら欧州諸国から非難されます。
そしてそれは、新政府の名声をも傷つけることになります」
西郷さんは「万国公法に合致しない。天皇を傷つけることになる」と聞いて、
これは大変だと慌てます。
薩摩藩の西郷隆盛
「万国公法」だとか「苛酷な処分」だなんて、
権力闘争で血みどろの英王室のお役人に言われたくはないけど、
これ自体は正論で、
パークスのこの言葉で、慶喜が命拾いしたのは確かです。
「万国公法」について、「戊辰戦争論」の著者はこう述べています。
「万国公法とは国際法のことではなく、単に国際世論のこと。
このように、パークスによって伝えられる外国の意見を
世界的規範と見ていたところに、
当時の政府首脳部の卑屈な国際意識がうかがえる」
長州藩の木戸孝允もまた、
アメリカ訪問の時見た同胞たちの「卑屈」な印象を日記にこう記しています。
「米人はかえってよくわが国情を解し、わが国の風俗を知る。
しかし日本の留学生たちは自分の国の本来の所以を深く理解せず、
米人の風俗を軽々しく慕い、いまだ己れの自立する所以を知らず」
でもねえ、日本は今もそれを引きずっているような気がするんですよ。
ヒラリーが次期大統領だと思って握手しに行ったら、そのヒラリーがコケて、
そしたら今度はゴルフクラブ持参で敵対していたトランプに会いにいって、
現職大統領を怒らせただれかさんー。
誤解だったらごめんなさい。
勝海舟は利口ですね。
そうした西郷の「卑屈な国際意識」を巧みに利用して、
江戸開城や慶喜の処分を死罪から水戸への隠居にするなど有利に運びます。
しかし本当は、慶喜さんに大政奉還されちゃった時点で、
西郷や大久保ら倒幕派の攻撃材料は消滅し、
朝敵・死罪などということは成り立たなくなったはずだと思うのですが…。
勝海舟です。
それよりなにより面白いのは、
実は勝も西郷も別々のルートで、パークスと通じていたという事実です。
ただ勝の方が西郷より一枚上手だった。
しかしその上をいっていたのがパークスで、
万国公法などときれいごとをいっていますが、要は、
「戦争になれば外国人居留区は危険にさらされ、貿易に支障をきたす」
ただそれだけ。ことさら日本人を心配していたわけではない。
それが証拠に「横浜全域は外国軍隊のもとに置かれ、
旧神奈川奉行の権力は、
外国の手先として利用されていった」(戊辰戦争論)
なにしろ、あっちこっちを植民地にしていたお国柄ですから。
イギリス公使パークスです。
このパークス、慶喜を「時代の落伍者」と決めつけ、
「ヴィクトリア女王の信任状を天皇に提出し、
イギリスが天皇政府を日本の正統政府として承認した」
と誇らしげに言ったけど、
「承認した」とか「時代の落伍者」などと
植民地支配国家・イギリス国のアンタに言われたかァないよ。
慶喜の大政奉還の真意は、
「天皇のもとに挙国一致体制を構築しなければ、
欧米諸国に伍して、独立を保てない」とした
「植民地化させない防衛策」だったのだから。
<つづき>
=追記=
「薩摩藩邸」として載せた写真の件です。
最初、文献等を鵜呑みに「薩摩藩邸」としてご紹介してしまいましたが、
ヨリックさまのコメントを契機に調べ直したところ、
近年、この写真は薩摩藩邸ではないことが判明したそうです。
お詫びして訂正いたします。
なお西郷・勝会見の場については
一回目は下屋敷で、2回目は蔵屋敷とのことです。
※参考文献/「徳川慶喜」家近良樹 日本歴史学会編集
吉川弘文館 2014
/「戊辰戦争論」石井孝 吉川弘文館 2008
/「世界ノンフィクション全集」「木戸孝允日記」
復刻 筑摩書房 昭和39年
/花園大学講座資料 松沢隆行