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2025-03-04

anond:20250304195049

たまに誤解している人がいるけど、当時の徳川幕府には日本統治能力が無い。

二次長州征伐の失敗が示しているように、朝廷の支持の下でさえ一地方領主を罰することもできない。

藩主たちも、幕臣たちも、ろくすっぽ将軍の言うことを聞かない状態

関係無いけど、現代日本のJTCもしばしばそんな感じだよな。)

 

他方、欧州諸国は、着々と植民地を拡げている段階。

から近いうちに日本インド中国みたいになるのが目に見えていた。

 

そうした状況下で、慶喜は、なんとかして日本をまとめられる政権を作ろうとしていた。

大政奉還」てのも、その流れの中で打ち出されたものなわけ。

中身を読めばわかるけど、「幕府の持っている政権朝廷に返すよ」ではなく、「天皇トップにして挙国一致の公議政体を作らないといけない」という内容になっている。

文字通りの「大政奉還」だったら天皇やら摂政関白やらのおじゃる丸たちが日本行政を担うことになるけど、そんなことは言っていない、どころか、はっきりと否定している。)

なので、そもそも、こんな↓ことは思っていない。

それがいきすぎて「幕府より天皇のほうが偉い!幕府天皇権力を返すべき!」になってしまった。

 

ついでに言えば、慶喜は、朝廷相手恫喝も混みでさんざんやり合って主張を押し通してきている。

逆賊になったことにビビって」というのが「天皇中心の挙国一致体制構築を阻害することを恐れて」という意味ならおそらく正しいと思うけど、「天皇権威に恐れをなして」という意味なら慶喜はまったくそんなタマじゃない。

幼い頃から尊王教育を受けてきた慶喜が、鳥羽伏見の戦い逆賊になったことにビビって逃げ出したという。

2025-02-11

anond:20250211224032

基本的にはその時の権力者天皇家の女に自分の子ども産ませてそいつ天皇にして自分関白とか名乗って裏から操るとかするんじゃねえの

2025-02-06

徴兵(ちょうへい)」ではない「微兵(びへい)」の実際の用例

明治18年大日本人辞書 渋川義勝』

我逞兵皆な君に小田原に従ひ微兵を以て対抗する最も難しと為す如ず

主君が不在のあいだに城を攻められ、留守居役の武将が「我らの精兵は主君に従って小田原にいる、残ったわずかな兵で対抗するのは難しいだろう」と言っているようだ。

明治24年日本軍人用文 白虎隊殉難之士を吊ふ文』

東藩一団の微兵を以て百日の久しき天下の大勢を廓外十里の野に困ましめしこと亦以て故へあるなり識るへし

東北の藩のわずかな兵をもって明治政府の軍とよく戦ったのには理由があることを知るべきである」といった感じだろうか。ちゃんと「びへい」とふりがながあるので「微兵」であることに間違いない。

明治24年桶狭間戦記』

レノ大兵ニ我微兵ヲ以テ向ハンコト其利アルヘカラス

「あの大軍に私がわずかな兵をもって立ち向かっても利益はないだろう」といった感じ。

明治26年日本戦史 長篠役』

縦令信長請に応せすとも我今軍を出さすんは貞昌か死亡眼前に在り是を救はすして豈弓矢の本意ならんや然れとも微兵を以て大軍に当ること容易に非らす

徳川家康が「たとえ信長が援軍に応じないとしても、私がいま軍を出さなければ(奥平)貞昌の死は目前であり、これを救わなければ武士として失格だが、とはいえわずかな兵で大軍に当たるのは容易ではない」と言っている場面。

明治26年日本戦小牧役』

殊に去年長久手戦の日龍泉寺にて微兵を率て吾三万八千の大軍に並んで押行き火砲を発し武威を奮ふ時忽ち撃捕ふへし

家康使者として秀吉に謁見した本多忠勝を、「特に去年の長久手の戦いで、(忠勝は)龍泉寺わずかな兵を率いて、私の三万八千の大軍相手活躍していたときは、すぐに討ち取れと言ったものだが、今はもう講和を結んだので、家康の家臣は私の家臣も同じだ」と秀吉が称えている場面のようだ。

明治44年日本歴史文庫 四戦紀聞 尾州長久手戦記』

今従兵僅か七八騎に過ぎず。此微兵を以て大敵に向ひ、横死して何の益かあらんや。

桶狭間戦記と似たような文章。四戦紀聞の成立は1705年らしい。

大正2年『時事評論 本多平八郎忠勝』

家康御家人等は味方の微兵を以て猛勢の朝倉に向かはせ給ふことを聊かも憂苦せず

姉川の戦いの場面か。「家康の家臣たちは味方の兵が少なくても朝倉の軍に立ち向かうことをまったく恐れなかった」みたいな感じか。

大正5年国史叢書 朝鮮征伐記』

剰へ今度日本関白秀吉小国微兵を憚らず、清正・行長・長政・隆景等の将士を先鋒とし、朝鮮屠殺す。

中国視点で「あまつさえ秀吉は、日本小国で、兵がわずかであっても大人しくせず、朝鮮侵略した」みたいな感じか。朝鮮征伐記は1665年の成立だが、だいぶ怪しい史料ではあるらしい。

大正6年大日本史丹羽歴代年譜』

此度大坂陣長重手エ得ル首級都合十四、是僅ナリト雖モ、長重討死ニ決シ、微兵ヲ以テ粉骨ヲ尽シタル戦功ハ、具ニ上聞ニ達シ公籍ニ載ラレ、且諸侯伯知之所也

大坂の陣で丹羽長重はそれほど首級を挙げることはなかったが、長重が討ち死にの覚悟を決めてわずかな兵で頑張ったことは、みんなが知っているので安心してください」といった話か。丹羽歴代年譜っていつ成立したんだろ。

大正7年『泗川新寨戦捷之偉蹟』

忠恒公ハ本丸ヘ入此合戦味方纔ノ一千有余ノ微兵ヲ以テ敵ノ百倍ノ猛勢ニ接シ衆寡ノ勢天地懸隔ストイヘドモ其戦略図ニ中リテ一挙ニ大敵ヲ鏖殺ス

朝鮮出兵で「島津忠恒が一千あまりわずかな兵で百倍の敵を皆殺しにした」という話。

大正7年江戸 一夢林翁戊辰出陣記』

天朝ニ奉哀訴社稷ノ血食ヲ謀ラントノ志願ニテ微兵ヲ挙ケ同志ヲ伴ヒ甲州黒駒迄到シ処田安中納言殿ヨリ説諭ノ趣有

朝廷に訴えて幕府を残せないかわずかな兵を挙げて同志を伴って甲州黒駒まで至ったが田安中納言(徳川慶頼)に諭された」でいいのかな。一夢林翁というのは林忠崇という人物のことらしい。

昭和以降は略。

今回は「微兵を」で検索しただけなので「微兵の」とか「微兵たる」とか「微兵にて」とか他にも用例はあろうと思う。

文語調の古めかしい文章には多く登場している一方で、口語としてはまず見かけず、昭和以降ともなるとほぼ古文書引用とかでしか出てこない、という印象。

ともあれ「徴兵(ちょうへい)」ではない「微兵(びへい)」という言葉がかつて存在していたことは確実で、「OCRの読み取りミスによる存在しない言葉である」と切り捨てるには惜しいのではないかと思った次第。

2024-12-14

光る君へも終わるし、道長に転生して世直しでもするか

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背景設定:**

時は11世紀初頭。平安中期、摂関政治絶頂期を迎えようとしている頃、現代法律学と立憲的思想近代的な統治理論を身に着けた人物が、突如として藤原道長966-1027)の意識を獲得する。外祖父関係を巧みに利用し天皇後ろ盾に絶大な権勢を誇る道長。だが、中身は現代法学者であり、彼は当時の秩序と衝突しつつも、新たな政治手法を打ち出そうとする。

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政治理念の変容:**

現代法学者としての道長は、専横的な外戚支配構造活用しながらも、より「持続的な統治基盤」を確立したいと考える。単なる外戚支配縁故人事ではなく、ある種の「法による秩序」や「規範の再整理」を志す。もっとも、当時は成文法典(律令)はあれど実効性が弱まりつつあり、慣習法が強く、荘園が乱立している。現代道長は、この状況に対して次のような施策を構想する。

1. **荘園整理と土地所有の安定化**:

従来、道長をはじめとする藤原摂関家は多くの荘園私有し、それらを権勢の基盤にしてきた。しかし、現代の法的知見を持つ道長は、「法的安定性」が経済発展をもたらすことを理解している。彼は、荘園境界画定や、重層的な領主権の整理を試みる。

- 公領国衙領)の管理を強化し、名実ともに朝廷支配下に収めるための行政改革に着手。

- 荘園認定基準を明文化し、恣意的な安堵や寄進による権力争いを減らす試みを行う。

- 貴族や有力寺社に対しては、既得権益を即時奪うことは難しいが、中長期的な土地台帳(「古代不動産登記」)を整え、その正当性公的に認める代わり、租税労役義務明確化し、流通性ある土地制度志向

2. **立法執行体系の再構築**:

律令法が名ばかりの存在となり、令外官や慣習的措置が横行する世界で、道長現代的な法整備思想を導入する。

- 首都(京)における治安維持機関である検非違使権限組織を再編し、盗賊取締、秩序維持のための明確な司法手続を設ける。

- 公家社会内部で行われていた人事や地位継承に関して、記録主義(ある種の「公文書主義」)を徹底。昇任や叙位叙爵の基準をある程度定めることで、人事が完全な縁故に流れないよう微調整を図る。

3. **天皇家と摂関家の新たな関係性構築**:

道長外戚としての地位を最大限活用しつつ、天皇権威安定的な「象徴」に引き上げることを考える。天皇形式的な最高権威を担わせ、実務は「関白」の地位活用して円滑に処理するが、現代道長は「院政」的な発想を先取りするかもしれない。

- 天皇に幼少期は摂政、成年後は関白が補佐する原則を維持しつつも、天皇周辺に専門官僚を育成。

- 従来の「外戚依存から、より制度化された「最高法規」の存在感を醸成。例えば、改定版『令』をまとめ、これを朝廷全体の根拠規範として位置づけることで、朝廷藤原家を法的な結びつきで強固にする。

4. **社会制度の改良と学問振興**:

道長宮廷文化を愛し『紫式部』や『清少納言』ら文人たちとの交流を深める一方、現代的な行政手法を取り込むためにも知識人層の拡充を図る。

- 国司受領階層に対し、任地における法令遵守文書管理税制の透明化などを要求。できる限り審査厳格化し、違反者には適正な制裁を行う。

- 大学寮学問所に法制研究史料編纂部門を新設し、古代律令判例に相当する事案記録を蓄積。徐々に「法文化」を育む。

- 漢籍研究とともに、自身が知る社会契約合意原則に近い概念をそれとなく導入し、為政者と被統治者の関係を「力による支配から正当性による支配」へと移行させる試み。

5. **外交軍事制度化**:

北方蝦夷や、唐・宋との交流さらには大陸周辺国との海上貿易を法的に整理する。「道長改正律令」には、交易ルールの明記や関税的な仕組みを生み出し、国家財政を強化するとともに、軍事力を令外官頼みから一定法規範に沿った動員・統制へ転換。

- 軍事貴族地方武士層との契約関係を整え、「官」と「私」の軍事力を峻別した初期的な国軍組織化を図る(もちろん当時としては極めて斬新)。

- 貿易港での入港手続や国際通行ルールを整備し、財政基盤強化を狙う。

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結末イメージ:**

もちろん、このような施策は周囲にとって奇異であり、保守的貴族からは激しい反発も受ける。しかし「藤原道長」という既に頂点に君臨する権力者の威光、そして自らが有する実務的手腕と知識によって、徐々に新しい秩序を「慣習法から合意された法」へと移し変えようとする。結果として、荘園の雑多な管理が少しずつ明確になり、暴力的権益争いは減少、都はある程度の治安維持機構で安定する。

やがて、次世代には「記録とルール」に基づく人事・土地管理が浸透し、法制を軸にした政治文化が醸成され、藤原家の権威は「道長改革」として後世に語り継がれることになるかもしれない。

2024-08-08

anond:20240808120208

藤原氏は平安以降、影響力は確かに低下するけど、朝廷殿舎に上ることを許された堂上家は多数輩出してる。

鎌倉時代からは「近衛家鷹司家九条家二条家一条家」の五摂家が成立して、摂政関白を独占してるから幕末まではメインではないけど裏の影響力はハンパないね。

近代に入っても華族の多くは藤原氏だった。3回首相経験してる近衛文麿なんかは、五摂家近衛家の30代当主だし。

藤原氏は、今でも影響力あるよね。

2024-02-08

anond:20240208083652

プレゼンって相手が決まってたら割と楽なので、昔みたいに関係者が少ない、征夷大将軍関白など上司一人と数人の部下がイイネといえばすべて収まるような場で働いてた人のプレゼン能力が高かったかどうはわからん

単純に偉い人のオキニだっただけかもしれないし

2023-12-09

anond:20231209141523

幼帝は女性人気があるからいてくれるだけよくて、森・二階・麻生・菅などの摂政関白が知恵を絞って実務を担う感じかな。

2023-09-07

anond:20230907172840

一般名詞特定個人を指す例

校長→高嶋雄平

業人→浜崎順平

尊師→麻原あるいは唐澤貴洋

関白豊臣秀吉

だっけ?

2023-08-04

成上がり最高権力者最初にすることが、権力簒奪防止で草

農民A「太閤秀吉殿、すごいなぁ」

農民B「農民出身なのに関白にまで出世して、今や太閤だもんなぁ」

農民A「オラたち農民も見習って、頑張って武士になって出世するっぺ」

豊臣秀吉「あぁそうだ、おめぇーらぁー」

豊臣秀吉身分統制令を出したか農民武士になるの禁止な。違反したら成敗だからな」

豊臣秀吉「あと刀狩りやってるから武器没収な」

農民たち「!?



農民C「西郷どん、すごいなぁ」

農民D「日本南端田舎藩の下級武士だったのに倒幕して、今や筆頭参議だもんなぁ」

農民C「オラたち田舎者も見習って、いざとなったら外国勢力と手を組んで、腐敗した権力を打破するくらいの気概を見せるっぺ」

西郷隆盛「あぁほうじゃ、おぬしらぁー」

西郷隆盛外国と通謀して敵対したら外患誘致罪でごわす。刑罰死刑のみで懲役刑は無かと」

西郷隆盛「あと廃刀令を出したか武装禁止たい」

農民たち「!?

2023-04-17

anond:20230415224309

わけもなく上洛してるんじゃなくて、今でいうと、地方リモートワークしてる人が東京本社に行くみたいなもん。

武将連中って、建前としては天皇の家来なんよ。

たとえば、豊臣秀吉場合まず地方貴族筑前からはじまって、権小将→参議権大納言内大臣を経て、最終的には関白太政大臣まで行く。これは平安時代身分制度そのままだよね。

領地の拡大とか石高upとか実質的権力拡大とは並行して、朝廷基準での肩書存在してるわけ。

から京都にある本社である朝廷とは接触しないといけないし、今みたいにオンライン会議もできないか上洛せざるを得ない。最低でも書状ぐらいは書く必要がある。

2023-04-06

今の偉いおじさん・おばさんが女性登用するのって、「若い女を使った摂関政治」をしたいからだよね

摂関政治(せっかんせいじ)は、日本平安時代794年 - 1185年)において、摂政(せっしょう)と関白(かんぱく)という二つの地位を持つ貴族政治の実権を握っていた政治体制を指します。

摂政は、天皇摂政として政務を代行する役職で、天皇が幼少の場合女性天皇場合において、天皇に代わって政治を行う役割を担っていました。関白は、成人した天皇の側近として政治の補佐を行う役職でした。(GPT4)


まぁつまり若い女権力を向上させるのも、積極的に登用するのも

「実力は無いけど大人しく従います」って女を集めて、引退した後も権力を振り回せるようにしたいだけだよね。


摂関政治一方的権力者による搾取ではない、つまり共存関係(天皇地位を維持し、摂政に関わる人間権力を得る)にある。

現代も同じで、

女の子だけど、男ばかりの縦社会じゃ特別扱い経理支出も分らない、マネジメントも無理!

でも若さゴマすりでそれなりに給料2割増し」

みたいな利益を得て、裏ではおじさん、おばさんが操ってるだけなのよね

実際に本当に有能な女性は登用されないのよ。


若さゴマすりが取り柄だから若い有能な男と違って成長して自分たちに歯向かうことはできないし、根本的には無能から独立したら何もやっていけない。大塚家具みたいにね……


から権力者のおじさん、おばさんはフェミニストを支持するし、「過去反省」と称して

若い男を拒否するのよな。


ターミネーターとか、ルーカスSWの原案とか、銀魂最終回とか見るに

権力を得た男は本能的に「特に有能でもない若い女」を表に立たせるのを好む

本能なんだなと思うよ。

さないと、おじさん・おばさん政治社会

2023-01-08

豊臣秀吉パパ活でも大成功を収めた

近衛前久の猶子になることで手に入れたのは関白

豊臣秀吉出世歴代日本人の中でも抜きん出ているがパパ活においても港区女子とは比べ物にならない

2022-07-03

anond:20220703231209

摂政とか関白とかつけられてお飾りになるんでしょ知ってる

2022-05-23

戦国こぼれ話】惨殺された兄弟姉妹。なぜ豊臣秀吉は厳しい処罰を下したのか?

渡邊大門

株式会社歴史文化研究所代表取締役

2020/11/10(火) 9:13

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豊臣秀吉像。時代劇では明るくひょうきんな秀吉だが、実は残酷な男だった。(写真:アフロ

■当然あらわれた兄弟姉妹

 現在でも隠し子なるもの存在する。隠し子がいた場合、亡くなった親の遺産をめぐって争うことは決して珍しいことではない。非常に厄介な問題である

 豊臣秀吉といえば、弟の秀長などが有名であるが、知られざる兄弟姉妹が突然姿をあらわしたことがある。秀吉はどのように対処したのだろうか。

伊勢からやって来た兄弟

 秀吉兄弟姉妹については、以下に示す興味深い史料がある(フロイス日本史』第12章より)。

1人の若者が、いずれも美々しく豪華な衣裳をまとった2、30人の身分の高い武士を従えて、大坂政庁大坂城)に現れるという出来事があった。この若者伊勢の国から来たのであり、関白秀吉)の実の兄弟自称し、同人を知る多くの人がそれを確信していた。

 時期は、秀吉関白就任した翌々年の天正15年(1587)のことだ(秀吉は51歳)。この若者に関しては他に史料がないものの、秀吉兄弟であることを周囲の人々が確信していたとの記述は、興味深い。

秀吉対応

 秀吉は実の兄弟と称する若者に対して、いかなる対応をしたのだろうか。

関白秀吉)は、傲慢尊大、否それ以上の軽蔑の念をこめて、自らの母(大政所)に対し、かの人物を息子として知っているかどうか、そして息子として認めるかどうかと問い質した。彼女大政所)はその男を息子として認知することを恥じたので、デウスに対する恐れも抱かず、正義のなんたるやも知らぬ身とて、苛酷にも彼の申し立て否定し、人非人的に、そのような者を生んだ覚えはないと言い渡した。

 若者秀吉と面会した際に、何らかの身分的な保証を求めた可能性がある。秀吉があえて母・大政所若者のことを問うたのは、当然「知らない」と言わせるためだったに違いない。

 大政所秀吉との暗黙の了解のうちに、「若者のことを知らない」と答えた。大政所も後ろめたいところがあり、何かと不都合なことがあったのであろう。

残酷な結末

 母・大政所が知らないとなれば、若者権力者秀吉に嘘をついたので、苛酷な運命が待ち受けていた。続けて、同史料引用しよう。

その言葉大政所が知らないと言ったこと)を言い終えるか終えないうちに、件の若者は従者ともども捕縛され、関白秀吉)の面前斬首され、それらの首は棒に刺され、都への街道筋に曝された。このように関白秀吉)は己の肉親者や血族の者すら(己に不都合とあれば)許しはしなかったのである

 母の大政所には、3回以上の結婚歴があったといわれている。貧しい大政所生活を維持するためには、仕方がなかったのだろう。大政所不特定男性関係を持ったのは確実で、当時としては珍しいことでなかったのかもしれない。

■姿をあらわした姉妹

 無残な最期を遂げたのは、この若者だけではなかった。次に、史料を挙げておこう(フロイス日本史』第12章より)。

その(若者が殺されてから)後3、4ヵ月を経、関白秀吉)は、尾張の国に他に(自分の)姉妹がいて、貧しい農民であるらしいことを耳にした。そこで彼は己の血統が賤しいことを打ち消そうとし、姉妹として認め(それ相応の)待遇をするからと言い、当人が望みもせぬのに彼女を都へ召喚するように命じた。

 「己の血統が賤しいことを打ち消そう」としたとあるのは、血のつながりのない兄弟姉妹を根絶やしにすることを意味する。秀吉自分の知らないところで、血縁者を名乗る人物を消したかったのだ。

■惨殺された姉妹

 さらに話は続く。

その哀れな女は、使者の悪意と欺瞞に気が付かず、天からの良運と幸福が授けられたものと思いこみ、できるだけの準備をし、幾人かの身内の婦人たちに伴われて(都に)出向いた。(しかるに)その姉妹は、入京するやいなやただちに捕縛され、他の婦人たちもことごとく無惨にも斬首されてしまった。

 この姉妹はあまり気乗りがしなかったようであるが、最終的には使者の甘言にそそのかされたようである秀吉に会うためにふさわしい服装を整え、来るべき輝かしい未来を信じて入洛したのであった。しかし、結果は史料にあるとおり、無残なものであった。おそらく首は晒しものにされたに違いない。

 秀吉といえば、明るくひょうきんなイメージがあるが、実は大変残酷で怖い男だったようだ。https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20201110-00207204

2022-05-10

anond:20220510081924

元増田書き込みで思い出したのを書いただけなのでそんな怒らないでおくれよ

じゃあ天地の巻と無用の巻とかどう?

四字熟語を分割するのはいいか

四字の巻、熟語の巻

天下の巻、統一の巻

東西の巻、南北の巻

東南の巻、西北の巻

焼肉の巻、定食の巻

酒池の巻、肉林の巻

驚天の巻、動地の巻

日本の巻、沈没の巻

行方の巻、不明の巻

関白の巻、宣言の巻

村上の巻、春樹の巻

専守の巻、防衛の巻

核戦の巻、争後の巻

同床の巻、異夢の巻

2022-04-29

男が軟弱過ぎ

関白亭主の癖に愚痴も言いたいとか

女に晩酌して貰わないと気が済まないとか

それも若い女じゃなきゃ嫌とか

子供養ってる訳でもなく女の肩にもたれ掛かってるくせに男らしくない

お前らは何になりたいんだよ

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