http://www.amazon.co.jp/dp/4105393057
代替医療:主流派の医師の大半が受け入れていない治療法(この本の中での定義)。
ホメオパシー※1とか鍼とかハーブとかその他得体の知れない代替医療は数あれど、それらを冷静に論じた研究は意外に少ない。盲目的に信じ込むか、逆に根拠のないたわごとだから皆殺しにすべきとか、ヒステリックな物言いは割とあるのだけど。
この本では、医薬品では実際に行われている二重盲検法を同様に用いて、代替医療各々は効果があるのか、何にどれくらいの効果があるのかというところを冷静に検証している。第一章では、経験ではなく根拠に基づいて医学を発展させてきた歴史を大まかに説明している。二重盲検法について知っている人でも医学史として楽しめること請け合い。壊血病の対策をいち早く発見できたイギリスの躍進とか激アツ。
※1:ある物質が持つエネルギーを水に記憶させることで治療薬を作成する。溶液は百万分の一以上に薄められて有効成分の分子が含まれてないかもしれないけど、希釈されればされるほどエネルギーは増幅されるから大丈夫だよ(大丈夫じゃない)。材料は植物、鉱物、生物など様々。ベルリンの壁を材料にしたものもあるよ。
この本の中では、具体的なエピソードは読んで欲しいので省きますが、多くの代替医療は科学的な検証を経てプラセボと同等の効果しかないという結果が繰り返し提示されます。効果があるものも、検証する立場の人が中立じゃなかったり、認知的なバイアスによるものなんじゃないかという検証がなされます。一時的に悪い状態(風邪とか)が平均への回帰でほっといても治ったのを、代替医療を施したせいだと思ってもらう工夫とか。
作中でも、また世の中にも「プラセボでも効果があるのならそれでいいじゃないか」という意見がしばしば出されます。著者はこれに対し、以下のように反論していました。
・プラセボの効果を最大にするために、医師が意図的に患者を騙すことになる
=水平的な立場ではなくなり、患者の自己決定権を阻害する、不誠実な関係を築くことになる
・医師はプラセボ効果を守るために薬効の真実について口をつぐむことになり、医学の進歩がストップする。製薬企業も金のかかる新薬開発を投げ出して砂糖玉販売に終止するようになってしまう
・代替医療自体に害がなかったとしても、代替医療を選択することで主流派の医療を受ける機会損失となり危険
(予防接種を受けさせない親とか)
▼治験でもプラセボ効果が出やすい分野とかはあるそうです。軽度・中等度のうつとか。でも抗癌剤とかだと明らかにプラセボは駄目なことが多いっぽいので、そっち方面までプラセボでもいいんだの民に駆逐されるとやばそうな。▲
などなど。このあたりがヒステリックじゃなくエレガントに書いてあって感じが良かったです。
アメリカでは代替医療の一つであるホメオパシーが、昔から有力者に好きな人が多いとかでFDA(アメリカ食品医薬品局。医薬品の臨床試験とかする。つよいきびしい)の審査抜きでガバガバ売られてたり、イギリスではチャールズ皇太子が代替医療大好きでその効果の程を知らしめるための機関を作って研究者から批判されたりとか、日本とは違う実情があるみたいです。日本でもやってる人はやってるみたいですけど。
巻末には30種類くらいの代替医療の効果のほどが簡略にまとめてあるので、代替医療概論としてもおすすめ。
▼代替医療についてまとめて学ぶのが初めてだったので興味深かった。「多次元DNA手術はチャネリングのテクニックを用いて、DNAレベルで問題のある配列を取り除き、神のような完璧な配列で置き換える治療法です」とか最高にキてる。▲
呪術がその効力を発するには、以上の条件を満たさなくてはいけない。呪術それ単体で存在するのではなく、呪いにかかったと信じる人がいて、それが呪いにかかったからだと信じる社会があって、呪いをかけた人間がいて、はじめて呪術が成立する。呪いにかかったと思わなければ呪いは成立しない。
以前『医療人類学のレッスン』でも書いたんだけど、プラセボあるいは代替医療が効果を発する状況には、似たような構造があると思う。
代替医療を受ける人が居て、それが効果があるものだとする社会が存在して、そのコミュニティでは権威のある施術者が居て。施術者と患者の関係が非水平的(知ってる人と知らない人、授ける人と助けを乞う人)という構造も似ている。実際には何もないのに、なにかあるように見せかけることができるってほんとに魔法のようだと思う。呪術と代替医療とプラセボの類似性が私の中で熱いので、今後も追いかけていきたい。▲
▼▲でコメント挿入。
『医療人類学のレッスン 病をめぐる文化を探る』 http://www.amazon.co.jp/dp/4313340165
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/00-Frame2012.html
前提:歴史は一定の方向に進化しており、最後に絶対的価値を持つ正しいものだけが残る(勝利者史観)が支配する状況
19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパにて、「歴史時間的に遅れた未開民族の医療を調べれば、西洋人の過去が発見できるのではないか?」という発想から調査。現地に赴く宣教師等に非西洋の様々な文化的事象を蒐集させた。
▼私としては文化結合症候群のトピックが興味深い。文化の違いで人々の葛藤行動やストレス表現行動は異なる。文化的差異は精神疾患に典型にみられるということだった。
このあたりは『クレイジー・アライク・アメリカ』に詳しかった。香港での拒食症が欧米の拒食症と違う病像だったけど、DSM基準で診察する精神科医の増加でその病像が変わっていくとか。
「苦痛のイディオム」というのも興味深い。ストレスを表現するそれぞれの文化独自のイディオム。日本語でいうところの慣用句的なところでの「肩が凝った」とかか。身体に表現されやすい(身体を表現する言葉に落とし込まれやすい)かどうかは文化次第かな。精神的ストレスや精神的異常を表明しづらい文化圏では心身症が多く出ると聞くし。日本とか中国とか。ヨーロッパは心身症少ないと聞くけど本当なのか。どっかで統計拾いたい。
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☆各論
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/00-Frame2012.html
読んだ中だと、特に「呪術」「憑依」と「狂気」が興味深かったです。狂気はフーコーとかのアレでおなじみ。でも、狂気だけでなく、国家が個人の健康・身体をどう扱うかみたいな部分でも頻出していました。
☆呪術
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/000606magicLS.html
呪術がその効力を発するには、以上の条件を満たさなくてはいけない。呪術それ単体で存在するのではなく、呪いにかかったと信じる人がいて、それが呪いにかかったからだと信じる社会があって、呪いをかけた人間がいて、はじめて呪術が成立する。呪いにかかったと思わなければ呪いは成立しない。
▼このあたりは治験のプラセボを使ったダブルブラインドテストとは真逆。ダブルブラインドテストは、薬効のないプラセボと実薬を、医師も患者もどっちか分からない状態で投与して、薬効の有無や程度、安全性を確認する。プラセボでも改善効果や副作用が出ることはあるので、プラセボに対する優越性を確認するのが目的の試験。
しかし、向精神薬や鎮痛剤の類など、プラセボ効果が比較的出やすいジャンルがある。器質的な異常なんかをプラセボて改善するのは難しいけど、精神症状や痛みの評価は気の持ちようのファクターがある程度あるので。(もちろん、実際に世に出ている薬はそれらを乗り越えて承認されたものなので、有効な薬だとは考えられますが。)
プラセボが効いちゃうというのは、呪術と構造的に似てると思う。
薬に対する期待(あるいは副作用があるのではという不安)があり、治験薬を処方する医師や治験に対する期待(不安)があり。服薬したのが単に乳糖を固めただけのプラセボであっても実際の改善効果や副作用として現れてしまう。これは科学という権威に支えられて発動した呪いだと思う。
『精神科のくすりを語ろう』で熊木先生がいってた、向精神薬は薬への期待や医師への思いも含めて服薬する、効くということなのだよみたいな話を思い出す。薬効だけでなく、薬をめぐる心の揺れ動きも効き方のファクターになる。それが向精神薬を使うということ。
webですれ違った人に、不安発作に襲われた時のために抗不安薬を持ち歩くこと、薬が入っている包みをさわることそれ自体で安心する人がいた。その人はとっくに使用期限が切れたそれを「私のおまもり」といって大事にしていた。以前それを飲んで安定したとか、医師との関係とか、色々な要素があって、そのひとにその薬は安定をもたらしていた。もはや飲まなくていいレベルで。これも向精神薬を「使う」ことになると思う。現代の呪術。▲
☆憑依
憑依とは:異常性をもたらす主体
私が病気になっているという状態ではなく、外部に症状の原因となる霊的存在を想定する。
それ故に、人ではなく霊的存在に働きかけることでどうにかするという話。
憑依の認識と流れ
苦痛がある
↓
オーソリティによって何らかの霊的存在に憑依されているという判断がなされる
↓
それによって症状の見方が変わる。身体内部の問題でなく、外部に存在するものとの関係の問題へとシフトする
↓
呼びかけ、憑依された人をトランス状態にする、命名する
意識的な意思決定ではなく儀礼的空間に身体が感応するという意味で身体的自己による参与
▼自分の中にある困りごとを、外在化させて対象化する、私・誰か・それの三項関係で扱えるものにするというのは心理療法的。分かりやすいところではフォーカシングがそうだし、普通のカウンセリングの中でも言語化することで自分の中のもやもやと向き合い、扱えるようにしていくというプロセスは踏むし。対象化したそれに対して、言語でアプローチするのではなく、あくまで身体的・無意識的なアプローチをかけるのも面白い。象徴を象徴のまま扱っている。そのものの持つエネルギーを減圧させない感じがしてすごい。▲
とぎ汁ってトマトかよ!
おかゆくらいやれよ!
臨機応変に物事に対処できる能力も司令や部隊に事細かく状況説明、報連相が出来るコミュ能力も
リーダーシップも取れているから、どうみても有能集団に見えてならない。
ガンダムなどではガンダムないしモビルスーツが舞台の花形なのであまり気にされてないけど
危機的状況が何度もあってその度に乗り越えられてるのはオペレーターたちの迅速かつ的確な状況判断によるものが大きい。
つまりロボットアニメのオペレーターのスキルは非常に高いのではないか。
何か普通に人格破綻だとかモブだとかでヒーローヒロイン以外はアウトオブ眼中だっただけに
実は彼らこそ縁の下の力持ちなんじゃないかと思えてきた。
横だけど、お前ダッセえな
「30歳までに結婚できないと生きてる意味がない」とか本気で考えてる女は、子育てをしないでほしい。
こーゆー女の子どもは、娘だったら「女の子なんだから…」と言って育てるので、外見を磨く以外のことが何もできなくなる。
すると、確実にその娘は「男にチヤホヤされてないと女の価値ない」って考えるようになる。
こんな風に男のことしか頭にない女は、学校に入ったら同性からものすごく嫌われる。
もちろん、男漁りの能力と、一人の男に一生愛される能力があればいい。
ただ、結婚するまでは何年か学生時代を送るのに、友達が一人もできない女はヤバイ。
社会性が身に付かない。
社会に適合できない。
もちろん、男好き女の子どもが男の子でも、男尊女卑で苦労する。
その息子は「家事は女の仕事」と言って、家のことが何もできない大人になるのだ。
子どもがロクな大人にならない。
確かに、外見にお金を使えば男は寄ってくるだろう。
子どもを不幸にする。
たとえばさゲーム会社が自分たちの思うすっげー面白いゲーム作ってそれが酷評されたからって「ゲームの本質的な面白さがわからんやつは黙ってろ!」とはいわんでしょ。ユーザに楽しませるのがゲームでしょ。
それと同じようにデザインだってそれを見る人にたとえばオリンピックだったらオリンピックを想起させるものだったり、もっと抽象的にいえばカッコいいのが良ければカッコいいと思わせるものにするのがデザインでしょ。
それを自分たちがかっこいいと思ってデザインしたのが、素人にカッコ悪いって言われて「素人は黙ってろ」って仕事放棄してるだけじゃない?
さらに、そこでなんでこれがカッコイイのかって説明すると~っていうのもなんだかちょっと違う気がする。
これがこういうルールがあってこういう背景があるから面白いゲームなんですよって説明されたからって面白さは変わらないでしょ(バイアスかかって変わる人もいるかもしれないけど)
オリンピックエンブレムの記事で思い出したけど、この間キングコング西野亮廣の個展に行ってきた。
西野が好きだから行ったのではない。青山の別の画廊に用があって、その帰りにたまたま立ち寄ったのだ。
※ここから先、芸術やキングコングに関する専門性を持ち合わせていない人の感想
ネットでちらっと見た感じではあまり評価されていないような印象を受けたが、実際に見てみるととても緻密でうまいし、ノスタルジックな画風としてありだと思う。
洞窟のように細くて長くうねるかわいらしい通路の壁中に絵が展示してあり、それと同じくらいの数の西野の絵本も展示してある。来場者はそれを手にとって眺めたり、気に入ったら購入したりできる仕組みだ。ちなみにBGMは素朴で温かみのある日本語ロックであった。
画廊の片隅で、いかにも業界人という感じの男性スタッフと女性スタッフ数人が大声でしゃべりながら床で作業をしていて、どうしてもそっちに注意が行ってしまった。
客層も、テレビの観覧席にいるような若くてきれいで流行の格好をした女の子たちが中心でずいぶんと華やかだった。
西野氏とその周辺もずいぶんと騒がしかった。芸能人って本当に声でかいな(ただ、在廊していらっしゃったことは評価できる)
わたしは確信した。ここはアーティストが作り上げた空間ではない。芸能界の一部だ。
彼が芸能人じゃなかったら、いったいどのくらい評価をもらえたんだろう。
果たして、純粋にアーティストとしての西野を支えている来場者はいかほどいたのだろうか。
芸能人が絵を描いているからちやほやして群がっている。傍から見るとそんな風に見えた。言い方が悪くて申し訳ないが、どんなに本人が頑張って描いても、羽田陽区のCDやネタ本と一緒だと思った。
この環境から脱出しない限り、本質的なアーティストとして認知されるのはなかなか難しいんじゃなかろうか。
有名人であるということはとても大きなアドバンテージだ。その恵みを抜きにしても魅力的なアーティストになれるかどうか。
元々お笑い芸人として非常に有名である以上こうなってしまうのは仕方のないことだし、芸能人とアーティストの活動をどのくらいの比率でやりたいのかは知らないので増田でとやかく言うことではないが、個人的に重要な問題であるように感じる。
ブコメをつけるようになって、
他人のくだらないエントリに適当なつっこみを入れるだけの気軽さを覚えてしまったら、
頭をひねって受け狙いの増田を書いてるのがバカらしくなってきた
というか、書けなくなった
前は当たれば50users くらいまでは行けたのに、
たまにスターをもらえるだけでも張り合いがあるし、
このままネットの海に沈んでいくのもいいかもしれない
○朝食:なし
○昼食:おにぎり三つ
○調子
むきゅーのダンスだむきゅー! むきゅー!
がんばったんだけど、仕様を完全に誤解して、無駄な時間を過ごしてしまった。
むきゅー、今日なんのために仕事行って遅くまでやったのか理解できないぐらい、ダメダメだあ。
でもさあ、仕様を伝える側にだって問題はあったんじゃないかなあ、僕だけの責任かあ、これ?
と正直、疑問に思うことばかりです。
短期のお仕事なので、さっさと終わらして、次の仕事に移りたいなあ。
どう育てようか悩むなあ。
自分としては、村上春樹がサブカルチャーであるところのセカイ系にアクセスした作品は
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」だと思っていた
あの作品は灰羽連盟という変形を経ずに、麻枝准によって流布されてると勝手に思ってる
何にせよ、もしかすると現在のサブカルチャーのメインテーマは「全能感と称賛」にあるのかもしれない
自己との対話を通過し、自分だけの世界で内省をするわけでもなく、ひたすらに力だけが増していく世界
何もかもがご都合主義的に進んでいき、主人公が話にあらゆる力や倫理が味方し、称賛される世界
俗な言葉で言う「やさしいせかい」を基本とし、作品により幼児性やエゴの色彩を強めたのが現代のサブカルチャーなのではないだろうか
アイスモナカの皮はパリパリのほうが良い、パリパリのほうが上等、という風潮に異を唱えたい。
味の問題ではない。
皮のカスがボロボロボロボロ零れてどうにも扱いに困る。どう食べるのが正しいのか?
家で1人で食べる時はテーブルの上に古新聞か大きめのチラシを広げてその上で食べ
しかし、客人に振舞う時、又は客人として振舞われる時はどうすれば?
大きめの皿やランチョンマット程度では零れカスをカバーしきれない。
かといって、皿を手に持って口の真下で構えながら食べるのも見てくれが良くない。
それとも、盛大に零れ落ちるカスを気付かないもの、ないものとして扱い、客人が帰った後にテーブルと床を掃除すべきなのだろうか?
一時の快楽、クリスプ感の為に犠牲となるものが大き過ぎるのではないか?
いっそ、外で食べるか。
縁側や縁台に零れたカスは食べ終わった後にパッパと手で払って。