CD;朝崎郁恵、おぼくり
前のエントリーで朝崎郁恵さんの「十九の春」について書きましたが、このことに触れたら、「嘉義丸のうた」も触れておきたいと思いまして、今日はこのエントリーです。
「十九の春」は1975年、田端義夫さんが歌って当時流行ったそうですが(私もこの世に生を受けていましたが、さすがに記憶がありません)、これを聞いた朝崎さんが、昔、ご本人の父、朝崎辰恕(たつじょ)さんが作って戦時中に加計呂麻島で作って歌っていたという「嘉義丸のうた」とよく似ていて、それで、その後、その歌を思い出して書き留め、復元した唄が、「嘉義丸のうた」です。
嘉義丸は、明治40年(1907年)建造の2500トンあまりの船で、当時その名前からもわかる台湾・嘉義と日本を結ぶ予定であった船でした。幾つかの航路に就航、配置転換された後、昭和8年に沖縄線に就航し、先の大戦中は「船舶運営会」の使用船として内地と沖縄間の民間輸送に使われておりましたが、日本のシーレーンへの米潜水艦による攻撃が本格化した昭和18年(1943年)、5月26日に、米国潜水艦の魚雷によって、沈没しました。民間人が多く犠牲となりました。犠牲者数実数は乗客名簿に載っていない方もいらっしゃるようで、わかっていません。
当時、シーレーンが侵されている戦況が外に漏れることを嫌ったためであろう、情報遮断が生存者にもされたためこの沈没については、広く伝えること、伝わることが出来ませんでした。戦時中に上記の唄が広く広がることが出来なかったのもそのような背景によります。「情報」とはそのようなものであるし、またそれを完全に遮断することはできない、すべての口を閉ざすことは出来なかったことを、後に生を受けた私たちは心に留めて、静かにこの唄を聞いてはどうでしょうか。
嘉義丸のうた
http://www.youtube.com/watch?v=UI6dtH2pXMM