野田醤油醸造之図
神田川徳蔵物語
醤油が作られる工程を描いた押絵扁額をお見せします。
押絵細工師の4代目勝文斎椿月(勝川文吉)が、
明治初期に制作した作品です。
「押絵」とは、人物や花鳥などの絵を綿と布で包み、板などに貼りつけたもの。
例えば桜の花なら、厚紙を桜の花びらの形に切り抜いてピンクの布でくるみ、
厚紙と布の間に綿を入れます。そういうパーツを組み合わせて板に貼り、
桜の花にしていきます。ふくらみがあるので立体感が得られます。
羽子板の役者絵や藤娘などがそうですね。
子供のころ羽根つきに使いましたが、重くて大変でした。
「野田醤油醸造之図」です。
この扁額は、
キッコーマン国際食文化研究センターが野田市郷土博物館へ寄託したもので、
同センターと博物館のご好意により、ここに掲載することができました。
なにしろ幅が3m67㎝、高さが94㎝もありますから、
ブログで全体を理解するにはちょっと無理があります。
なので、部分に分けて見ていきます。
材料の仕込みの様子です。
醤油醸造の工程をちょっと述べてみます。
私の知識はにわか仕込で「熟成」にいたっていませんので、
詳しくは各醸造会社のHPをご覧ください。
醤油の原材料は大豆、小麦、塩でそれに麹菌だそうです。
昔は古い家屋の天井などに酵母菌が住んでいて、
みそ、しょう油などはその恩恵を受けていたとか。
日本人の知恵って素晴らしいなと思います。
上の絵は、蔵人たちが大豆や小麦の仕込みをしているところですが、
手前にいるのは見物人で、
勝文斎は当時の人気役者を見物人に扮装させて描いたそうです。
次は圧搾(あっさく)。しぼり出しです。
圧搾には石を使いました。
前々回お伝えした「吊り石」です。
この時活躍したのが、力石に名を残した男たちです。
この「野田醤油醸造之図」は、
野田の醸造家仲間が勝文斎に制作依頼したもので、
明治10年、上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会に出品。
褒賞を受けました。
このとき、勝文斎の親友、絵師の河鍋暁斎の錦絵も版元から出品されました。
この博覧会は富国強兵、殖産興業の一環として開催されたため、
ミシンや農機具の展示などがあったそうです。
でも、それと暁斎さんの錦絵とは合いませんよね。
ミシンや農機具の戯画ならおもしろかったでしょうけど。
樽詰めです。
この明治10年は西郷隆盛の西南戦争があった年です。
でも観客は45万4000人もあったそうですから、
日本人の心は完全に新時代へ走り出していた、ということでしょうか。
それにしても入場者が45万人って、
これ、当時の東京府の人口の約半分ですよ。ホントカイナと思いましたが、
国立国会図書館の記述なので、ウソではありません。
で、勝文斎は、この扁額制作のため住まいの東京・人形町から、
千葉県野田までせっせと通って観察を続けたそうです。
これが縁で、息子の5代目勝文斎は、
野田のくづもち屋・西宮幸七の長女と結婚。
石を担ぐ男たちと吊り石をもう少しはっきりお見せします。
押絵細工師の勝文斎椿月は、河鍋暁斎はもちろん、
力持ちの本町(浪野)東助とは終生の友だったそうですから、
石を担ぐ男たちを描くときは、きっと東助さんも参考にしたと思います。
リアルです。
扁額完成と褒賞受賞の折りには、
東助持参のカキやナマコを肴に、野田の醤油醸造家や暁斎などと
おいしいお酒を、ハメをはずして飲んだと思います。
※画像提供/
キッコーマン国際食文化研究センター/野田市野田250 ☎04-7123-5215
野田市郷土博物館/野田市野田370-8 ☎04-7124-6851
なお、野田市郷土博物館にはこの扁額のほかに、
歌舞伎役者を描いた押絵行灯などの作品も収蔵されています。
押絵細工師の4代目勝文斎椿月(勝川文吉)が、
明治初期に制作した作品です。
「押絵」とは、人物や花鳥などの絵を綿と布で包み、板などに貼りつけたもの。
例えば桜の花なら、厚紙を桜の花びらの形に切り抜いてピンクの布でくるみ、
厚紙と布の間に綿を入れます。そういうパーツを組み合わせて板に貼り、
桜の花にしていきます。ふくらみがあるので立体感が得られます。
羽子板の役者絵や藤娘などがそうですね。
子供のころ羽根つきに使いましたが、重くて大変でした。
「野田醤油醸造之図」です。
この扁額は、
キッコーマン国際食文化研究センターが野田市郷土博物館へ寄託したもので、
同センターと博物館のご好意により、ここに掲載することができました。
なにしろ幅が3m67㎝、高さが94㎝もありますから、
ブログで全体を理解するにはちょっと無理があります。
なので、部分に分けて見ていきます。
材料の仕込みの様子です。
醤油醸造の工程をちょっと述べてみます。
私の知識はにわか仕込で「熟成」にいたっていませんので、
詳しくは各醸造会社のHPをご覧ください。
醤油の原材料は大豆、小麦、塩でそれに麹菌だそうです。
昔は古い家屋の天井などに酵母菌が住んでいて、
みそ、しょう油などはその恩恵を受けていたとか。
日本人の知恵って素晴らしいなと思います。
上の絵は、蔵人たちが大豆や小麦の仕込みをしているところですが、
手前にいるのは見物人で、
勝文斎は当時の人気役者を見物人に扮装させて描いたそうです。
次は圧搾(あっさく)。しぼり出しです。
圧搾には石を使いました。
前々回お伝えした「吊り石」です。
この時活躍したのが、力石に名を残した男たちです。
この「野田醤油醸造之図」は、
野田の醸造家仲間が勝文斎に制作依頼したもので、
明治10年、上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会に出品。
褒賞を受けました。
このとき、勝文斎の親友、絵師の河鍋暁斎の錦絵も版元から出品されました。
この博覧会は富国強兵、殖産興業の一環として開催されたため、
ミシンや農機具の展示などがあったそうです。
でも、それと暁斎さんの錦絵とは合いませんよね。
ミシンや農機具の戯画ならおもしろかったでしょうけど。
樽詰めです。
この明治10年は西郷隆盛の西南戦争があった年です。
でも観客は45万4000人もあったそうですから、
日本人の心は完全に新時代へ走り出していた、ということでしょうか。
それにしても入場者が45万人って、
これ、当時の東京府の人口の約半分ですよ。ホントカイナと思いましたが、
国立国会図書館の記述なので、ウソではありません。
で、勝文斎は、この扁額制作のため住まいの東京・人形町から、
千葉県野田までせっせと通って観察を続けたそうです。
これが縁で、息子の5代目勝文斎は、
野田のくづもち屋・西宮幸七の長女と結婚。
石を担ぐ男たちと吊り石をもう少しはっきりお見せします。
押絵細工師の勝文斎椿月は、河鍋暁斎はもちろん、
力持ちの本町(浪野)東助とは終生の友だったそうですから、
石を担ぐ男たちを描くときは、きっと東助さんも参考にしたと思います。
リアルです。
扁額完成と褒賞受賞の折りには、
東助持参のカキやナマコを肴に、野田の醤油醸造家や暁斎などと
おいしいお酒を、ハメをはずして飲んだと思います。
※画像提供/
キッコーマン国際食文化研究センター/野田市野田250 ☎04-7123-5215
野田市郷土博物館/野田市野田370-8 ☎04-7124-6851
なお、野田市郷土博物館にはこの扁額のほかに、
歌舞伎役者を描いた押絵行灯などの作品も収蔵されています。
コメント
石と醤油
一つのことを追っかけているとすべてに通じてしまう。
なんとまあ、ちから姫さまの執念が実るのでしょうか。
パチパチパチ。
2017-12-12 06:47 ヨリック URL 編集
拍手ありがとうございます
本当におもしろいです。
明治の初めに生きた人たちは新政府への反発もあって、その反発と自分のこれからを模索するエネルギーとが複雑にからんで。それがまた魅力なんですけど。
石をテーマの単純なブログですが、
こんなに続けられるとは思ってもいませんでした。
みなさまのおかげですね。
2017-12-12 16:34 雨宮清子(ちから姫) URL 編集
おはようございます
写真や解説など丁寧に書かれて気に入っています。
私の場合は、一つ書くだけでも写真の選別や、
関連の記事など見ながら時間が掛かってしまいます。
やはり姫の経験で書類作成が上手なんですね。
何時も、次のブログが見たくなりますからね。
2017-12-15 11:13 one0522 URL 編集
ありがとうございます
力持ちのご子孫が名乗り出てくれて、
新しい展開になってきたことが大きかったです。
こんなマニアックな零細ブログでも、どこかでだれかが見てくださっているんですね。いい加減な気持ちでは書けないと気を引き締めました。
でもこのところ少々疲れが出てきました。
が、がんばります。
2017-12-15 17:43 雨宮清子(ちから姫) URL 編集