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2枚あった写真

神田川徳蔵物語
08 /22 2017
大正から昭和初期に活躍した力持ち力士神田川徳蔵
その縁者、Eさんからいただいた写真の中に、こんな一枚がありました。

「八百喜代氏納石力持」

aoyama_web (2)

当時、東京・青山原宿で八百屋を営んでいた
「青山八百喜代(やおきよ)が、
自分の持ち上げた力石を神社に奉納したときの記念写真です。

時は今から97年前の大正九年七月二十六日。
場所は東京・青山熊野神社(渋谷区神宮前)。

この力石奉納を記念して、
近隣の力持ちたちがそれぞれ自慢の石で力技を披露したのでしょう。
見事な石がずらりと並んでいます。

後ろに写る見物人の多さから、
この力石奉納はかなりの人気を呼んだことがわかります。

で、この写真を見た埼玉の研究者の斎藤氏はびっくり。
「実はこれと同じ写真を、2008年にネットで見つけていたのです。
ところが誰の納石力持ちか、参加した有名力士は誰なのか場所はどこか
さっぱりわからず、そのままにしていました」

今から9年前、斎藤氏が入手していた写真がこちら
ホントだ、おんなじだ!

img674.jpg

これは鉄道沿線の旧家から明治・大正期の古写真を集めた
「写真が語る沿線」に収録されていた一枚です。
  =校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集・文:岩田忠利=

説明によると、
こちらの写真は根岸造園(世田谷区下馬)の当時の社長、
野澤(根岸)良雄のご子孫が持っていたもので、
後列向かって左端の黒っぽい半てんを着ているのがその人だという。

下の写真の自転車の青年は、19歳のときの野澤(根岸)良雄です。
大正7年、村で一番早く自転車を買ったそうですから、
かなり裕福な家だったことがうかがえます。

右の写真は野澤(根岸)良雄の力持ちグループ「野澤組」です。
自転車に乗るハイカラな青年が力持ちに興じる、
当時の青年たちにとって力持ちは、粋な遊びだったのかもしれません。

img613.jpg
「写真が語る沿線」よりお借りしました。写真は根岸造園所蔵。

「八百喜代氏納石力持」が行われたのは大正9年で、
自転車購入の2年後ですから、このとき根岸は21歳になっていた、
ということになります。

この根岸が着ている半てんには屋号の「水車」がついています。
前列左から4番目の人物も同じ半てんを着ています。
斎藤氏は写真に写る番付から、この人を「野澤□三郎」と特定しました。

さて、力石も力持ちもすでに人々の記憶から遠ざかってしまった今日、
このように同じ写真が別々のご子孫のお宅から発見されたことは、
本当に奇跡です。

「徳蔵縁者の方からの写真の情報は、すこぶるつきのプレゼントです。
こういうことがあるので持つべきものは力友ですね!」
と斎藤氏は興奮を隠せない。

「持つべきものは力友」…
…でしょう?

ここから斎藤氏の懸命な人物特定の探求が始まりました。
が、すぐ壁にぶつかりました。

「肝心の徳蔵がいない…」

  
       ーーーーーー◇ーーーーーー

※昨日、町で買い物中、ご老人に呼び止められた。
 「力石の会ってどこにあるんだね?」
 そう言ってご老人は、私が着ていた例のTシャツの
 「東海力石の會」の文字を懐かしそうに見つめていた。
 
 力石の文字が目にとまり、なおかつ「ちからいし」と読める人なんて、
 この静岡市にはまずいない。
 これは嬉しいと早速説明しようとしたら、
 連れ合いらしいおばあちゃんがいきなりさえぎった。
 なんでかわからないけれど、本当に残念だった。
 
 でも、こんなことがあるんですものね、
 これからもどんどんこのTシャツを着て町へ出かけます。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞