人間わざとは思えない
神田川徳蔵物語
柳森神社の力石群の中でひときわ異彩を放つのが、この「百度石」です。
これです。
高さが1m余もありますので、ほかの石が小さく見えます。

100余×68×24㎝
「百度石 皇紀二千六百年建立
神田川 徳蔵 大工町 惣吉 足受」
これは神田川徳蔵と大工町惣吉がそれぞれ足で差したという意味です。
ここに刻まれた「百度」というのは、
寺社の入り口から拝殿や本堂までを百回往復して願掛けをする
「お百度参り」のことです。
百度石はその目印として入口あたりに置かれていましたが、
徳蔵たちのこの百度石が、どこに奉納されたかは定かではありません。
また「皇紀二千六百年」というのは、昭和15年(1940)のことで、
この年は神武天皇の即位から2600年目にあたるとされ、
各地で盛んに催しなどが行われました。
この9年前の昭和6年、日本は満州事変勃発で15年戦争に突入。
昭和14年には、ドイツのヒトラーがポーランドへ侵攻。
これが第二次世界大戦へと広がっていきます。
日本は、皇紀二千六百年とされたこの年、
そのドイツとムッソリーニのイタリアとの間で三国軍事同盟を結びます。
徳蔵と惣吉は戦時下の国威発揚のお役目を仰せつかって、
この足受けを披露したのかもしれません。
しかし「日本の戦勝祈願」より、我が子が無事戦地から帰ることを願って
お百度参りをした母たちが多かったのではないでしょうか。
戦死した息子の墓に、
生前その息子が愛用した力石をそっと添えたお墓があります。
お母さんはご自分がこの世を去るまで、
この石を息子のつもりで、会いに行っていたような気がします。
「一億火の玉」「欲しがりません勝つまでは」の戦時色一色の状態は、
B29による大空襲、広島、長崎への原爆投下、米軍の沖縄上陸などで
壊滅的被害を受けた昭和20年まで続き、敗戦を迎えます。
大空襲の中で、多くの力石が生き延びた。
石は自ら動けないのにね、不思議なたくましさを感じます。
さて、この石にはもう一つ、聞きなれない言葉が刻まれています。
「足受け」です。「足差し」ともいいます。
こういう技です。

沢田重隆・画 江戸川区郷土資料館
足差しにはとてつもない重量の石が使われますので、
力持ち番付にも載った玩具博士の清水晴風は、
「これができるのは真打だけ」と言っています。
この重い石をどうやって足に乗せるかというと、
こんな具合に介添え人たちが乗せるのです。乗せる人たちも大変ですね。

埼玉県桶川市の市民祭での「足差し(足受け)」の再現
この再現で使われたのはハリボテの石ですが、
実際の石は610㌔(実測)もある日本一の力石で、
これを差したのは埼玉県出身の日本一の力持ち、三ノ宮卯之助です。
この卯之助の石の大きさは125×75×35㎝。
これに比べて徳蔵と惣吉が挙げた「百度石」は、
100余×68×24㎝とやや及ばないものの、堂々たる巨石です。
徳蔵、このとき49歳。
想像してみてください。
49歳で、1m余りもある巨石を足で挙げたのです。
実際に力石を目にされた方は、
「こんな石を持ち上げたなんて信じられない」とおっしゃいます。
本当にとうてい人間わざとは思えませんが、挙げたんです。
この二人もまた卯之助同様、抜きん出た力持ちだったのです。
残念ながら百度石の足受けの写真はありませんので、
かわりに臼の足受けの写真をお見せします。
「百度石」の足受けから遡ること18年も昔の興行です。

「樽の曲持ち」 「臼の足受け」
「大正十壱年七月十六日 深川高橋際舟亀前空地
樽ノ曲持 臼ノ足受」
演者は不明ですが、埼玉の研究者・斎藤氏によると、
臼の足受けで左端で付き添っているのは、神田川徳蔵とのことです。
このとき徳蔵さん、31歳。
愛するお千代さんと結婚したころでしょうか。
張り切っております。
※徳蔵関係の写真は、
徳蔵直系のご子孫から縁者のEさんを通してお借りしています。
これです。
高さが1m余もありますので、ほかの石が小さく見えます。

100余×68×24㎝
「百度石 皇紀二千六百年建立
神田川 徳蔵 大工町 惣吉 足受」
これは神田川徳蔵と大工町惣吉がそれぞれ足で差したという意味です。
ここに刻まれた「百度」というのは、
寺社の入り口から拝殿や本堂までを百回往復して願掛けをする
「お百度参り」のことです。
百度石はその目印として入口あたりに置かれていましたが、
徳蔵たちのこの百度石が、どこに奉納されたかは定かではありません。
また「皇紀二千六百年」というのは、昭和15年(1940)のことで、
この年は神武天皇の即位から2600年目にあたるとされ、
各地で盛んに催しなどが行われました。
この9年前の昭和6年、日本は満州事変勃発で15年戦争に突入。
昭和14年には、ドイツのヒトラーがポーランドへ侵攻。
これが第二次世界大戦へと広がっていきます。
日本は、皇紀二千六百年とされたこの年、
そのドイツとムッソリーニのイタリアとの間で三国軍事同盟を結びます。
徳蔵と惣吉は戦時下の国威発揚のお役目を仰せつかって、
この足受けを披露したのかもしれません。
しかし「日本の戦勝祈願」より、我が子が無事戦地から帰ることを願って
お百度参りをした母たちが多かったのではないでしょうか。
戦死した息子の墓に、
生前その息子が愛用した力石をそっと添えたお墓があります。
お母さんはご自分がこの世を去るまで、
この石を息子のつもりで、会いに行っていたような気がします。
「一億火の玉」「欲しがりません勝つまでは」の戦時色一色の状態は、
B29による大空襲、広島、長崎への原爆投下、米軍の沖縄上陸などで
壊滅的被害を受けた昭和20年まで続き、敗戦を迎えます。
大空襲の中で、多くの力石が生き延びた。
石は自ら動けないのにね、不思議なたくましさを感じます。
さて、この石にはもう一つ、聞きなれない言葉が刻まれています。
「足受け」です。「足差し」ともいいます。
こういう技です。


沢田重隆・画 江戸川区郷土資料館
足差しにはとてつもない重量の石が使われますので、
力持ち番付にも載った玩具博士の清水晴風は、
「これができるのは真打だけ」と言っています。
この重い石をどうやって足に乗せるかというと、
こんな具合に介添え人たちが乗せるのです。乗せる人たちも大変ですね。

埼玉県桶川市の市民祭での「足差し(足受け)」の再現
この再現で使われたのはハリボテの石ですが、
実際の石は610㌔(実測)もある日本一の力石で、
これを差したのは埼玉県出身の日本一の力持ち、三ノ宮卯之助です。
この卯之助の石の大きさは125×75×35㎝。
これに比べて徳蔵と惣吉が挙げた「百度石」は、
100余×68×24㎝とやや及ばないものの、堂々たる巨石です。
徳蔵、このとき49歳。
想像してみてください。
49歳で、1m余りもある巨石を足で挙げたのです。
実際に力石を目にされた方は、
「こんな石を持ち上げたなんて信じられない」とおっしゃいます。
本当にとうてい人間わざとは思えませんが、挙げたんです。
この二人もまた卯之助同様、抜きん出た力持ちだったのです。
残念ながら百度石の足受けの写真はありませんので、
かわりに臼の足受けの写真をお見せします。
「百度石」の足受けから遡ること18年も昔の興行です。

「樽の曲持ち」 「臼の足受け」
「大正十壱年七月十六日 深川高橋際舟亀前空地
樽ノ曲持 臼ノ足受」
演者は不明ですが、埼玉の研究者・斎藤氏によると、
臼の足受けで左端で付き添っているのは、神田川徳蔵とのことです。
このとき徳蔵さん、31歳。
愛するお千代さんと結婚したころでしょうか。
張り切っております。
※徳蔵関係の写真は、
徳蔵直系のご子孫から縁者のEさんを通してお借りしています。
コメント
こんにちは
柳森神社に、参拝したくなりました。
こんな大きな石を足で差し上げるとは、
実際に石を見たいと思います。
先日もコメントしましたが、
秋葉原はかなりのご無沙汰ですから、
地元の江戸っ子にも会いたいです。
神田祭があると忙しいらしいのですが、
今年は如何かな??
年齢的に無理でしょうが、何か話が聞ければ・・・
2017-08-05 12:52 one0522 URL 編集
No title
「足差し」の意味がよくわかりました。
さし石を足で持ち上げるから、足差しなのですね。
ありがとうございました。
路傍学会長拝
2017-08-05 16:12 路傍学会長 URL 編集
No title
ぜひ一度、力石を見てください。
ちょっと感動します。
地元の江戸っ子さんなら、ほかにもいろいろご存知かもしれません。
とっておきのお話、お聞きしたら教えてください。
2017-08-05 18:12 雨宮清子(ちから姫) URL 編集
No title
力持ちが足受け(足差し)をやっているのを見て、サーカスでもやるようになったと言われています。サーカスでやるのは「足芸」といって、足でふすまなんかをクルクルまわします。
子供のころ見ましたが、まだやっているんでしょうか。
2017-08-05 18:18 雨宮清子(ちから姫) URL 編集