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3371名のそれぞれ

柴田幸次郎を追う
12 /27 2016
「駿遠へ移住した徳川家臣団」という本があります。
著者は静岡市の郷土史家、前田匡一郎氏。

全部で5巻。4巻までは自費出版です。
調査に費やした時間はなんと16年。その動機をこう記しています。

「江戸幕府の崩壊により世の中の移り変わりが激しかった時代に、
職を失った徳川家臣たちは何時、何処で、何をして暮らしていたのか、
地域に何をもたらしたのか、彼らの選択は時代にどう反映していったのか、
その実態を具体的に知りたいと思い、
まずその人物の足跡から歴史の1ページを掴めると認識して取材に着手した」


徳川慶喜の駿府での住まいとなった旧代官屋敷
現在は料亭「浮月楼」
CIMG3499.jpg
静岡市紺屋町 

幕に徳川の「葵の紋」が入っています。
慶喜公は最初、家康ゆかりの宝台院に入り、
代官屋敷を経て西草深へ移転。

CIMG3497.jpg

前田氏が調査した家臣は旧幕臣2万3000人のうちの6割、1万3000人余り。
寺を訪ね、磨滅した墓石を読み、文献を調べ、子孫を探し当てる苦労の旅。
ミスを訂正しつつ、やっと3371名を明らかにできた。

銀行員時代の同僚だった方がふと漏らしました。
「こんなことを始めなければ、彼は早死にすることはなかったのに」

でも私は思うんです。
前田氏は誰にも思いつかなかったこの「大仕事」を、
楽しんで、夢中になってやり遂げたに違いない。
無駄に尽き果てたわけでは決してない、と。
それが証拠に、今では多くの歴史家や大学教授たちがこの本に頼っている。

この本を見て、百数十年ぶりに先祖の墓に対面した子孫たちもいる。

生前お会したときの前田氏の、
柔らかい笑顔と晴れ晴れとしたお顔を私は今でも思い出します。

これは神社に保管されている「慶喜公ゆかりの鳥居」です。
慶喜さん没後120年もたっているのに、まだこんなふうに大切にされています。

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静岡市安東・熊野神社

大御所・家康が幼少年期と晩年を過ごし、
最後の将軍が江戸を追われてたどりついた静岡市ですから、
今でも特別の思い入れを持つ人は多い。


話は飛びますが、
ここ熊野神社には「三斗地蔵」と呼ばれた「代用力石」があります。
元は庚申堂にあったもので明治初年の取り壊しで各所を転々とし、
最後にたどりついたのがこの神社のこんな片隅です。
無残にも首がありません。

CIMG3512.jpg

「宝暦六年二月十九日 講中同行 女中二十人」

「村の小若衆が節句の日などにこのお地蔵さんを担いでは、
「じきに一俵担げるぞ」とよく試した。米三斗と同じ目方なのでこう呼ばれた」
=「安東十三ケ町郷土誌」より

さて、前田氏の労作「徳川家臣団」には、
移住してきた幕臣の名、年齢、家禄、移住先、墓などが淡々とつづられています。
その箇条書きの行間から、
なんともいえない哀しみや苦しみ、叫びが聞こえてきます。

著者の感情や意見で粉飾されていないからこそ、
幕臣たちの苦悩がより鮮明に伝わってきます。

「辻謡」。流浪の身となった武士が破れ筵(むしろ)に座り、
謡曲を聞かせて物乞いをしている姿です。

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「謡曲は上流の武士が習うもの。また身分高き女子が一旦不運にあい、
辻琴曲で袖乞いをしていたりする。
憐れなりける風情にこそ」

=「江戸府内絵本風俗往来」より

駿府へ移住してきた旧家臣たちは、糊口をしのぐ職探しに奔走します。
竹細工塗下駄職人になった人、
本屋薬屋を開業した人、教員になった人。
子供を小坊主として寺へ出したり、
娘を糸とりの女工さんに出した人。
駿府から遠く秋田へ移住して味噌・醤油屋になった人。
東京へ戻って人力車夫になった若者。

能楽師の観世家や楽人衆の東儀家、
青木昆陽の子孫もここへやってきた。
奥医師・桂川甫周の娘で、
「名ごりの夢」の語り手・今泉みねさんの叔父は駿河で事業に失敗。
叔母は移住したあと音信不通になった。

刀を鍬に変え、水も出ない荒地の牧之原に入植して、
茶の栽培に取り組んだ人々。
新政府に頭を下げて役人にしてもらった人。
自暴自棄になって刀を振り回す人や自殺した人。

今、その人たちの墓が、
静岡の寺々に苔むしたままひっそりと残されています。

この静岡の地には、
旧幕臣たちの哀しい思いがしみ込んでいるとつくづく思いました。


<つづく>

※参考文献/「駿遠に移住した徳川家臣団」前田匡一郎 1~4巻自費出版
      5巻のみ羽衣出版 平成19年 
     /「名ごりの夢」今泉みね 東洋文庫 昭和51年
     /「安東十三ケ町郷土誌」「三斗地蔵」郷土史編纂委員会 1981
※画像提供/「江戸府内絵本風俗往来」菊池貴一郎(四代目広重) 明治39年
     復刻 平凡社 昭和40年

コメント

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めげないで~

こんにちは♪いつもお世話になっております。
あああ、徳川家臣団。そうでしたね、静岡へ移り大変な思いをされたのでした。
私は尾張藩を調べて北海道の八雲へたどり着きました。
木彫りの熊を始めたのは、この尾張の家臣団。
一度現地へ行かなくちゃと思ってます。

あ、塚原渋柿園の著書を引用されて、静岡へ移った家臣団のお話を連載されてる先輩がおいでです。
よろしければ。

しばやんの日々、様の記事です。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html

私は能楽師がばたんきゅーした時代は、辛いですわ。
道端で謡を聞かせている図、初めて見ました。
土地に受け入れられて、謡を広めました、ならいいのですが。

知るほどに悲しい移住です

つねまる様
コメントありがとうございます。

よいブログをご紹介くださり、ありがとうございます。
また時々のぞかせていただきます。

地元の歴史の会へ行きますと幕臣の子孫が結構おります。歴史書に載るほどの家の方も。そうしてみると静岡市民には生粋の地元民は案外少ないのかな、などと思ったりしています。

東儀家は移住以来、ここに定住したようです。
うちの近くの寺へ移住してきた少年は、間もなく亡くなってしまいました。
うさぎが商売になると聞けばうさぎを飼い大損したなんて話もあります。

本屋や薬屋になった移住者は今も商売を続けていますが、またまたこんなご時世になって、ご苦労されているみたいです。

ケーキさんにしても行動範囲の場所はほとんど身近にありますので、ここに鴨猟にきたのかとか、あそこにみかん狩りにきたんだなと様子が浮かんできて、ちょっとタイムスリップして楽しんでいます。

良い影響は江戸からきた俳人による俳句の広まりでしょうか。
ユネスコ文化遺産になった三保の松原、そこの神社の神主は、官軍に味方したとして旧幕臣に惨殺されてしまいました。江戸時代から地元農民にあこぎなことをしていたとかで、評判は悪かったのですが。

ホントにいろいろ話が転がっています。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞