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夢幻の世、再び

柴田幸次郎を追う
12 /21 2016
風雲急を告げる幕末。

でも江戸庶民はのんきなもので、
「近いうちに公方様(徳川幕府)と天朝様(朝廷)との
戦争があるんだってなあ」などと言いながら、
江戸名物浮世風呂の朝湯につかって、のんびり清元なんかをやっていた」

(彫刻家・高村光雲談)

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「浮世風呂」より

庶民ってヤツは困ったもんですね。
直接、自分に災難が降りかからない限りすべて他人事。今も昔も。

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西郷と勝の会見で、「慶喜の水戸への謹慎、江戸城明け渡し」などが決まり、
慶応4年(明治元年)4月4日、参謀西郷隆盛ら60名が江戸城へ入った。

このときのことを西郷は大久保利通にこう書き送っている。

「参謀は玄関から裏へ通るように聞いていたが、
すぐに刀を持って大広間へ座り込んだ。
陪臣がこのような様子をするのは初めてのことかと、あとで大笑い した」

これについて「戊辰戦争論」の著者は、こんな感想をもらしています。

「征服者として江戸城の大広間にどっかと腰を下ろした西郷の
その得意ぶりが目に見えるようだ」

下の錦絵風のものは「擬制引札」、つまり宣伝チラシを装ったアジビラです。
内容は薩長官軍を皮肉った「お品書き」で、店の名前は「うそ八百屋」

また、「江戸の水」というのもありました。
こちらは化粧水のチラシに似せた擬制引札で、

「徳川の流れを調合した江戸の水を田舎武士(薩長土肥)
恩義知らずの欲顔に塗れば、不
思議なことにの病気が治る」とし、

「偽勅を信じたる馬鹿顔に塗ってよし」

などとも書かれています。
「股の病気」は、陰部がフィラリアによる奇病に罹っていた西郷への皮肉。

チラシの結びは、薩長土肥の産物を並べて諷刺しています。

薩摩芋 萩の餅 土佐鰹節 
唐津海苔 此外京師中国四国
右、産物は毒と知るべし」

いずれも、徳川びいきの文人が書いたものと思われます。

「擬制引札」
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「引札繪びら錦繪廣告」より

慶応4年(明治元年)4月、慶喜公、水戸へ。
同年同月、外国奉行・柴田剛中「お役御免」を申し出て隠居。
「人材はなはだ乏し」(木戸日記)の新政府からの出仕の要請を固辞。
徳川幕臣を貫き、明治10年、55歳でこの世を去った。


慶応4年5月、柴田剛中をフランスへ派遣した小栗忠順(上野介)は、
官軍の東山道先鋒総督府により身柄を拘束され斬首された。41歳。

小栗は「慶喜公に戦意がない以上、無益な戦いはしない」として、
上野国群馬郡(群馬県高崎市)に隠棲。
しかし官軍に、「大砲など隠し持ち農兵を組織した」などと嫌疑をかけられ、
証拠もないまま惨殺された。

その後、この小栗上野介には「徳川埋蔵金」のうわさがついてまわります。

幕府再興のため莫大な軍資金を赤城山に埋めたというもので、
昭和48年出版の「埋蔵金 35兆円の謎」の著者は、
祖父、父、本人3代にわたって埋蔵金探しをしていると書いていますが、
本の刊行からすでに40数年。今はどうなっているのでしょう。

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「埋蔵金35兆円の謎」より、発掘作業をする著者親子。

徳川のお金については、
東京都公文書館がネットで公開している古文書の中にも出てきます。
こちらは千両箱を海に捨てている話です。
興味のある方はちょっと覗いてみてください。現代語の解読が載っています。

埋蔵金話が真実だとしたら、
極度の資金難の新政府が放っておかなかったと思うのですが…。
新政府が意図的に流したガセネタ?

だって和竿師「竿忠の寝言」には、隅田川河口には、
大判小判ではなくドクロが積み重なっていたという話しかないんですよね。

話を戻します。

フランスにいた柴田と合流して、
横須賀製鉄所の資材調達に協力した肥田浜五郎は、
新政府の役人になった。
しかし、明治22年、現・静岡県藤枝市の駅ホームにて事故死。

当時の列車にはトイレがなかったため、肥田は便用のため汽車を降りた。
その後、走り出した汽車に飛び乗ったが乗り損ねて惨劇になった。
汽車にトイレがつくようになったのは、この事故がきっかけだったという。

新政府がスタートする中、
彰義隊新撰組
会津藩などが徹底抗戦を続けていたものの、
1年5か月後に、榎本武揚らがこもる函館・五稜郭の開城をもって、
戊辰戦争は終結、名実ともに明治政府の天下となった。

北海道が五稜郭を中心に独立国家になっていたら、歴史も変わっていたはず。

五稜郭です。
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オランダの築城法をもとに1864年に完成した。

柴田が苦労して整えた兵庫(神戸)港は、新政府の手に渡され、
小栗、柴田が精魂を傾け、莫大な資金を投じた横須賀製鉄所(造船所)は、
フランス人ヴェルニー率いるフランス人技師ともども、
新政府に渡され、神奈川府裁判所の管轄となった。

皮肉なことに、その主任判事は、
フランスで柴田を悩ませた薩摩藩の密航者、寺島宗則であった。

フランスで従者、万蔵を亡くして、
「人生、夢幻の世なり」と嘆いた柴田でしたが、
その同じ思いを再び、痛感したに違いありません。

<つづく>

※画像提供/「浮世風呂」式亭三馬 復刻 日本名著全集 「滑稽本集」
     日本名著全集刊行会 昭和2年
     /「引札繪びら錦繪廣告」増田太次郎 誠文堂新光社 昭和51年
     /「埋蔵金35兆円の謎」水野智之 徳間書店 昭和48年
※参考文献/「戊辰戦争論」石井孝 吉川弘文館 2008
     /「戊辰物語」東京日日新聞社会部編 復刻 筑摩書房
      昭和38年

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞