西郷ドンって案外…
柴田幸次郎を追う
江戸へ帰った慶喜公は今後の方針について、家臣たちに意見を求めた。
その答えは圧倒的に「薩長との徹底抗戦」。
通詞の福地源一郎も「徹底抗戦」を主張する一人だった。
しかし、慶喜さんは朝廷への恭順の道を選び、
「せめて外交事務だけは外国に関係あるをもって整頓し、
もって新政府に交付すべし」(懐往事談)と政務引き渡しを指示し、
上野・寛永寺に隠居してしまいます。
このように政権を放棄した慶喜さんでしたが、西郷隆盛、大久保利通らは、
「息の根を止めなくては安心できない」とばかりに慶喜を執拗に責めます。
「朝敵の慶喜は斬首。土地は没収。冠位剥奪」
命も財産もみんないただき、ってわけです。
西郷南洲筆「敬天愛人」
「しみずの昔 その2」より
朝敵・朝敵といったって、これ、ずいぶん怪しい。
「徳川慶喜」(家近良樹)によると、
「(薩摩が)戦争は幕府側からの発砲で始まり、慶喜自らが幕兵を率いて、
京都に向かって進軍したと主張し、このことを理由に朝敵とし、
これが薩摩藩の正史となったが、これは事実ではない」
まあ、現在の紛争地でも同じような工作があるみたいですから…。
「慶喜の首を切れ!死罪だ!」との薩長の、特に大久保利通の厳しい要求に
勝海舟が「助命と江戸攻撃の中止」の嘆願に動きます。
勝は腹心の山岡鉄舟に、駿府にいる西郷隆盛への手紙を託します。
こちらは山岡が残していったとされるピストルです。
由比・薩埵(さった)峠の登り口にある茶店「望嶽亭」の御主人が、
「官軍に追われた山岡がこの茶店に逃げ込んできた。
そこで隠し階段から清水次郎長が手配した船で駿府に送り届けた。
ピストルはそのお礼に置いていった」
とおっしゃっていましたが、この説は学者さんたちからは否定されています。
歴史学者はときとして、残酷な結果を出してしまいますが、
史実はもちろんですが、
ロマンはロマンとして生かしておきたいですね。
花園大学の松田隆行先生によると、こんな状況だったみたいです。
「山岡は品川の先、
六郷川(多摩川下流)まで到着していた東征軍の先方隊をかきわけながら、
「朝敵・徳川慶喜家来、山岡鉄太郎、大総督府へ通る」と
敵の陣営の中を進んでいった」
山岡さん、カッコいい!
「戊辰戦争論」の石井先生はもっとすごい。
「家臣山岡が主家の用によって西郷参謀と面会しようとするもので、
いくさを欲するものではない。首を討ちたければ討て!」
「西郷・山岡会見の地」です。
静岡市伝馬町 会見はこの場所にあった「松崎屋源兵衛」宅で行われた。
「朝敵といわばいえ」とばかりに自ら名乗り、
「首を討ちたければ討て」と言い放って単身、敵陣に乗り込んだ山岡。
それに対して、西郷ドン、両脇に大砲をかまえ、
山岡の背後に抜刀者をひかえさせての対応だったそうで…。
西郷ドンって、デカイずうたいの割には案外××だったのね。
それはさておき、
「会見の場」にどなたか「忘れ物ですよ~」
<つづく>
※参考文献/「徳川慶喜」家近良樹 日本歴史会編集 吉川弘文館 2014
/「戊辰戦争論」石井孝 吉川弘文館 2008
/花園大学・松田隆行講座資料
/「懐往事談」福地源一郎
※画像提供/「しみずの昔 その2」多喜義郎 私家本 平成5年
その答えは圧倒的に「薩長との徹底抗戦」。
通詞の福地源一郎も「徹底抗戦」を主張する一人だった。
しかし、慶喜さんは朝廷への恭順の道を選び、
「せめて外交事務だけは外国に関係あるをもって整頓し、
もって新政府に交付すべし」(懐往事談)と政務引き渡しを指示し、
上野・寛永寺に隠居してしまいます。
このように政権を放棄した慶喜さんでしたが、西郷隆盛、大久保利通らは、
「息の根を止めなくては安心できない」とばかりに慶喜を執拗に責めます。
「朝敵の慶喜は斬首。土地は没収。冠位剥奪」
命も財産もみんないただき、ってわけです。
西郷南洲筆「敬天愛人」
「しみずの昔 その2」より
朝敵・朝敵といったって、これ、ずいぶん怪しい。
「徳川慶喜」(家近良樹)によると、
「(薩摩が)戦争は幕府側からの発砲で始まり、慶喜自らが幕兵を率いて、
京都に向かって進軍したと主張し、このことを理由に朝敵とし、
これが薩摩藩の正史となったが、これは事実ではない」
まあ、現在の紛争地でも同じような工作があるみたいですから…。
「慶喜の首を切れ!死罪だ!」との薩長の、特に大久保利通の厳しい要求に
勝海舟が「助命と江戸攻撃の中止」の嘆願に動きます。
勝は腹心の山岡鉄舟に、駿府にいる西郷隆盛への手紙を託します。
こちらは山岡が残していったとされるピストルです。
由比・薩埵(さった)峠の登り口にある茶店「望嶽亭」の御主人が、
「官軍に追われた山岡がこの茶店に逃げ込んできた。
そこで隠し階段から清水次郎長が手配した船で駿府に送り届けた。
ピストルはそのお礼に置いていった」
とおっしゃっていましたが、この説は学者さんたちからは否定されています。
歴史学者はときとして、残酷な結果を出してしまいますが、
史実はもちろんですが、
ロマンはロマンとして生かしておきたいですね。
花園大学の松田隆行先生によると、こんな状況だったみたいです。
「山岡は品川の先、
六郷川(多摩川下流)まで到着していた東征軍の先方隊をかきわけながら、
「朝敵・徳川慶喜家来、山岡鉄太郎、大総督府へ通る」と
敵の陣営の中を進んでいった」
山岡さん、カッコいい!
「戊辰戦争論」の石井先生はもっとすごい。
「家臣山岡が主家の用によって西郷参謀と面会しようとするもので、
いくさを欲するものではない。首を討ちたければ討て!」
「西郷・山岡会見の地」です。
静岡市伝馬町 会見はこの場所にあった「松崎屋源兵衛」宅で行われた。
「朝敵といわばいえ」とばかりに自ら名乗り、
「首を討ちたければ討て」と言い放って単身、敵陣に乗り込んだ山岡。
それに対して、西郷ドン、両脇に大砲をかまえ、
山岡の背後に抜刀者をひかえさせての対応だったそうで…。
西郷ドンって、デカイずうたいの割には案外××だったのね。
それはさておき、
「会見の場」にどなたか「忘れ物ですよ~」
<つづく>
※参考文献/「徳川慶喜」家近良樹 日本歴史会編集 吉川弘文館 2014
/「戊辰戦争論」石井孝 吉川弘文館 2008
/花園大学・松田隆行講座資料
/「懐往事談」福地源一郎
※画像提供/「しみずの昔 その2」多喜義郎 私家本 平成5年
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