フランス シュノンソー 京都 修学院離宮 西洋人は「美」を人工的に創造し、日本人は「美」を存在から発見すると言われますが、このことは、西洋庭園と日本庭園の造り方を見るとよく分かります。
フランスのロワール渓谷にあるシュノンソー城の庭園は、人工的に造られた美です。京都の修学院離宮は、自然の地形と植生をベースにして、不必要な植物などを抜き去って造ったという意味で自然的美と云えます。(写真1、2)
美というイメージが初めにありきという場合と、白紙の状態で自然を眺めていて美を発見する場合とでは、美に対する基本的立場が異なります。前者の態度はアクティブであり、後者の態度はパッシブです。
造園や彫刻や絵画と違って、写真撮影は存在するものを写すわけですから、基本的にはパッシブな態度と見なされます。存在するものを眺めて、その中から美しいと思うものを取り出すという意味では日本庭園の造り方に似ています。
活花を撮影して写真芸術だという人もいますが、それが成り立つのは実物より写真の方が美しいという場合でしょう。しかし、実物の造形と写真の撮影のどちらが美の発見により多く貢献しているかと問われれば分からなくなります。
写真の場合は、被写体が自然物でも人工物でも構いませんが、その中に美を発見することです。平凡な被写体に人の知らない美を発見すると嬉しくなります。何気ない情景に感動する場面を発見すると楽しくなります。
新しい美の発見は、じゅっくり観察して行うこともあれば、瞬時に直感的に行うこともあります。貝殻やチューリップの造形美を撮影した写真家ロバート・メイプルソープが前者なら、決定的瞬間を唱えた写真家カルティエ・ブレッソンは後者です。
写真機を片手に美の探訪者になることほど楽しいことはありません。 (以上)
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写真1 写真2 写真3 写真4 日本で春の花を代表するのは梅と桜ですが、秋の花としては彼岸花とコスモスを代表に挙げたいと思います。梅の静けさと桜の派手やかさが対称的であるように、彼岸花の妖艶さとコスモスの可憐さが対称的です。
彼岸花はその名の通り九月のお彼岸の頃咲いて、花の期間は割と短いですが、コスモスは夏の盛り頃から晩秋まで長い期間にわたり咲き続けます。賑やかに群生して咲くのも良し、二、三本で楚々として咲くのも良しという点は、彼岸花もコスモスも同じです。(写真1、2)
彼岸花が球根で、コスモスはタネで繁殖するという植生上の違いはありますが、放置して置いても毎年同じ処に同じように咲くので、手間のかからない景観植物として重宝されています。
彼岸花は別名マンジュシャゲ(曼珠沙華)と呼ばれ、コスモスはアキザクラ(秋桜)と呼ばれます。
曼珠沙華という名前は法華経などの仏典に由来するそうで、その球根が有毒で、墓地に植えられていることから彼岸花には何か不吉とか不気味というイメージがつきまといます。葉のない緑の茎がツイーッと伸びた先に赤い妖艶な花弁を付けた曼珠沙華は、そのイメージを一層膨らませます。 (写真3)
他方、秋桜という呼び名はコスモスの容姿を表すのに秀逸な表現です。群生するコスモスは将に満開の桜並木を連想させます。しかし、数本のコスモスがなよなよした茎の上に菊科独特の花弁を優しく広げた秋桜は可憐そのものです。コスモスの花言葉は少女の純真だそうですが、ぴったりです。(写真4) (以上)
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写真1 写真2 写真3 写真4 写真5 写真6 美しいと思われていたものが急に醜く見えたり、醜いと思っていたものが急に美しく見えたりすることがあります。
それは、見る人の見方が変化した場合に起きることもありますし、見る場所、見る角度、見る範囲が変わったときにも起きます。
前者は、いわゆる心境の変化とでもいうもので、人間関係で好きだった人と嫌いだった人が、今は逆転していると言うケースに似ています。これは極めて主観的な変化です。
後者は、対象物の何処に着目するかによって、その対象物が美しく見えたり、醜く見えたりする場合です。これは心境の変化ではなく、観察という客観的な行為によって生まれます。
ここに掲げた写真は、全体としては平凡で何の感興も湧かないのですが、その一部に注目すると面白いとか美しいとか感じます(私だけかも知れませんが)。写真1と2、3と4、5と6が夫々全体と部分を対比して眺めたものです。
マンションや朽ちかけた木は以前にも見ていたものですが、ある日その部分が美しいと感じたのです。見ていて見ていなかったのか、見ていても感じなかったのか分かりませんが、いずれにしても以前は少しも感興を呼ばなかったのは事実です。
今回改めて美しいと感じたのは、部分の美を発見したためか、心境の変化のためか分からないままでいますが、いずれにしても美醜は相対化するものだと思いました。 (以上)
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