柴又帝釈天 本堂前の焼香炉 浅草寺 本堂前の焼香炉 お香を焚(た)く習慣は、日本では仏教の伝来と共に始まったと言われます。お香を焚く行為は、仏前で邪気を払い、身を清める儀式と結びつきました。今日でも仏像を拝むときには、仏壇に灯明を灯し、線香を焚く習慣は続いています。
お香を焚く木を香木と言います。香木として有名なものに沈水香木(ちんすいこうぼく)があります。木に細菌が入り病気になると、これを防止するため木は脂(やに)を出します。この脂は重たいので、木は水に沈み脂は結晶します。この脂は熱を加えると色々の匂いを出します。そこから沈水香木と名付けられました。
日本の貴族社会では、早くも平安時代(9~10世紀)にはお香の香りを楽しんでいたようです。枕草子や源氏物語には、衣服にお香の匂いをつけて楽しむ様子が描かれています。そして、お香を焚く行為が、宗教行事から日常生活に及んだとき、匂いは香りになりました。
西洋でも古くからお香を焚く慣習はありました。西洋の香の歴史はかなり古く、メソポタミア文明(紀元前3000年)のころまで遡ると言われます。もっと古く、エジプトでは紀元前4000年前の墳墓から香料として有名な乳香が発掘されたと言う人もいます。
お香を焚くこの慣習は、古代ユダヤ人に受け継がれ、それがキリスト教に伝わりました。今でもキリスト教会では祈りの時に振り香炉で乳香を焚いています。乳香は、樹皮に傷をつけて分泌された樹脂を空気に曝して固化したものです。南アフリカやインドで採取され、その価値は金にも相当する高価なものとして取り引きされていました。
香料が宗教行事のためでなく生活を豊かにするために使われるようになったのは、西洋では極めて遅く16世紀に入ってからと言われます。乳香を水蒸気で蒸留し、濃縮した半固形または固形にしたものを上流社会で使い始めます。
日本では鎌倉時代(12~14世紀)に武士社会でもお香の使用が認められています。室町時代(14~16世紀)には、茶道や華道と並んで、香りをたしなむ香道にまで発展してます。江戸時代には香りを組合わせた「組香」という高度の香りの文化が育ちました。現在、私たちが日常使っている「お線香」は「組香」の一つなのです。
江戸時代の中期から末期には、種々の「組香」を創作する活動が盛んになり、組香の数は数百種類にも及んだといわれます。また、香りの文化を味わうために香道具の製作なども盛んとなり、お香を楽しむ文化は、庶民の間にも浸透しました。
二枚の写真は、柴又帝釈天と浅草寺の本堂前に据えられている香炉です。参拝前にお線香の煙を浴びて身を清めている人々がいました。 (以上)
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他人の境遇を羨むのは嫉妬の始まりですが、自分より他人が良い境遇にあるだけでは、羨むことはあっても、普通は嫉妬心を持たないものです。
しかし、その境遇の相違が不当な理由や納得できない事情で生じていると思ったとき、人は嫉妬心を抱くのです。その理由や事情が事実でなくても、本人が主観的にそう思うだけで嫉妬心が生まれます。
従って、嫉妬心の解消は理性的な説得では難しいのです。嫉妬する人は、大抵自分を客観的に見ることが出来ないのです。それが出来れば、他人との相違の由来を理解し、嫉妬心など起こさないでしょう。
世間ではよく女は嫉妬深いと云いますが、男も女に劣らず嫉妬深いのです。ただ、嫉妬心を抱く対象が男と女で違うだけです。自分を客観的にみることが出来ない点では、男女の差はありません。
嘗て、自由主義の経済学者、小泉信三は「社会主義は労働者の資本家に対する体系化された嫉妬の情である」と云いましたが、それを逆に表現すれば「民主主義は嫉妬心を政治的に解消する優れた制度である」と云えます。
民主主義制度には色々な欠陥があって衆愚政治になると批判されます。それに対して、第二次世界大戦を勝利に導いた英国のチャーチル元首相は、「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」と民主主義を弁護しました。
しかし、このチャーチルの弁護は「より悪くない」と言っているだけです。民主主義を積極的に弁護するなら、「民主主義は人々の嫉妬心の発生源となる差別感を無くすからよい」と言うべきです。民主主義はみんなの嫉妬心を満足させるから、衆愚政治と言われても好まれているのです。
日本の政治家の古老は云っていました。国内政治は利害ではなく怨念で動いていると。怨念の核は嫉妬心です。とすれば政治家の多くは強い嫉妬心で動いていると言えます。
鉄の宰相と言われた英国のサッチャー元首相は経験を振り返って「嫉妬は危険で破壊的で、分裂を生む感情である」と云っています。このことから、日本だけでなく英国の政治も嫉妬心の害毒に悩まされていることを知ります。
嫉妬が有害なのは、何も政治の世界ばかりではありません。個人の心の内面の問題としても嫉妬心は有害なのです。キリスト教の七つの大罪では、罪の重さを、傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲と並べていますが、なんと罪の重さとしては嫉妬は傲慢に次いで第二位です。
傲慢でない人は、他人の傲慢を感じることはないそうです。他人を傲慢だと感じる人は、自分も傲慢であると知るべきだと言います。同じ論法で、他人を嫉妬深いと感じたときは、自分も嫉妬心を抱いているときかも知れません。或いは、嫉妬心は嫉妬心を呼ぶとでも云うべきかも知れません。
嘗てトルコを旅してトルコ石を買い求めた店で、これを常に身につけなさいと写真にある石を貰いました。これをお守札として身につけていると、他人から発せられる嫉妬心から身を守ることが出来ると云うのです。トルコ人も身に覚えのない他人からの嫉妬の毒に随分悩まされてきたのでしょう。 (以上)
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