fc2ブログ
季節の逆戻りでシュールな写真が撮れた
1.雪:菜の花-01PA(皇居 2(84~96)Pq

2.雪:菜の花-05P 96(皇居 2(84~96)Pqt

四季は春、夏、秋、冬の順序で訪れますが、自然は気まぐれで偶にその順序が逆戻りすることがありす。桜が咲く頃、関東地方では時に寒気団に襲われることがあり、寒さで震えながら花見をすることになります。

ある年のこと桜も散って春も終わる頃と思っていましたら、時ならぬ寒気団の襲来で東京に一晩で結構な雪が降り積もりました。皇居のお濠端はすでに菜の花が満開でしたから、真っ白に積もったお濠の雪景色の中に黄色い菜の花が咲いている不思議な光景が撮れました。

ルネ・マグリットの絵「光の帝国」は下半分では夜を、上半分では昼を描いた絵でして、夜と昼を共存させたシュルレアリスム絵画の代表作と言われていますが、これらの写真は、冬と春を一枚の写真に写し込んだシュールな作品と言えるでしょうか。
(以上)

【2022/03/31 18:29】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
都心にもある渓谷 お茶の水渓谷
1.お茶の水橋より-01D 06
写真1

2.お茶の水橋より-03D 06
写真2

3.聖橋上から-01D 05
写真3

4.昌平橋から:神田川の舟-04D 05q
写真4

東京に渓谷があるのを知っているかと問うと、大抵の人は奥多摩の渓谷かと答えますが、違うと言うと都内に住んだことのある人なら世田谷の等々力渓谷だろうと答えます。違う、都心にある渓谷のことだというと怪訝そうに何処かと問います。

それはお茶の水渓谷だというと、なーんだ、あれは人工の堀割で、渓谷とは言わないと返事が返ってきます。確かにお茶の水渓谷は、徳川幕府が江戸城防衛のため外堀を築いたとき駿河台台地を開削した人工水路ですから自然の渓谷とは言えないでしょう。

しかし、中央線に乗ってお茶の水駅に入るとき見える車窓を流れる景色は紛う事なき渓谷です。緑に溢れる断崖の下に深く流れる水路は、真夏の暑い日中などには涼しささえ感じる渓谷です。この渓谷は神田川と言い、南こうせつが「赤い手拭い マフラーにして二人で行った 横丁の風呂屋」と歌ったあの「神田川」の下流なのです。

徳川幕府は、江戸城防備のため隅田川の内側に、もう一つ水路を設けましたが、その掘割が神田川なのです。お茶の水付近は小高い台地であったので、掘割の両岸は高く聳えて、都心には珍しい渓谷が出現したのです。今では、断崖となった斜面には多くの樹木が茂り、季節の花々が咲き、趣のある風景を楽しめます。
(写真1、2)

江戸時代、お茶の水の地域は「山手」の端に当たりました。そこから先は急に低くなって神田の下町となります。そのため、ここの地形には大きな段差があるので、この地域を走る中央線、総武線、地下鉄丸ノ内線は、鉄橋とトンネルで上下に重なって走っています。
(写真3)

このお茶の水渓谷の末端では、上空には複数の鉄橋が立体交差して架かっており、水路を覗き込むと水上では荷物を運ぶ作業船が時には行き来しているのを見る、都心では珍しい渓谷なのです。
(写真4)
(以上)
【2022/03/23 13:56】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
野良猫の路上での睨み合い
1.根津:猫-02D 1110qt
写真1

2.根津:猫-03D 1110qt
写真2

3.根津:猫-04D 1110qt
写真3

4.根津:猫-05D 1110qt
写真4

5.根津:猫-07D 1110q
写真5

猫には生活圏があり縄張りがあるそうです。メスの生活圏は食料資源で決まり、オスの生活圏はメスの密度で決まるそうです。

今、路上で睨み合う野良猫は食糧資源で争う睨み合いでなく、メスの奪い合いで威嚇し合っているようです。
(写真1)

睨み合いの最中、黒い猫は白い猫の前を威嚇しながら通り過ぎますが、白い猫は一歩も退かずに、互いに尻尾を挙げて踏ん張ります。
(写真2)

威嚇合戦で黒い猫が目を逸らし、白い猫を下から見上げるようなポーズをとったので勝負がついたようです。
(写真3、4)

負けた黒い猫は去って行き、勝った白い猫は逃げ去る黒い猫を「どうだ」とばかりに見やっています。
(写真5)

カメラを構えて噛み合いう場面を期待していましたが、噛み合う活劇は起きずに、睨み合う心理戦を観察する事になりました。
(以上)

【2022/03/14 18:33】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
神田須田町にある戦前の情緒漂う木造の料亭建築街
1.旧万世橋駅マーチエキュート-07D 1412q
写真1 万世橋駅として建設されたもの 現在はマーチエキュート万世橋商店街

2.須田町の夜景:いせ源-03D 06
写真2 あんこう鍋屋

3.須田町1-06D
写真3 鳥すき屋

4.須田町裏通り-16D 1110
写真4 甘味処

5.須田町裏通り-18D 1110qr
写真5 老舗のそば屋(火事で焼失して今は建て替えられました) 

東京大空襲で焼け野原となった東京の下町にも被害を免れた地域が所々に残っていますが、万世橋の袂に戦前の町並みを残した一街区があります。その街区は四方を川と幅広い道路に囲まれていたので戦火の延焼を免れたのです。

この街区の北端を流れる神田川に沿って、万世橋から昌平橋に延びる煉瓦造りの長大な構築物がありますが、これは甲武鉄道のターミナル駅、即ち万世橋駅として建設されたもので、将来は現在の中央線と総武線を繋ぐ交通の要所となる筈でした。従って、その辺りはターミナル駅前の一等地になる筈でしたから、戦前も早い時期から高級料理屋や飲食店などが建ち並びました。
(写真1)

しかしその後、中央線は東京駅が始発駅となり、総武線は秋葉原経由となって万世橋駅は不要となり、駅周辺は発展から取り残されることになりました。発展に取り残されたお陰で今の東京では珍しい純日本風の木造建屋が数軒建ち並ぶ街区が出来たのです。日本料理のあんこう鍋屋や鳥すき焼き屋、日本風の甘味処、蕎麦屋などが狭い地域に纏まって建っています。

この近くには若者で賑わう秋葉原電気街やサラリーマンで混み合う神田駅周辺の飲み屋街がありますが、この須田町の一郭は、それらとは対称的な静かな街区で、戦災前の東京の古い町並みの情緒を残すところとして人々を惹きつけています。
(写真2、3、4、5)
(以上)

【2022/03/08 14:54】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
浮世絵の色彩表現は鈴木春信が創案した
1.谷中寺町:大圓寺-05D 2110q

鈴木春信の墓がある谷中の大円寺

浮世絵が西洋の美術界に衝撃を与えたのは、異国趣味という題材ではなく、絵が線で構成されており、遠近法によらないので立体感はほとんど無く、極端にデフォルメされた構図で意外性があったからと言われています。

その代表的な絵師として、葛飾北斎、歌川広重、喜多川歌麿、東洲斎写楽の4人が挙げられていますが、実は西洋美術界が一番衝撃を受けたのは油絵では表現できない浮世絵の精妙な色彩表現にあったと言います。

美術史家田中英道氏は「本当にすごい!東京の歴史」という著書で次のように述べています。
「それまで単色か、せいぜい二、三色であったのを、彫師や摺師と協力して十数色もの多色摺の技法を完成させ・・・微妙な中間色で表現される繊細で叙情的な・・・作品に仕立て上げたのは春信でした。」

春信とは時代的に上記の4人の絵師の先輩に当たる鈴木春信です。鈴木春信は原画を木版に彫る人、木版を使って色刷りする人との共同作業で浮世絵の色彩表現を一新させたのです。浮世絵の魅力の源はその精妙にして魅惑的な色彩にあったのです。

一説によりますと、印象派を代表するクロード・モネは、総菜屋の買い物で包装紙の浮世絵を見てその色彩表現に驚嘆し、その直後に有名は「ラ・ジャポネーズ」という絵を描きました。赤い着物を着た金髪女性が扇子を手にして振り返る姿の絵です。

日本の着物に錦織と言われる絵柄がありますが、これは秋になると日本の自然の野山が変容する姿を写し取ったものです。春信の版画も「吾妻錦絵」として売り出され、江戸町人から大変歓迎されたそうです。

さきに江戸の浮世絵師たちの墓は忘れ去られていると申しましたが、鈴木春信の墓は、谷中の大円寺にありました。
(以上)
【2022/03/01 18:33】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
| ホーム |