写真1 お客さんの出入りもあり、繁盛しています。
写真2 数少なくなった銅板張りの看板建築は趣があります。
コーヒーは、17世紀にトルコからヨーロッパに伝わりました。中国茶がイギリスに渡り、18世紀に緑茶を発酵させた紅茶が生まれました。
いずれも最初は上流社会の嗜好品として受け入れられ、やがて大衆化していきます。街に「カフェ」が現れ、「喫茶店」が生まれます。水の代わりに酒を飲むよりも、紅茶を飲む方が健康に良いとあって、大いに歓迎されたのです。
一方、大正時代に日本に現れたミルクホールは、やや趣を異にします。西洋で日常飲まれていたミルクは、日本では余り飲まれていませんでした。ミルクホールの出現は、その日本人が牛乳を飲み始めた話です。
アジアでは、中国は勿論のことお隣の韓国でも肉食は普通でしたが、海の幸の豊富な日本では、肉食は嫌われました。四つ足の動物は食べない日本人は、動物の乳も飲みませんでした。
明治天皇は西洋人と比べて日本人の体格が劣っているのを心配して、日本人に肉食を奨めた話は有名です。その明治天皇は一日に二度牛乳を飲んでいたそうです。それがニュースになると、日本人は牛乳を飲み始めたと言います。
大正時代のミルクホールは、日本人が平気で牛乳を飲むようになった時代の話です。喫茶店もどきのミルクホールで、コーヒーや紅茶の代わりに、ミルクを飲む流行があったと言う話は、どこかほのぼのとした話です。
偶々神田多町を歩いていましたら、ミルクホールという暖簾を下げている軽食喫茶の店を見付けました。「サカエヤ」というその店は、二階建ての二連棟の建物の一棟で営業していましたが、その建物は、銅板張りの「看板建築」でした。(写真1、2)
「看板建築」の商店は関東大震災後に東京のあちこちに建てられましたが、その大半は東京大空襲で消失して今は余り見られません。ですから「看板建築」の「サカエヤ」は、大正時代から今日まで、ここでミルクホールを営んでいたという証拠品です。
大正時代の街並みが今も活躍しているのを発見して楽しくなりました。
(以上)