孔子は「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と言ったと論語に書かれています。この言葉は「道」の意味をどう理解するかによって、二通りの違う解釈があるそうです。
政治に「徳」が実現したら、即ち「道」が行われたら、自分は死んでもよいという意味だという説と、「真理の道」が何たるかを悟れば、自分は死んでもよいと言う意味だという説の二つです。 前者は「善」の問題であり、後者は「真」の問題です。春秋戦国時代の為政者に自説が受け入れられなかったことを嘆いた孔子ですから、「道」の解釈は当然前者だと思いますが、「真」でも「善」でも実現すれば死に価する程の価値がある言っていることには変わりありません。 西洋ではギリシャ以来、人間が求める価値は真善美の三つだといわれていますが、日本の伝統的文芸思想では、美は真や善を包含したものと考えていて、美の価値を真や善の価値より上位に置いています。正に美しいことは良いことでした。 それでは「美」を実現した者は、或いは「美」を堪能した者は、死んでもよいと思うでしょうか。19世紀、ヨーロッパでは美の創造に最高の価値を置く耽美主義が起こります。それより早く、ドイツの詩人、プラーテンは次のような詩で美は死に価すると詠っています。 眼もて美を観たる者は 既に死の手に落ちたるなれば、 もはやこの世のわざに適(かな)はざるべし 美を識って死んだと言う人の話は聞きません。美を本当に分かることは誠に難しいことなのでしょう。 (以上) |
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