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家康が拓いた江戸の町には全国から多くの武士や町民が集まってきて住みました。江戸は新興の町であり武士の町ですから、住んでいるのは独身者が多く、町では今で言う外食産業が盛んになります。そこで生まれた料理が江戸の四大料理と言われる蕎麦、天ぷら、握り鮨、鰻蒲焼きでした。
中でも廉価で手軽な蕎麦は人気がありました。 森銑三の「風俗往来」によりますと、更科蕎麦の誕生は次のような次第です。 「更科そばは今から二百年前、今の日本橋馬喰町三丁目横町にあつた甲州屋と呼ぶそばやが、特にそばの名所産地信州更科のそば粉を取寄せて売出したのが抑ものやうに伝へられて居るが、今の更科は麻布永坂のが本家とされ、五代前、これも二百年ばかり昔に、信州の人で布屋太兵衡といふ人が、同所に経営したやうにも伝へられてゐる。」
今では都内には更科蕎麦屋は数多くありますが、更科の本家と称するのは総本家永坂更科布屋太兵衛です。港区の麻布十番商店街にあり、5階建ての立派なビルの一階で営業しています。更科蕎麦の特徴は、ソバの実の中心部の粉、一番挽き粉を使った蕎麦で、白くてさっぱりしていて御膳蕎麦とも言われますが、蕎麦の風味に乏しいきらいがあります。 (写真1)
次に、藪蕎麦も更科と同じ頃、江戸に現れました。 同じく森銑三の「風俗往来」によりますと、藪蕎麦の誕生は次のようです。 「藪そばの起りは、伊賀上野の旧主藤堂家の大膳職を勤めてゐた三輪某、何の為にか御殿を辞して、これも更科と前後して、今の(千駄木)団子坂の路辺にあつた大きな藪原の傍らにそばやを営み、藪蕎麦と銘して売出したのが最初である。」
現在の東京で藪蕎麦の本家と称するのは神田連雀町にある藪蕎麦です。創業は明治十三年(1880)と称していますが、その頃、団子坂の蔦屋という藪蕎麦屋を譲り受けたとのことですから現在の本家と言えるのでしょう。
藪蕎麦の麺の色は緑色なのは蕎麦の若芽を練り込んだからで、見た目の清涼感を出すためだそうです。更科蕎麦のように白色にする必要が無いので一番挽き粉に拘る必要も無く、蕎麦の風味も残るでしょう。
ところで、連雀町の藪蕎麦は関東大震災で焼失して再建した数寄屋造りの木造2階建ての店舗でして、東京大空襲にも遭わずに風情のある蕎麦屋でしたが、平成25年(2013)の失火で消失しました。森銑三は「風俗往来」で次のように嘆いています。 「苦心を残されてゐた江戸そばの遺物は、一つ残らず焼け失せた。此程焼け跡に建てられたが、もう「神田のやぶ」の面影も薄い。テーブルに曲木椅子で、中腰になつてすするのでは、そばも根ッからうまくない。」 (写真2) (以上)
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街のビル建設にスカイラインを揃えたのは昔の話 今のビル建設では周辺との調和などお構いなし 高さを競い外観に奇を衒う 今や整然たる都市景観は望むべくもない ふとビルの谷間から空を見上ると 巨大な郵便ポストが聳えていた (以上)
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