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日本瓦は優れた造形品
                    1.写真、愛宕山-04D 0302qrc
                    写真1 愛宕山にNHK放送博物館に展示
                        されている写真を複写したもの
       2.瓦敷道路:草津湯畑-02D 1312q
       写真2 草津湯畑周囲の道路のパブリックアート
       3.瓦敷道路:草津湯畑-08D 1312qt
       写真3 草津湯畑周囲の道路のパブリックアート
       4.瓦敷道路:草津湯畑-06D 1312qtc
       写真4 草津湯畑周囲の道路のパブリックアート
                                   5.瓦塀-02D 0908qrc
                                   写真5 東京都内の築地塀
                                   6.築地塀-02D 0805q
                                   写真6 東京都内の築地塀
                                   7.築地塀-08 0912q
                                   写真7 東京都内の築地塀

甍の波と雲の波
重なる波の中空を
橘かおる朝風に
高く泳ぐや鯉のぼり

これは弘田龍太郎作曲の童謡「鯉のぼり」の第一節です。
ここで甍(いらか)の波とは連なる瓦屋根の瓦のことで、それが空に泳ぐ鯉幟にとって波に見えたということですが、重なる波に喩えられるように日本の瓦屋根は美しいものです。

芝の愛宕山にNHK放送博物館を訪れたとき、そこに瓦屋根が続く江戸市内の写真が展示されていました。それは幕末に日本を訪れた外国人が愛宕山の頂上から撮った写真でした。黒い瓦屋根と白い壁が交互に地平線まで続いている江戸の市街地の風景です。外国人には江戸の市内がまるで海原のように美しく見えたのでしょう。(写真1)

瓦が日本へ持ち込まれたのは、6世紀に仏教が百済から伝来したときでした。従って飛鳥時代(592~710)の法隆寺などの仏教建築には盛んに瓦が使われました。しかし奈良時代、平安時代になっても、瓦葺きは寺社建築や宮殿などに限られていました。

瓦を焼くのに多額の費用が掛かりましたし、重たい瓦を載せるには頑丈な建造物が求められたから、その後も一般の建造物には瓦屋根は普及しませんでした。しかし江戸時代になると在来の瓦を改良した桟瓦(さんがわら)が考案されたので、平瓦と丸瓦を組み合わせて重くなる従来の施工法に依らないで、軽い瓦葺きが出来るようになりました。

そのため商人などの富裕階級の家屋にも瓦屋根は普及し始めます。また幕府も火事に強いということで瓦屋根を推奨したと言います。明治以降もその伝統は引き継がれ、日本の家屋の大半は瓦屋根になりました。幕末の日本を訪れた欧米人が賞賛した街並みの美は、明治以降も広がりました。

戦後は、都会ではコンクリート造りのビル建築が盛んになり、また瓦屋根は地震や台風に弱いということで瓦屋根の風景はどんどん減っています。でも地方ではまだ沢山の瓦屋根の家屋が残っています。黒いモノトーンの瓦屋根のある風景は、湿潤な日本の風土に馴染んでいて心が落ち着きます。

このように屋根の上に並べられた沢山の瓦はマスとしての美しさを顕しますが、他方で一枚一枚の瓦にも造形美が潜んでいます。桟瓦は四角形の平瓦を波打たせた形ですから、瓦を縦に切った断面は直線になり横に切った断面は曲線になります。

この特徴を生かして桟瓦を土塀や道路の装飾に使っています。桟瓦の直線だけ集めたり、曲線だけ集めたり、また直線と曲線を組み合わせたりして、リズミカルな造形美を表現できるのです。これらは日本のパプリックアートであり、彫像を街角に飾るような気取り方はせず、何気なく洒落ているのです。(写真2、3、4、5、6、7)
(以上)
【2013/12/22 22:25】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
嫌われ者のブタクサも秋の風景
                    1.ブタクサ風景-01P 86t
                    写真1 牛久沼周辺 ススキとブタクサが棲み分ける。
                    2.ブタクサ風景-03P 86t
                    写真2 牛久沼の中心部の岸辺もブタクサが茂る。
                    3.ブタクサ風景-02P 86t
                    写真3 ブタクサの野にススキの穂が顔を出す。

ススキの穂が出る頃、ブタクサも黄色い花を咲かせます。ススキは日本在来の草ですが、ブタクサは北米原産で明治初期に渡来した草です。北米では枯草熱(hey fever)を引起こす草として嫌われていますが、日本でもブタクサは花粉症を起こす草として杉、檜に次いで嫌われています。

戦後、それまで東京では見たこともなかったブタクサが空き地に繁茂し始めました。これは占領軍が日本に上陸したとき持ち込んだ草の種が広がったのだと言われました。やがて、あちこちの郊外でもススキの野原の代わってブタクサの野原が出現しました。

ブタクサは1メートル余りの高さまで伸びてススキを圧倒します。しかし、ブタクサの姿形はススキの風情に遠く及びません。ブタクサと言う名前の由来は明らかでありませんが、いかにも格好が悪く、人に好かれないと言うイメージを表現するネーミングです。(ブタクサの学術名はセイタカアワダチソウと言う。)

日本在来種のススキは雑草の中で一番生命力のある草ですが、外来種のブタクサの繁殖力には敵わなかったようです。河原のあちこちで、ススキ野はブタクサに取り囲まれて消えていきました。

杉、檜の花粉は春先に飛散しますが、ブタクサの花粉は8月から10月にかけて飛散します。花粉症は春の季節病と言われていましたが、ブタクサの繁殖で秋にも花粉症の人々が増えています。

しかし植物の繁殖にも盛衰があるようです。ブタクサの繁殖が嘗てのような勢いがなくなったと言われます。何故かは明らかではありませんが、作物の連作が地力を低下させて収穫を減らすように、ブタクサは余りの繁殖のために自家中毒を起こしているのかも知れません。

嘗て白い穂のススキ野で囲まれていた牛久沼(茨城県)の岸辺は、一時、黄色い穂のブタクサで占領されていましたが、今再びススキが復活する兆し見えます。ブタクサの野原にススキの穂が顔を出しています。(写真1、2、3)

自然は自然で自らのバランスを採るようです。こうして外来種のブタクサは、日本の風景に同化していくのでしょう。そう思うと、白いススキの穂に黄色いブタクサが混ざり合った風景も次第に日本の秋の風景に見えてきます。
(以上)
【2013/12/11 21:13】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
目立つ大柄なススキ パンパスグラス
1.すすき-02D 0909qt
写真1
2.すすき-01D 0909qt
写真2
3.すすき-03PAt
写真3
4.すすき-07P 89t
写真4

秋の野原や公園を訪れると、ひときわ大柄なススキが屹立して群生しているのを見かけます。これはススキと同じくイネ科に属しますがススキではなく、別種のシロガネヨシ、外国名パンパスグラスです。

原産地は南米で明治時代に日本に伝わりましたが、大柄で見栄えがよいので庭園にも植えられています。パンパスグラスは、初夏から夏にかけて穂を出しますが、やがて白狐の尻尾のようにふさふさとして、雲のように空に浮かびます。日本のススキとは対照的な、暖かさを感じるふくよかな穂です。(写真1、2)

パンパスグラスの、白色でも銀色に近い白い穂は、自然の中で目立ちます。特に秋も深まり、周囲の木々の葉が赤や黄色に変わる頃になると、その穂の白さは輝きを増します。その落ち着いた色調の穂は、夕日を浴びてやや赤みを帯び、夕景の主役になるのです。(写真3)

秋も深まるとパンパスグラスの穂も縮ます。しかし、その代わりに長く伸びた白い茎が、一列に並んで辺りを明るくします。晩秋の夕暮れを飾ったのは、外来種のススキ、パンパスグラスでした。(写真4)
(以上)
【2013/12/01 17:20】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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