写真1 写真2 写真3 写真4 写真5 写真6 写真7 写真8 アメリカで近代写真の父と言われたアルフレッド・スティーグリッツは、ヨーロッパで学んだ写真芸術を母国アメリカに持ち帰り、初めは絵画的な写真を撮っていましたが、後にアメリカ的な現実を被写体に選んで有名になりました。(例えば冬の駅馬車)
スティーグリッツが妻のオキーフを被写体として撮った一連の写真が評判となった時、それは被写体の所為(美しい)だと批判されて、それではと、誰もが見慣れている空に浮かぶ雲を被写体に選び、雲の連作を発表して、写真の価値は被写体の所為で決まるものではないことを示しました。
そのスティーグリッツは、写真は思想や感情を表す芸術だと言っています。その意味は、被写体は写真家の芸術する心を刺激するものであり、写真家はそこで生まれた思想や感情を映像として表現するのだと言うことです。
人は環境によって良くも悪くもなる様を、「水は方円の器に従う」水の性質に喩えますが、水の特筆すべき性質は、その変容の柔軟さではなく、光を反映する素晴らしい能力にあります。それは「器に従う」というような受け身の性質ではなく、周辺の風景を積極的に描き出す能力です。そして水面そのものが芸術品に変化する能力です。
写真を撮る人の多くは経験していることですが、撮影に出かけて川や湖沼に出会うと何か心弾む気分になります。それは風景の中で水が最も強くカメラに反応する被写体だからです。
冬の夕陽が落ちて、空に未だ薄明かりが残っている頃、下町を流れる運河の水面は、突然精妙な絵画に変わります。偶々通りすぎた小舟が作り出す波紋は、水面の色に濃淡をつけ、流麗な曲線となって広がります。(写真1、2)
その水面に僅かな風が当たるとさざ波が立ち、その流麗な曲線に波動を刻みます。曲線がメロディであれば、さざ波はリズムです。 (写真3、4)
小舟とそよ風が奏でる水面の音楽の波紋は、次第に滑らかになって、両岸に広がり、やがて暮色の中に消えていきます。 (写真5、6)
そこへ、水鳥二羽が飛び入りしました。光る波紋の筋を通路と見たのか、その波紋のなかを静かに進んできます。やがて流麗な波紋に沿って並んで泳いでいきました。(写真7、8) (以上)
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写真1 中尊寺の高台からみた農村風景 写真2 中央線飯田橋駅近くにある牛込門の石垣 写真撮影に興味を持つ人なら誰でも初めて訪ねる場所に心躍るものです。そこには何か新しい被写体が見つかるかも知れないとの期待があるからです。
その気持ちはカメラを持たない人も同じです。 ゲーテは長編戯曲「ファウスト」で次のように語っています。 「初めて立つ岸辺で、初めて浴びる陽光は、初めて味わう温かさだ。人はきっと、その新鮮な光に魅了される。初めての場所を訪れると、そこで初めてではない何かに接しても、きっと初めての何かを発見する。」(金森、長尾編集「超訳 ゲーテの言葉」より)
ゲーテは37歳のとき3年弱に及ぶ長いイタリア旅行に出かけてイタリア文化から多くを学びますが、南国イタリアの陽光は、太陽の少ないドイツに育ったゲーテにとって、ひときわ強烈な印象を与えたと想像するのです。
旅の印象を語る人を挙げるとすれば、漂白の詩人、芭蕉をおいて外にありません。有名な「奥の細道」はその旅の記録ですが、芭蕉は尊敬する歌人、西行法師の足跡を訪ねて東北地方を旅しました。
大阪で育ち江戸で暮らしていた芭蕉が、3月下旬から8月下旬までの5ヶ月もの間、東北各地をめぐる旅をするのは、当時の状況を考えると45歳になっていた芭蕉には命がけのことだったと思います。それ程までに芭蕉を旅に駆り立てたものは何だったのでしょうか。それは、西行に霊感を与えた自然の風光を、自らも感じ取って俳句に表現しようとする旅でした。(写真1)
「あらたうと 青葉若葉の日の光」という日光詣のときの句は、徳川将軍を賛美したものと解釈する人が多いですが、実は芭蕉の心は男体山をご神体とする二荒山神社への感謝を表現したと言われています。山の何処にでもある平凡な青葉若葉の日の光に、神を見たといったら良いでしょう。
ゲーテの言葉に「初めてではない何かに接しても、きっと初めての何かを発見する」と言っていますが、二度、三度訪れても新しい発見をすることは間々あります。
明治の文人、永井荷風は随筆「日和下駄」で次のように書いています。 「今日東京市中の散歩は私の身に取つては生れてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿るに外ならない。之に加ふるに昔ながらの名所古蹟を日毎年毎に破却して行く時勢の変遷は、更に市中の散歩をして悲哀無情の寂しい詩趣を帯びさせる。およそ近世の文学に現はれた荒廃の詩情を味はうと欲すれば伊太利に赴かずとも手近の東京を歩むほど、無惨にも痛ましい思をさせる処はあるまい。」
このように、荷風は東京の山手を散策しながら消えゆく江戸の名残を惜しんでいるのです。
関東大震災と東京大空襲の二度の大火で江戸の遺跡は殆ど消えましたが、それでも石造の構築物は所々に残っています。その多くは、江戸城だった皇居近くにあります。例えば江戸城の牛込門だった大きな石垣を見て、往時の武士たちが出入りする姿を想像するのも又新しい発見です。(写真2) (以上)
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