東京都写真美術館で北島敬三写真展が開かれていました。(2009.8.29~10.18)
ストリートスナップの名手である北島敬三氏は、1975~1991の間、世界を舞台に撮影を続け、作品集「KOZA(沖縄)」「東京」「NEW YORK」「東欧」「U.S.S.R.」と次々と話題作を発表してきました。今回はこれらの作品から190点を抜粋した写真展でした。 東京都写真美術館によれば、写真家北島はこれらの写真を単なる回顧としてではなく、「現在の写真」として私達の知覚回路に接続させようと企図していると解説しています。即ち、これらの数々のスナップショットは、報道や芸術というジャンルを越えた現代へのメッセージだと云うのです。 先に、私は写真家は歴史家の眼をもたねばならぬと書いたばかりです。この写真展の意図は私の写真への理解と一致しますが、果たしてそれを実現しているかと言う目で鑑賞した感想を述べてみます。 最初に展示されていたのは作品「東京」でした。写真の濃淡を強調した力強い写真ですが、被写体の歴史的意味を問う前に、造形的意味を前面に押し出した写真です。歴史のメッセージというより、芸術性を訴える作品に見えました。 次に、作品集「コザ/KOZA」ですが、ヴェトナム戦争の頃の沖縄の人々の情況を象徴的場面で捉えた写真です。後に写真家は、ストリートスナップからポートレート写真に転向しますが、これらは被写体がみんなカメラを意識していて、スナップでありながらポートレート写真の性質を色濃く反映しています。ということは断片的事実は写されているが、歴史的現実を伝えるには不足します。 第三番目の「NEW YORK」についても「コザ/KOZA」と同じ感想を持ちました。80年代初頭のアメリカ社会の断面を捉えて写真ですが、これだけで歴史的メッセージを伝えるとはとても云えません。被写体を人物に偏重する撮影の仕方に限界があると思います。 第四番目は「東欧」の作品です。ソ連のゴルバチョフがペレストロイカ政策で共産圏の自由化を始めたのは1985年で。写真家はそれより前の東欧を旅してプラハ、ブダペスト、ワルシャワ、ブカレストで秀逸なスナップショットを放っています。 例えば、都会の街中を撮った「プラハ(120)」は、ビルの壁面も路面電車の軌道も、疲弊した当時の経済状況を窺わせます。兵士とおぼしき二人の男が放心したように高所から川を眺めている「ブダペスト(141)」は、沈滞した社会の一面を捉えています。 人物をクローズアップした写真でも目線をカメラに向けているのは少なく、道行く人々の貧しい服装と表情を見ることが出来ます。そこには「コザ/KOZA」や「NEW YORK」とは違ったリアリティがあります。 最後は作品「U.S.S.R.」です。写真展の解説書によると、これらの写真はソ連崩壊の直前に撮影されながら、1991年には発表せず、2007年の展覧会で初めて公開されたとの説明がありました。 そして、その時の評価が「常に時間と場所に思いをめぐらし、写真と記憶の関係性について考えてきた作者の貴重な作品の誕生」と高い評価が与えられた述べています。 しかし、私にはこの解説は殆ど理解不能です。歴史的な目で写真を評価するのに、撮影時点から発表時点を遅らせることに意味はありません。写真は撮られてから時間の推移と共に意味内容は変化し続けます。突然公表したら評価が高まったということはないのです。 次に、写真の報道性という観点から云ったら、ソ連の崩壊という大事件が起きたときこそ一刻も早く事前に観察した事実を公表すべきだったでしょう。 それにしても「U.S.S.R.」の写真を見ると、平凡な記念撮影的な写真が多く、発表を急ぐ報道的な意味合いは少なく、また写真と記憶の関係性を深く考えさせるものでもありませんでした。 (以上) |
歴史学とは、古い過去の事実を詮索する学問ではなく、現在から始まって次第に過去に遡り、今日が依って来たるところを明らかにする学問であると、東洋史の碩学、京都大学の宮崎市定教授はその著「アジア史論」で述べています。
その中で教授は歴史学で云う「現在」を次のように説明します。 「現在というものは、謂わば厚みのない時間であって、次から次へと過去へ繰り入れられものであるから、常識的には現在というものは実は過去なのである。我々の認識に上り得るものは、すべて過ぎ去った過去の事柄ばかりであって、所謂現在なるものは、過去の中で比較的新しい部分と言うに止まる」 何処かで聞いたことのある議論だと思い返してみたら、それは写真評論家スーザン・ソンタグの「写真と時間」の議論でした。 スーザン・ソンタグは次のように述べています。 写真を撮ることは、生(存在)の瞬間を薄切りにして凍らせることだ。 写真家は優れて現代の存在であり、彼の眼を通して「今が過去」になる。 木村伊兵衛は生前「五十年、百年後に見られるような写真を撮りたい」と云ったそうですが、それはソンタグのいう「今が過去」をひっくり返して、五十年、百年後の人々に、「過去となった今」を見せたいということでしょう。 写真家は歴史家の目を持てと云うことでしょう。 (以上) |
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