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桜の咲く校庭の思い出
小学校の桜

校庭に桜が咲く頃
クラスの組み替えで
親しい友達と別れて
新しい友達が増える頃を思い出す

卒業して
親しかった友達は去り
名残惜しい校庭も遠くなる頃
もう一度遊びたい
あの鉄棒の傍で
(以上)


【2021/03/28 17:27】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
黙秘権と天野屋利兵衛の義
1.泉岳寺:山門-07D 2103qr
写真1 泉岳寺の山門

2.泉岳寺:赤穂義士墓所入り口門-01D 1210qr
写真2 赤穂義士墓所入り口

          3.泉岳寺:義商天野屋利兵衛浮図碑-02D 2103qc
          写真3 義商天野屋利兵衛浮図碑

赤穂浪士四十七人は藩主の仇を討った義士として泉岳寺に葬られています。義士とは主君への忠義を尽くした武士という意味です。
(写真1)

泉岳寺の赤穂義士墓所入り口門の手前右側に、武器調達で赤穂浪士の討入りを支援した大阪商人の天野屋利兵衛の石碑があります。討入り前に捕縛された天野屋利兵衛が、拷問に屈せず、討入り計画を黙秘したときの台詞は「天野屋利兵衛は男でござる」でした。
(写真2)

天野屋利兵衛は自己の利益のためでなく、忠義な浪士たちのために黙秘したのです。だから石碑では天野屋利兵衛を義商と呼んでいます。
(写真3)

現在の法律では、黙秘権、即ち自己に不利益な供述を強要されない権利が与えられています。汚職で逮捕された国会議員もこの黙秘権をよく使うそうです。

国会議員は国家のため、地域の人々のため働く人たちです。公的権力の行使の対価に賄賂を受け取る汚職は、公益に資する筈はありませんが、それでも調べられるとき黙秘権があるのです。彼ら国会議員たちは義のためでなく自己の利益のため嘘をつくのですから、天野屋利兵衛流に言えば「男ではござらぬ」人たちであります。

道徳では嘘をつくことを戒めていますが、法律では正直にしゃべらないことが権利となるご時世です。「男ではござらぬ」国会議員が増えることも、又やむを得ないと諦めるべきでしょうか?
(以上)

【2021/03/23 18:48】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本刀は美術品
1.刀剣博物館-07D 2103q
写真1

2.上山城-07D 0811qr
写真2

3.刀剣博物館-20D 2103q
写真3

日本刀は切れ味が良い刀ということで、西欧人の間で人気があるのだそうです。そのわけは蒙古が日本を襲ったとき、当時の鎌倉武士は勇敢にこれを迎え撃ち日本刀で蒙古兵を鎧兜ごと切り捨てたとの記述が西洋の戦記にあるからだそうです。

蒙古の騎馬軍団にさんざん脅かされた歴史をもつ西欧人にしてみれば、その蒙古軍を撃退した強力な武器であった日本刀に興味があるのは分かります。しかし日本刀は実戦に向いていない刀なのです。日本刀は、大勢の敵兵を続けざまに何人も斬り倒す程頑丈な刀ではないのです。

集団戦で大勢の敵を一時に斬り倒すには、中国の青竜刀(せいりゅうとう)やトルコやアラビアの彎月刀(わんげつとう)のように、刀の刃が湾曲している方が、刃が直線的な日本刀より効果的なのです。

日本刀は、一対一の戦い、一騎駆けの戦いに向いています。と言いますのは、そこでは敏捷な太刀さばきが求められますから、軽量で操作性に優れた刀が求められました。力で斬るのではなく、技で斬る刀が求められました。

そうして生まれたのが日本刀です。柔らかい鋼(心鉄)を刀身にして、刃など外側に堅い鋼(皮鉄)を組み合わせ、焼きを入れて一体化する製法で細身の刀を強靱に仕上げたのです。一見華奢に見える日本刀が、折れず、曲がらず、良く切れると言われる所以です。

日本刀を製造する刀工たちに流派があり、生産地により特徴があり、また時代により刀剣の長さも変わります。刀剣の優劣は当然切れ味で評価されましたが、その後はその姿形の美しさでも評価されました。焼き入れの時に焼刃に波形の形状がつきますが、これを刃文と言いまして、刀身の緩やかな反りの曲線に並ぶ刃文の美しさで刀剣の優劣を競うようにもなります。こうして日本刀は、今では美術品として評価されるようになりました。

最初は、武器としての興味で刀剣博物館を訪ねてきた外国人も、見ているうちに工芸品として観賞をして帰るのではないでしょうか。

写真1は墨田区の刀剣博物館に展示されていた刀剣、写真2は山形県上山城内に展示されていた刀剣です。

写真3は日本美術刀剣保存協会が運営している刀剣博物館の建物で、近年両国の旧安田庭園に隣接する現在地に新築移転したものです。
(以上)

【2021/03/16 20:09】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
春を告げる菜の花たち
1.菜の花-11P 92qt
写真1

2.菜の花-04Pq
写真2

3.菜の花-08P 89q
写真3

4.菜の花-10P 89qt
写真4

5.河津桜-03D 0702qt
写真5

6.河津桜-13D 0702qt
写真6

春風に優しく揺れる菜の花は
咲く場所を選ばない

ススキしか生えない川の土手にも
切り開かれた赤土の大地にも
菜の花は力強く繁茂する
(写真1、2)

村の小道を歩いていけば
菜の花は道を明るく縁取りして
鎮守の森へと誘う
(写真3、4)

水温む小川の瀬に陽の光が輝き
早咲きの彼岸桜が咲き始めると
菜の花は一斉に咲き誇り
春が来たと告げる
(写真5、6)
(以上)


【2021/03/10 20:19】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本人になったドナルド・キーン教授
1.無量寺-02D 2102qrc
写真1 無量寺の門

2.無量寺-13D 2102qc
写真2 無量寺の本堂

3.無量寺-11D 2102qc
写真3 無量寺のしだれ桜

間もなくの3月11日で東日本大震災(平成23年発生)から10年になります。今年の2月13日福島県沖で発生したマグニチュード7.3の地震はその余震だと言い、今後10年は余震が続くと言います。忘れるに忘れられない地震大災害の記憶を呼び覚ましました。

随発した東京電力福島第一原子力発電所の事故は、その地震大災害を更に倍加しました。これで日本も暫く復活できないとみられました。放射能の危険を感じた在日外国人は大挙して日本から逃げ出しました。

その時、日本文学の研究者として世界的に高名なドナルド・キーン教授は、日本に帰化したいと発言して、内外に驚きを以て迎えられました。そしてその年の9月に永住のため来日し「家具などを全部処分して、やっと日本に来ることができて嬉しい」と語ったと言います。

第一の驚きは、人生の最後を日本で過ごしたいので、以前から日本の国籍を取ろうと考えていたとテレビの会見で語ったことです。普通の人は、人生の最後は生まれた国、生まれ育った故郷で過ごすことを希望するのですから。

第二の驚きは、東日本大震災の後に日本国籍をとることを決心をしたことでした。福島原発の事故の後、放射能を恐れて多くの外国人は日本を去っていきましたが、その日本に来て住みたい、日本人と共に居たいというのですから。

第三の驚きは、日本では米寿の祝いと言うのがあるが、自分は今年八十八歳になるので、日本で心機一転して新しい仕事に挑戦したい、日本文学上の人物の伝記に取り組みたいと言うのですから。

ドナルド・キーン教授は、源氏物語から現代作家に至る日本文学を世界に紹介したばかりでなく、膨大な日本文学通史を著わして、日本人に日本文学の価値を教えてくれました。それでも尚、最後の研究を日本に永住して続けようと言うのです。

三つの驚きと言ったのは適切な表現ではありませんでした。東日本大震災で苦しんでいた私たち日本人にとって、次の言葉ほど勇気づけられる言葉はありませんでした。

教授は、日本紙のインタビューに答えて「災難を前に、”日本国民と共に何かをしたい”と思った。自分が日本人と同じように感じていることを行動で示したかった」と。

キーン教授は平成31年(2019年)にお亡くなりになり、今は日本のお墓に眠られています。墓地は旧古河庭園の近くの無量寺にあり、人の話では墓石には「キーン家の墓」と刻んであると言いますが、日本人の養子を迎えて、キーン家として長く日本に住み続けたいとの思いを表しています。キーン教授は、最後まで日本人になりきった、アメリカ生まれの偉大な文学者でした。
無量寺に参拝したとき、境内にはしだれ桜が咲いていました。
(写真1、2、3)
(以上)
【2021/03/03 18:26】 | 人生 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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