いま東京六本木ミッドタウンの富士フィルムフォトサロンでユーサフ・カーシュの肖像写真展が開催されています。(2011.9.1~10.31)
Y.カーシュの名前を有名にしたのは写真雑誌「ライフ」の表紙に載ったウィンストン・チャーチルのポートレイトでした。その後、肖像写真家として世界的に名声を博し、カーシュに肖像写真を撮られることが有名人の証しとまで言われたそうです。 そのカーシュの肖像写真18枚が FUJIFILM SQUARE に展示されています。18人の個性溢れる偉人達の特徴を、カーシュのカメラは一瞬のうちに捉えて見事です。鋭い目つき、手の仕草、傾く頭、皮膚の皺などを見つめていると、彼らが眼前に居るかのような錯覚に陥ります。 以下に順不同で感じたままの感想を述べてみます。 会場の最初に掲げられていたのはチャーチルの写真です。この写真は撮影直前にカーシュが撮影に邪魔な葉巻をチャーチルの口から引き抜いた直後に撮影したという、曰く付きのものです。 むっとしたチャーチルがカーシュを睨み付けるその表情は、第二世界大戦でナチスのロンドン爆撃にも屈せず、英国を勝利に導いたチャーチルの根性そのものが顕れています。人間はちょっとした事件にも思わず本性を現すもので、カーシュのカメラ・ショットの鋭さは流石です。 マルク・シャガールの肖像写真は、チャーチルのそれとは全く違って、自らの作品をバックに配して、シャガールは夢見るような幸せな表情をしています。 ユダヤ人のシャガールは革命で故郷のベラルーシ(ロシア)を追われ、アメリカ、フランスと移り住みますが、空中に浮いて恋人のベラとキッスしている絵「誕生日」が語るように、常に愛の画家でした。故郷への愛を回想的に表現した作品の多いシャガールの内面を捉えた写真だと思います。 意外だったのは、男性的で逞しいアーネスト・ヘミングウェイの肖像写真が優しいまなざしであったことです。 撮影のためヘミングウェイの家に泊めてもらったカーシュが、翌朝ヘミングウェイの愛飲していたダイキリ(ラムのカクテル)を所望すると、体に良くないと気遣った話をカーシュは披露していましたが、ヘミングウェイは本当は優しい性質なのでしょう。それが優しい目に現れた瞬間をカーシュは見逃さなかったわけです。 アイルランドの劇作家、バーナード・ショーの肖像写真は、性格描写に徹した鋭い写真です。ショーは多くの戯曲を書きましたが、他方では皮肉な警世家として一世を風靡しました。常に時代の先を読み、鋭いレトリックで相手を論破していました。斜に構えた写真のショーは「君に何が分かるかね?」と言っているようです。 医者であり且つキリスト教の伝道者としてアフリカで活躍したアルベルト・シュバイツアーの肖像写真は、シュバイツアーの業績を映像化すると、かくの如しという写真です。片手を口に当て、俯いて目を瞑り、瞑想している額には、苦悩の皺が寄っています。演出したかのよう完璧な肖像写真です。 アルベルト・アインシュタインの肖像写真は、眼前で両手を組み、気楽に一点を見つめているものです。アインシュタインは相対性理論や量子論で革命的理論を展開した20世紀最大の物理学者ですが、個人的には偉ぶらない、気さくな人柄であったと言われています。写真のアインシュタインは、リラックスして目元は涼しげです。 肖像画においても肖像写真においても、対象物に肉迫してその内部にあるものを把握して表現するという点では同じだと思います。違うのは、絵画では把握したものを反芻する時間的余裕がありますが、写真にはそれがありません。 ただし、写真には、多くの瞬間から一つの瞬間を選択できるという利点はあります。即ち、何枚も写真を撮って、その中から良いものを選択すると言う時間的余裕はあります。 しかし、撮られた複数の瞬間もまた、無限の瞬間の中から選択されたものです。肖像写真では、写される者と写す者とが対峙している間に、決定的瞬間というものが在る筈です。無数にある瞬間に潜む決定的瞬間を捉えることが、選択の全てであって、後から選択することは本当は選択とは言えないでしょう。 そのように考えると、カーシュがチャーチルを捉えた決定的な肖像写真は、これ一枚しかあり得ず、それ以前やその後に何枚もの写真を撮っていても、それらは選択の対象にはなり得ないのです。 上に取り上げた偉人達の外にも、パブロ・ピカソ、パブロ・カザルス、ジョアン・ミロ、ヘレン・ケラー、ジョージア・オキーフ、ジャック・クストー、ジャン・シベリウスなどの肖像写真がありましたが、それらも皆、内面を表出した決定的瞬間をカーシュが捉えたものでした。 (以上) |
東京都写真美術館では「東洋と西洋のまなざし」という副題で、スナップの名手、木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソンの大規模な写真展が開かれています。(2009.11.28~2010.2.7)
今回は、同じく決定的瞬間を求めた二人の写真家の作品を鑑賞しながら、両者の違いを述べてみたいと思います。 写真家木村伊兵衛は初めて渡欧した時(1954)、カルティエ=ブレッソンに会い、大いに共鳴した云います。カルティエ=ブレッソンには「決定的瞬間」という著書がありますが、そこで述べている写真哲学は、撮影対象には最適な構図の決定的瞬間があり、その瞬間を逃さず撮影するのだというものです。 他方、木村伊兵衛も出会いの瞬間を大事にする写真家です。写真家協会会長の田沼武能氏は、ある雑誌で木村伊兵衛の写真哲学と撮影方法を次のように述べていました。 「向こうから”被写体としていいな”と思う人物がやってくる。すると木村は、その人物がどの地点まで来たときに背景がどうなっているか、構図や写角を瞬間的に計算する。そしてシャッターを切る。撮ってもせいぜい二、三枚。すれ違ったらもう終わり。撮り損なっても追いかけてまた撮るというような真似は、絶対にしなかった。まさに瞬間の勝負である。木村の撮影は、傑出した感性と経験に裏打ちされた”居合抜き”のようだった」と。 このように二人の写真家は、写真哲学でも撮影手法でも、大いに似ていますから、今回の写真展は両巨匠の作品を見比べられる貴重な機会です。そして展示作品は、木村伊兵衛91点、カルティエ=ブレッソン62点展示されていますから、数に不足はありません。 先ず、木村伊兵衛の写真で気が付くのは、写す人物の目を強く意識していることです。即ち、主題の人物は木村のカメラを鋭い視線で凝視しているケースが多いことです。「那覇の市場」(作品1、2)「大曲、秋田」(38)、「人民公社、北京」(73)などです。 嘗て、宗教哲学者の中沢新一と動物写真家の岩合光昭が、写真と狩猟の類似点を論じていたことを思い出しました。 そこで中沢はスティル写真家を狩人に喩えて 「カメラマンは、動物を殺ましませんけど、動いていくものを瞬問的にカシャッと止めていく」と述べています。 これに対して、動物写真家の岩合光昭は 「ハンターと写真家の共通点は、どっちも嘘をつけないことですよ」と応えています。 狩人が獲物を射止めようと構えるとき動物の目を見るそうですが、写真家が被写体の人物と目線を合わせるのは、どこか狩人の精神に似ているのです。 田沼武能氏が木村伊兵衛の写真は「居合抜き」のようだったといい、撮り損なっても追いかけてまた撮るというような真似は絶対にしなかったと言うのも、狩人精神の現れでしょう。 しかし、構図の点では、木村はカルティエ=ブレッソンのような厳格さを求めていないようです。例えば「本郷森川町」(13)や浅草寺の仲見世にコウモリ傘を持って現れた永井荷風を撮った「浅草寺境内」(29)などは、構図的に余り整理されておらず、被写体との出会い、間合いを重視した作品です。 次にカルティエ=ブレッソンの写真ですが、流石に構図の取り方が決まっています。その構図は遠近法を駆使した画家の構図のように気持ちよい位に実にしっかりと決まっている写真が多いのです。例えば「マルヌ河畔で、フランス」(18)、「シエナ、イタリア」(5)、「ラクイラ・デーリ・アプルッツィ、イタリア」(40)などです。 しかしながら、これらの写真は特定の場所から俯瞰した写真です。この構図なら予め想定して決めることが出来たとも云えます。想定された構図の中に人物が入ってくるのを待って撮ることも出来ます。必ずしも不意に現れた場面を瞬時に構図を計算しなくても可能です。 しかし、カルティエ=ブレッソンはその構図を瞬時に計算して撮ると主張しているのですから、そう言う写真もあるのでしょう。例えば、大勢の子供達が群れて遊んでいる場面を撮った「マドリード、スペイン」(13)、「セビーリア、スペイン」(14)は、背景のビル壁面の小窓や、崩壊した瓦礫の情況からして、とっさの判断で構図が出来たと思います。 「決定的瞬間」という言葉を絵にしたような写真は「サン・ラザール駅裏、パリ」(8)です。一人の男が水溜まりを飛び越えようとジャンプしたが失敗して、靴先が水溜まりの水面にまさに着水しようとしている場面です。 時間的な決定的瞬間と共に、この写真には構図の面白さがあると云われています。それは三角形、円形、長方形の形が對(つい)となって一枚の写真内に取り込まれていると云うのです。 この全ての要素が、男のジャンプの瞬間に計算されたというなら、正に天才的な写真家のなせる業となります。しかし、或る研究者の話によりますと、カルティエ=ブレッソンは物陰に隠れて、この構図の中に人が飛び込んでくるのを待っていたと云います。 やはりそうでしたかと思ますが、それでも「サン・ラザール駅裏、パリ」の作品の魅力は少しも減じないことに変わりはありません。彼は獲物を狙う優れた狩人に違いはないのですから。 (以上) |
東京都写真美術館で「心の眼」といテーマで稲越功一の写真展が開かれていました。(2009.8.20~10.2)
写真展を見てから少し時間が経ちましたが、私が生きてきた同時代の身近な場所が撮られているので、感想を書き留めてみました。 写真家稲越功一は広告写真家、肖像写真家として有名ですが、今回はテーマ「心の眼」にあるように、商業用ではなく自分自身のために心の眼で撮影した写真展です。 本人は惜しくも今年春他界しましたが、個展の準備は本人が丹念に進めていたとのことで、この個展は文字通り「心の眼」を伝える遺展となりました。 作品は制作年代順に展示されており、「Maybe,maybe」「meet again」「記憶都市」「Ailleurs」「Out of Season」「未だ見ぬ中国」「芭蕉景」の中から124点が選ばれています。 「Maybe,maybe」は1971年のアメリカ社会を撮影したものです。その頃のアメリカは、ベトナム戦争に疲れて国民は苦しんでいた時代であり、社会全般に焦りと無気力が広まっていました。 中でも孤独で寂しいアメリカ人を捉えた作品14、19、25、30は、写真家稲越が早い時期からシリアス写真に並々ならぬ意欲を以て取り組んでいたことを示します。 「meet again」はボケを使ったイメージを描いた写真ですが、正直のところ私にはよく分かりませんでした。 それに対して、「記憶都市」は1987年(昭和62年)の東京という都市の、何気ない風景を記録した写真ですが、当時の私の記憶を鮮明に呼び起こしてくれる作品です。 この年は丁度バブルが発生した年です。その後1990年代の始めにかけて土地と株の急上昇が始まり、地上げ屋が横行し、それまでの都市の形が大きく変わる直前でした。「記憶都市」に撮られた東京は数年後には消えて無くなりました。 森下町(作品47)、代々木(同48)、千住(同53)、向島(同80)の木造古屋や裏露地のような景色を今は見るのが珍しくなりました。向島3丁目(同55、63)の工場煙突、足立新田(同69)、吾妻橋付近(同70)の町工場は市街地から追出されました。他方、大久保(同51)には早くも新宿西口の高層ビル群が見えています。 失われた都市の記憶を、これ程多く撮り留めた写真集は珍しいです。神社仏閣のように公的でハレの舞台となる施設や建物は容易に消えませんが、日常の平凡な民家や露地は、時代の流れと共に消え去ります。写真家稲越は、うつろい易い平凡な風景の中に保存すべき歴史を発見することに鋭い感性を持っていたと思います。 「Ailleurs」と「Out of Season」は、写真家が1993年に世界各地を旅したとき目にしたの光景です。「未だ見ぬ中国」と「芭蕉景」は2008~2009年の写真です。写真家は晩年には風景写真をカラーで撮っています。まだまだ「心の眼」で撮りたい光景が海外に沢山あったと思います。 歴史に残すべき光景を、現在の光景の中から発見することは難しいことですが、稲越功一は「記憶都市」で見事にそれを成し遂げていると思いました。 (以上) |
東京都写真美術館では、「旅」をテーマに三回シリーズでコレクション展を開いています。第二回は「異郷へ」という題名で、1970~80年頃に発表された戦後世代の日本の写真家達の作品が展示されています。
展示されている写真家は、内藤正俊、秋山亮二、土田ヒロミ、牛腸茂雄、荒木経惟、森山大道、須田一政、柳沢信、北井一夫の9人です。これらの写真家の作品は、旅して撮った写真という意味でくくられていますが、内容的は同時代という年代でくくった作品展です。 「異郷へ」というテーマも地理的異郷から心理的異郷までを含み、作家毎には纏まりはありますが、9人の写真家の作品が「異郷」という意味で共通点がある訳ではありません。「旅」「異郷」という意味での共通した批評は無理です。展示会の題名の付け方に無理があったと思います。 従って、以下では個性的な作家の、興味ある作品について鑑賞し、感想を述べることにします。 先ず、牛腸茂雄の写真に惹かれました。普通は見過ごしてしまう日常生活の何気ない風景の中に、一瞬、人間の情感を表出した情景を捉えた写真に惹かれるのです。 一本の立て看板を支える母とその棒に抱きつく子供が居て、その横では地面に横たわる看板をかがみ込んで読む男が居る写真(作品52)、及び飛行機に乗ろうと大きな花束を抱えて機首に走る一人の男と、同時にその遠方には機尾から乗ろうと急ぐ三人の女を写した写真(作品56)は、作品の焦点が鮮明です。 次に注目したのは、森山大道の北海道旅行の写真です。これらは、撮影に行き詰まって旅に出た森山大道が、新境地を開いたと言われる写真集です。アレ、ブレ、ボケの手法も有効に使われていて、絶望と孤独の心境を北海道の風景に託した写真です。 鉄路に向かって走る二人の少年(作品77)、ローカル線の停車場で乗り降りする乗客達(作品80)、地面の雪を掃き散らしながら走る函館の路面電車(作品82)、廃墟と化した石狩の冬の海水浴場(作品87)、一本道を振り返りながら歩く野良犬一匹(作品89)などが印象に残りました。 その他の作家たちも当代一流の写真家ですから、優れた作品が数多く展示されていました。しかし私の個人的な趣味ですが、作意や仕掛けのある作品よりは、自然の人間の営みの中に思わず発見する人情や情感の表出を捉えた作品に惹かれました。 (以上) |
東京都写真美術館では、「旅」をテーマに三回シリーズでコレクション展を開いています。第一回は「東方へ」ということで19世紀にアジアを旅した写真家達の記録写真を展示していました。(2009.5.16~7.12) 19世紀に西洋の上流社会では、自らのルーツである地中海文明を子弟たちに実地体験させる旅行を奨励していました。その内の一人、カルヴァート・リチャード・ジョーンズが当時のカメラでイタリア各地を撮影した写真が展示されていました。 写されたフィレンツェのヴェッキオ橋、ローマのコロシアム、サン・アンジェロ城などは、今見る姿と殆ど変わりはありません。石の建造物が百年や二百年で変る訳がないので驚くことはないのですが、続いて見た日本の江戸から明治にかけての風景の変わりようには驚きました。 フェリーチェ・ベアトが撮影した江戸の薩摩屋敷や細川屋敷の立派な長い塀、王子の三階建ての大きな茶屋、神奈川辺りの東海道沿道に並ぶ藁葺き屋根の家々、箱根町の街道の家並み、東海道の巨木の松並木などは、今はその片鱗も残っていません。 ベアトより新しい明治時代を撮った日下部金兵衛、内田九一の写真でも、蓮が繁茂した東京城(皇居)の濠、町屋造りの京都の祇園町通り、家々が建つ上野の不忍池、長崎市の俯瞰写真など、おおよその形は残っていますが風情は今と大分違っています。 これらの記録写真は、形が持続するという点で、やはり西洋の石の文化と日本の木の文化は違うということを如実に示しています。分かり切ったこととは云え、映像で見せられると、改めて日本の変化の早さに気付きます。 それでも、伊勢神宮、鎌倉の大仏など神社仏閣の写真は今と殆ど変わりません。非日常的な場、即ちハレの場の風景は日本でも持続します。写真による記録は素早く消える日常的な風景はを撮ることが面白いと思いました。 写真展のテーマは、内容に則して云えば、「東方へ」というよりも、「変わる風景、変わらない風景」と云うことになります。 (以上) |
報道関係者は、記事を書いて更に「絵が欲しい」と云います。くどくどと言葉で語るよりも映像を見れば直ぐ事実が分かると云うのです。
その意味では、年一回、東京都写真美術館で開催される「世界報道写真展」は一瞥して世界で発生した重要事件が分かる便利な企画です。これまでの一年間で何が人々の関心事だったかが直ぐ分かるからです。 事実の報道ですから事実を的確に把握しているか、見た人が容易に事実が理解できるかが大事です。写真の出来映えは二の次です。但し、報道写真でもスポーツ写真は別です。ダンスやバレーのような美しさが求められます。 報道写真は事実を的確に伝達すれば十分なのですが、コンテストではセンセイショナルな写真が選ばれるようです。色彩も、大きさも、誇張されたものが選ばれるようです。その方が見る人に訴える力が強いと考えるからです。 しかし、報道写真で大事なのは、感情に訴えるのではなく、理性に働きかける力です。その意味で、戦争、事故、貧困などをどぎつく捉えた写真よりも、今回の写真展ではサブプライムローンの悲劇を捉えたアンソニー・スアウの写真が印象的でした。 世界報道写真大賞を得た一枚と、上位入賞した三枚組の組写真二組、都合七枚の写真は、世界金融恐慌の始まりを見事に捉えています。これこそ言葉では表現しきれない社会現象を絵にして見せた写真です。 写真を言葉で説明しても意味がないので、是非写真展で現物をご覧下さい。展示会は8月9日迄開催されています。 (以上) 注:「世界報道写真展」については東京都写真美術館のサイト「写美」 http://www.syabi.com/details/wwp2009.htmlをご覧下さい。 |
東京都写真美術館では、いま意欲的な企画展が開催されています。その一つに「イマジネーション 視覚と知覚を超える旅」があります。(2008.12.20~2009.2.15)
この展示会は、色々な映像表現を訪ねてその神秘を解く旅に喩えられます。展示内容は極めて多岐に亘りますので、ここでは不思議な動画の展示物1点だけを取り上げます。それは、牧野貴氏の作品「Still in Cosmos」です。 その動画には、私達が日常見ている映像は一つもありません。作者は流れ続ける「混沌(chaos)」が「宇宙(cosmos)」であると主張するのです。 哲学や宗教などでは宇宙とは秩序をもつ完結した世界体系のことですから、動画のタイトルが「Still in Cosmos」というのは、「私達はずっと以前から秩序ある世界にいる」という意味です。 作者の説明を詳しく述べる前に、動画の印象を述べましょう。その映像は、喩えて云えば、水の流れる表面のような映像、無数の小鳥たちが群舞するような映像、洞窟から無数のコウモリが湧き出してくるような映像です。 猛烈な速さで、大きな粒子、小さな粒子が入り乱れて流れています。その粒子はグレー、緑、青、黄などの薄い色彩を帯びて飛び交います。時々、鋭い直線の閃光が流れてアクセントを付けます。小鳥の鳴き声のような音声が時々鳴ります。 これで何を意味するのか? 作者は次のように解説します。 カオスとは混沌ではなく、「もの」それ自体に名前がない無の状態を指す。 駕籠から出た鳥にとって外界はカオスである。 地球上に存在する生物は自らの意志により生まれるのではなく、気付いたらカオスの中にいる。存在は cosmos を造り出すことにより無意味、恐怖を克服する。 熱力学の理論にエントロピー増大の法則と云うのがありますが、この法則を社会に適用すると、社会は手当てをしないで放置しておくと乱雑になり秩序を失っていく、即ち混沌に近づいていきます。そのことをエントロピーは増大すると云います。 牧野貴氏は、宇宙には最初から厳然たる秩序が存在するのだが、未熟な私達はその秩序を認識できない。宇宙を学び親しんでいけば、やがて宇宙の秩序が見えてくると。私達の意識が目覚めるに連れて、宇宙のエントロピーは減少すると云うのです。熱力学とは正に逆の現象が起きると云うのです。 評論家の立花隆は、「臨死体験」という著書で一旦死んだとされた人が蘇生して意識を回復したとき語った記録を書いています。臨死体験者は暗いトンネルと潜ると、その先にまぶしいばかりの明るい世界が広がっているが、それは形容しがたい景色であると云っています。 死者が最初に見る死後の世界の映像は正に混沌としているのでしょう。それは未知の世界だからです。この世に生まれた赤子の目に映る物質の世界も又混沌としているでしょう。それらの混沌は、やがて赤子の目にも秩序だった世界に変わっていきます。 牧野貴氏の動画は、この世とあの世の、あの世とこの世の境界線の光景を描いているのです。 (以上) |
東京都写真美術館が企画した大規模なアメリカ写真展も、今回の第三部「アメリカン・メガミックス」で終結します。
第一部「星条旗を見て」(08.08.12掲載)第二部「わが祖国」(08.10.02掲載)と比べて第三部は、その名のとおり「メガミックス」で纏まりの悪い展示会でした。悪く云えば、第一部と第二部から洩れた作品全部お目にかけようとするかのような写真展でした。 体系的に表示するために「路上」「砂漠」「戦場」「家」「メディア」の五部に分けていますが、手持ちの作品を並べるために五つの場所を設けた印象で、この五部の意義が分かりませんし、五部の相互関係もありません。場所で分けるよりも作家の個性で分類して展示すべきでした。 第二次大戦を終えてから今日までのアメリカ写真は、広範な分野で革新的な活動をしました。それを前回までの「星条旗を見て」「わが祖国」のように焦点合わせをすることは難しいです。そうであれば、アメリカ写真が提示した現代的課題を個別に展示した方が良かったと思います。 その意味で「路上」の部門にウィリアム・クラインとロバート・フランクの写真家を取り上げたことは成功しました。クラインの「ブルクリンのダンス」は荒れた街角で二人の子供が無邪気に踊っているものです。フランクの「トロリーバス、ニューオリンズ」はバスの窓から外を覗く白人と黒人と子供達を撮ったものです。 いずれも日常的で特に気に留めないアメリカ社会の断面を切り取ったものです。報道する情景ではないが、これがアメリカなのだと気付かせる写真です。アメリカ現代写真はこうして始まったのです。両者の違いは、クラインが感情移入しているのに対し、フランクはクールに突き放しています。 リー・フリードランダーの写真集「アメリカン・モニメント」の「ニューヨーク・シティ1974」は、銅像とコカコーラの広告板を一枚の写真に納めて、アメリカの街を突き放して撮影しています。同じ写真家は写真集「セルフ・ポートレイト」では自己の影を被写体に落として「ニューヨーク・シティ1966」、或いはバクミラーに写して「ルート9W、New York」、或いはシルエットにして「ニューオリンズ1968」と、強烈な感情移入を行っています。 距離を置きながら共感を表している写真は、ゲリー・ウィノグランドが広角レンズを用いて街行く人々を撮影した「ロスアンジェルス、カリフォルニア1969」、道路に伏せる傷痍軍人と無関心に空を見上げる人、通り過ぎる人を捉えた「退役軍人全国大会、ダラス、テキサス」にみることができます。 以上の写真を見てアメリカ現代写真を見終わった気持ちになりましたが、アメリカ現代写真には全く違った新しい分野が広がったと云われます。一つは大自然の中に心象的な風景を描く写真であり、もう一つは写真を材料とした美術を企てるものです。 今回の写真展では奈良原一高が西部で写した写真集「消滅した時間」は、ウィリアム・エグルストンのシュ-ル・レアリズムのイメ-ジを連想させるものです。 「砂漠を走る車の影」は幻想的であり、「インディアンの村の二つのゴミ缶」は空想的であり、「月夜のエアストリーム」は霊感的です。それでありながら、廃屋とそっぽを向く犬二匹を写した「ゴールドラッシュ時代の家」は現実感を備えています。 1960年代以降、写真で美術を企てる分野のコンセプチュアル・フォトグラフ、さらにコンストラクテッド・フォトグラフがアメリカで盛んになりました。これらの写真家達は従来の写真の世界と考えられていた境界線から一歩外に出た芸術を目指したものです。しかし、それらの作品は今回は展示されていませんでした。 最後に展示されていた森村泰昌の「なにものかへのレクエイム(VIETNAM WAR)」はベトナム戦争で捉えられた捕虜が公開処刑される悲惨なドキュメンタリー写真に作者が登場した戯画ですが、何を意味するものか理解に苦しみます。 (以上) |
11月末からモノクローム写真展がコンタックスクラブ展示場(東京交通会館7階)で開催されています。ゾーンシステム研究会というプロ写真家グループの写真展です。
この頃はカラー写真が全盛でして、モノクロ写真を見る機会は写真雑誌などで昔の芸術写真集を見る時くらいですが、この写真展を見て、今も熱心なモノクロ写真家が活発に活動していることを知りました。 私はモノクロ写真というと黒と白の二色の写真であり、その濃淡の変化で被写体を表現するものと理解していました。濃淡は光の蔭であり、蔭によって対象の形態や遠近を表すものと考えていました。 しかし、この写真展はモノクロで色彩までを表現しようとしているかのようです。この研究会が主張しているゾーンシステムというのは、白から黒までのグレー系のグラデーションを9段階に等分して、その9段階の組み合わせで画面を構成する手法です。 このゾーンシステムは、ヨセミテ渓谷の美を世界に知らしめた写真家アンセル・アダムズが提唱した手法だそうです。素晴らしい作品を創造する芸術家は原理から追求することが分かります。 アンリ・マチスの絵は色彩の交響楽と云われています。その意味はマチスが色彩の相互作用が醸成する緊張感で絵を描いているからです。このゾーンシステムでは9等分された白と黒を互いに緊張するように組み合わせて画面を構成しようと云うのです。 色彩の有無を度外視すれば、ゾーンシステムが画面構成に緊張感をもたらしていることは色彩の画家マチスの場合と同じです。白と黒のグラデーションを感覚だけで捉えず、そこに理論を持ち込んだことがゾーンシステムの手柄です。 その点は、ゾーンシステム研究会の代表者、中島秀雄氏の「Bridgeport Community Church,Clif.」(木造の教会建築)を見ると良く分かります。更に、同氏の「Screw Propeller,Ariake」は、なだらかなグラデーションで、腐食したスクリュー断片を生物の肌のように見せています。 20人余りの写真家が40点余りの作品を展示していますので、特に注目した作品についてのみ感想を述べてみます。 北野龍一氏の「海の堆朱」は、荒波に研がれた堆積岩の表面に描かれた紋様を撮影したものです。紋様は岩が生きてきた軌跡です。自然の造形は人工の及ばぬものです。微妙なトーンで造形された紋様はモノクロ写真だからこそ表現できたと思います。 宮岡貞英氏の二作品「黒い世界1、2」はハワイ島キラウエア火山の溶岩を撮影したものです。これらの写真では、幾つもの段階の黒色が複雑に絡み合って画面を構成しています。流れ出した溶岩の風景でありながら、抽象画を見るようです。モノクロ写真ならではの表現です。 ゾーンシステムはモノクロ写真に理論を導入しました。白は無地とか空白というように「存在の無」を表します。黒は光がない状態で「光の無」を表します。無から無への間にグレーの理論を展開したと云って良いでしょう。 (以上) |
第一部「星条旗 1839~1917」に続く第二部「わが祖国 1918~1961」は、第一次世界大戦に勝利したアメリカが、その勝利を背景にして経済的にも欧州諸国を凌駕した時代から、第二次世界大戦にも西欧諸国の盟主として戦い、戦後は米ソの冷戦を続けた時代までの間です。近代アメリカ史上、激動の期間です。
第一次世界大戦後、欧州の疲弊を尻目にアメリカ産業は大いに発展を遂げ、世界の資本主義経済の牽引者となりますが、1929年に起きた世界大恐慌で、産業は崩壊し、経済は大混乱に陥ります。景気回復のため採った需要喚起政策、ニューディール政策もなかなか効果が上がらないうちに、第二次世界大戦が始まり、さすがの大恐慌の傷跡も戦争のお陰で癒えます。1945年に第二次世界大戦が終わるや、間もなく米ソの間に対立が生じて冷戦と言われる軍事的対立が1989年まで続きます。 今回の写真展「わが祖国」は、この約40年間のアメリカの激動を撮り続けた写真家たちの記録です。第一部「星条旗」が建国の苦難を描いたところに強い印象を受けましたが、「わが祖国」は激動の時代を描くアメリカ写真の表現力に注目しました。 展示は三編に分かれています。第一編はアメリカのモダニズム、第二編はグラフ誌の黄金時代、第三編はドキュメンタリ写真です。 第一編アメリカのモダニズムの写真では、アメリカの写真家が写真表現で独自の道を切り開いていく様子が分かります。それは、アメリカ近代写真の父と言われるスティーグリッツが主導した、ピクトリアリズムから離れて、対象物に迫るストレート写真へと歩む道です。 ベレニス・アボットの「変わりゆくニューヨーク」には、1930年代のニューヨーク市街には未だ高層ビルと低層ビルが混在している様が克明に写されています。人工的なビルの街もストレートに撮ると美しく見えます。 また、エドワード・ウェストンの「ジュニパー、テナヤ湖」は樹木の肌を細密に描写すると共に造形の本質に迫る写真です。同じ作家の有名な「ピーマン」も日常見慣れた食物に造形の美を発見する写真です。 アンセル・アダムズのヨセミテ渓谷の写真「月の出」「月とハーフドム」などは、ストレート手法を大自然に向けたものです。普通に見ていては見えない美を発見した写真です。 第二編グラフ誌の黄金時代は、1936年「ライフ」誌の創刊に始まります。アメリカ写真がその真価を発揮した分野であり、写真界に新しい世界を開いた時代です。更に云えばフォトジャーナリズムを芸術にまで引き上げた時代です。 有名なロバート・キャパの「ノルマンディ海岸」は偶然、ブレ、アレ、ボケの表現になりましたが、如何なる状況でも写し留める写真の本性を示すものです。 カール・マイダンスの「法廷で証言する東条英機元首相」、ユージン・スミスの「ハリー・トルーマン」などの人物写真の性格描写も写真だけが出来る表現力です。裁かれる東条英機は堂々としており、裁く側のトルーマンが卑しく見えるのは、私が日本人だからでしょうか? 第三編ドキュメンタリ写真はアメリカ報道写真の始まりとなりました。それが大不況から脱却するニューディール政策を推進していた連邦政府からの依頼によって始まったということが面白いところです。 ウオーカー・エヴァンスの「小作人 アラバマ」、ベン・シャーンの「マルホーク家 小作農」「堤防を築く労働者たち ルイジアナ」、ドロシア・ラングの「重量を量るために畑の縁に並ぶ豆摘み労働者たち カリフォルニア」「プランテーションへ向かう綿摘み労働者たち」は、大恐慌で苦しむ農民たちの生活を写したものです。1930年代の中西部のアメリカ農村の荒廃を描いたジョン・スタインベックの小説「怒りの葡萄」を絵にして見せたような写真です。 以上取り上げた写真以外にも、産業化する社会を直視した工場や機械を対象とした写真、拡大する消費経済の一面を広告という形で捉えたファッションの写真など、「わが祖国」が対象とした40年間には新しい分野の写真が沢山生まれました。歴史の短い東京都写真美術館が、これだけ厖大な写真を収集していることに改めて感心しました。 最後に苦言ですが、確か第二部「わが祖国」第三編のアメリカ・ソシアル・ドキュメンタリーの写真は、第一部「星条旗」でも取り上げていたと思います。展示された写真に重複はないと思いますが、同じ時期のものは同じ展示会に括って欲しいものです。同じ疑問はアンセル・アダムズのヨセミテ渓谷の写真展示についてもあります。 これが展示方法のミスでないなら、同じ時代の同類の写真を第一部と第二部にわけた理由を知りたいと思います。 (以上) |
東京都写真美術館では「ヴィジョンズ・オブ・アメリカ」写真展が開催されています。
第一部「星条旗 1839~1917」(開催期間 7.5~8.24)、第二部「我が祖国 1918~1961」(同8.30~10.19)、第三部「アメリカン・メガミックス 1957~1987」(同10.25~12.7)の三部からなる大規模な展覧会です。 この写真展は東京都写真美術館収蔵展と銘打っており、日本の写真美術館の写真収蔵力と展示表現力を示す格好の写真展となっています。 まだ第一部「星条旗」を見た第一印象ですが、開館(1995)して未だ日の浅い東京都写真美術館にしては、充実したアメリカ写真展を実現した思います。 ヨーロッパで発明された写真は、アメリカ社会の体質に合っていたのか逸早く受け入れられ、ヨーロパよりもダイナミックな発展を遂げたと思います。写真展「星条旗」を見ていると、そのアメリカ写真の歴史が良く分かります。 第一部の題名となった「星条旗」はアメリカの国旗であり、アメリカの国歌です。アメリカ国歌「星条旗」の歌詞は、アメリカがイギリスから独立した戦争の勝利を讃えたものです。 その後、アメリカの独立を脅かす危機が訪れます。それはアメリカを南北に分断する恐れのある南北戦争でした。独立して間もないアメリカが南北に分裂すれば、弱体化した南北アメリカは旧大陸からの内政干渉を受けて再び独立が危うくなります。 写真展第一部は、南北戦争のドキュメンタリー写真のスライド映写から始まります。これらのスライド写真は、北軍が25人の写真隊を従軍させて撮影したものです。軍の行動記録を撮る目的でしたが、写真は戦場の悲惨さを余すところなく伝えています。兵士の死体が戦場に散在している「死の収穫」(ゲティスバーク)は、これ一枚で61万人の戦死者を出した南北戦争のすべてを語っています。 南北戦争の英雄リンカーン大統領は、日本では奴隷解放で有名ですが、アメリカでは祖国の分断を防ぎ、国家統一を果たしたことで尊敬されています。その意味で、南北戦争は第二の独立戦争でした。これらのドキュメンタリー写真はアメリカ人に、独立の有り難さを思い起こさせる貴重な記録なのです。 アメリカは、西部へのフロンティア開拓のために地図を必要としました。オサリバン、ワトキンズ、ジャクソンなどの写真家は、地形や地質を記録するため盛んに西部の各地の写真を撮りました。 写真家たちは、その中で風景としての美しさを捉えていきます。こうして、アメリカの風景写真は軍事的実用性の中から生まれてきたのです。後世、ヨセミテ渓谷の美しさを世界に伝えたアンセル・アダムズよりずっと昔に、ヨセミテのハーフドームは彼らのカメラに収まっています。 1929年の大恐慌の後アメリカの経済社会は混乱と疲弊を続けますが、連邦政府は写真を用いて社会政策の必要性を人々に説いていきます。政府の要請で社会の暗部を次々と撮影したのはアメリカ・ソシアル・ドキュメンタリーと言われる写真家達でした。 しかし、アメリカ・ソシアル・ドキュメンタリーの写真家たちは失業者、児童労働、貧民街、貧農などの悲惨な現象を撮影しながらも、L.W.ハインなどはその中に造形的な美しさを込めるようになります。そうすることで即物的な悲惨さは更に印象的になるからです。 こうして見てくると、アメリカの写真は常に軍事、開拓、社会問題という実社会と向き合って発展してきたことが分かります。その頃、ヨーロッパから帰米したスティーグリッツはアメリカ的な写真芸術を追究し、近代写真の父と言われますが、作品「三等船室」「駅馬車の終点」などに見るように、アメリカの現実社会を直視する姿勢は、アメリカ写真の伝統に忠実でした。 第一部を見て、第二部、第三部が待ち遠しくなる写真展でした。 (以上) |
品川のキャノンギャラリー S で、写真家木村恵一氏の「江戸東京・下町日和」という写真展が開かれています。(2008.6.20~7.31)
木村恵一氏は、震災と戦災で消されて行った東京の下町に残る江戸の匂い発見し、それを美しく映像として記録しています。展示された写真は、私達がいま何気なく見ている町にも江戸の遺産が生きていることを知らせてくれます。 江戸の文化は震災と戦災で壊される前に、明治の近代化で壊れ始めます。徳川時代の文化が明治の西欧化で破壊される様は、見方を変えれば文明が野蛮に浸食された過程でした。 その浸食は、徳川時代の古い建物や構築物が壊され、西洋風の建物や施設が生まれたという外見ばかりでなく、江戸町人の生活が消えていき、地方から上京した新しい東京人の生活がそれにに置き換えられると言う、街の内面の変化でもありました。 江戸の平和は250年余り続きました。この平和で醸成された下町の文化は、西欧世界からみると地球上で滅多に見られない存在なのだそうです。しかし、その中に住む日本人にとっては、これは当り前のことであり、それが消えゆくのも当り前でした。 この消えゆく江戸町民の生活の名残りを、現代の東京の街中に発見した写真としては、私は次の五点に注目します。 台東区谷中と台東区下谷の二階建て長屋を写した二枚の写真、及び文京区根津の日用雑貨屋の店先を写した写真、これらは下町の露地の生活感をを捉えています。また、台東区谷中で露地に水打つ男と男に挨拶する老女の写真、台東区池之端で屋台の主人が一服する場面の写真です。 ここに写された建物は昭和初期に建てられたものでしょうし、登場する人物は平成の人々ですが、江戸時代も斯くの如くありなんと思わせる雰囲気です。 次に、私は江戸の工芸技術を今に伝える職人たちの表情と、その仕事場を撮影した十数点の写真に注目します。 浮世絵木版彫師が作業している仕事場の情景は江戸時代の復元です。江戸提灯、江戸凧、江戸小紋などの作品を前にして誇らしげな職人たちの表情には、江戸文化の後継者としての誇りが窺えます。 これらの写真に写っている職人たちは殆ど既に亡くなられているそうですが、後継者はいても風貌までは後継できないと、撮影者の木村恵一氏は語っていました。彼らは江戸文化を体現した最後の人達でした。 江戸時代から続く神社の祭りや、朝顔市、鬼灯市などの町の行事を写した写真は、確かに江戸の伝統を写したものですが、これらハレの場面はこれからも同じようにくり返されるので、消え去ることはないでしょう。 神田川が隅田川に注ぐ河口に柳橋があります。柳橋は江戸時代から隅田川の花街として栄えたところで、明治以降も芸者を乗せて酒盛りをする舟遊びの拠点でありました。しかし、朝早くそこに係留してある小舟には釣竿を立てた釣人が乗り込んでいました。写真家木村恵一氏は、その変化を素早く一枚の写真で捉えています。 江戸は消えて明治になり、明治は遠くなって昭和になりました。平成の現代もやがて消えていきます。消えゆくものは江戸時代だけではないのです。現代の映像を将来に伝えることが写真の重要な役目だとすると、この出発前の釣船の情景も、柳橋の変貌として見過してはいけない貴重なものとなるでしょう。 その意味で、今眼前にあるがやがて消えていく光景で、後世に残すべき光景は何か難しい問題を投げかける一枚でした。 (以上) |
今、東京都写真美術館で「森山大道展」が開催されています。(2008.5.13~6.29) 作品展は二部に分かれていて、第一部レトロスペクティヴ、第二部ハワイです。 ここでは、1965年から2005年の40年間を総括して回顧する形の第一部レトロスペクティヴの中で、印象に強く残った作品について感想を述べてみます。作品名は「 」の中に、その後に記した( )の数字は作品番号です。 レトロスペクティヴは、5つのパートに分かれています。 第一のパートは1960年代に森山大道のデビュー作である「にっぽん劇場写真帳」が中心となって展示されていますが、なぜこれらの写真が森山の写真界への挑戦と評価されたのか私には分かりません。それよりも、冒頭に展示された初期の作品「無言劇」(1、2)の二枚は、生命の闇を暗示したものとして不気味さを秘めていて、後に森山が北海道で見出した写真の世界を予想させるものです。 第二のパートは、1968~70年のプロヴォーグの時代です。 「青山」(25)は、デザイン誌に発表されたときの説明文「エロスあるいはエロスでない何か」は言葉として意味不明ですが、女の顔の一部を切り取って情念の世界を描いています。見た瞬間に意味するものが伝わり、忘れられない力を持っています。 「東京インターチェンジ」(32、33)は、高速道路を疾走する心理を表現したものとして、速さはこのように表現するのかと感心しました。それ以上に深読みして異次元世界への爽快なる飛翔と見るか、あの世への旅立ちとみるか、人それぞれです。 この時代に森山大道は「アレ、ブレ、ボケ」の手法を用いて写真界で注目を集めましたが、今改めて眺めてみると、必ずしも評価された手法に依存していない「無言劇」「青山」「東京インターチェンジ」の方が印象に残りました。 第三のパートは1970年代の何かへの旅です。 夜の函館地峡に霧が襲う「函館」(103)、一匹の野良犬がさまよう農村の風景「木古内」(120)、夜更けの市電「函館」(102)、煙突から煙を吐く停泊中の小さな客船「留萌」(116)、単線鉄路の貨物列車「夕張」(93)、寂しげな村落の道の「釧路」(88)、荒海の彼方に見える工場地帯「室蘭」(126)が強く印象に残る作品です。 森山大道が1970年代に北海道で撮影したこれらの写真には、プロヴォーグの時代に試みた「アレ、ブレ、ボケ」の手法は姿を消しています。そして、北海道の荒涼たる風景と対峙することで、行き詰まった孤独な心境を描写することに成功しています。技巧だけでは掴めなかった自分の心象を映像化し たと言えます。 第四のパートは1980年代の光と蔭です。 写真美術館のパンフレットでは、この時代の「光と蔭シリーズ」で森山大道は長いスランプから抜け出したと解説していますが、これらの写真には70年代の北海道の旅の写真ほどの力は感じられません。僅かに「バケツ」(130)、「帽子」(132)、「タイヤ」(139)に光と蔭の面白さを発見するだけです。 第五のパートは1990年代のヒステリック、2000年代の新宿、ブエノスアイレスです。 80年代の「光と蔭シリーズ」でスランプを脱したと言うなら、森山大道は90年代以降に更なる新境地を開拓した筈ですが、この時代の作品には、それ以前の森山大道の作品にあったような印象的な作品を見いだせませんでした。 文学、絵画、音楽など、いずれの分野でも芸術家の活動には山もあれば谷もあります。スランプから脱したとしてもピークが訪れるわけでもありません。 芸術家にとっての本当のピークは一生に一度訪れると言われています。そのピークが若いときに来るか晩年に来るかは人によりけりです。森山大道の写真のピークは、今までの所1970年代だったというのが観賞後の印象でした。 (以上) |