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簾とカーテン 日本人の生活空間感覚
     1.すだれ-01P 94r
     写真1 京都にて
     2.米沢-03P 95t
     写真2 米沢にて
                    3.旧古河庭園-39D 0907qc
                    写真3 旧古河庭園にて
                    4.レースカーテンの窓-01Pr
                    写真4 ベルギーにて
                                   5.大内の宿-03P 99r
                                   写真5 福島県大内宿にて
                                   6.六義園-06D 0712q
                                   写真6 六義園にて 

日除けや目隠しに使われる簾(すだれ)は、昔から日本家屋の夏を飾る風物の一つでした。しかし、最近は西欧建築の影響で、家庭では簾の代わりにカーテンが多く使われるようになりました。
(写真1、2)

建築物の構造は、その土地の気候風土に左右されます。雨が少なく寒気の厳しいヨーロッパでは、断熱性に優れた壁が重視されます。しかし、雨の多く湿度の高い日本では、寒気を凌ぐ壁よりも、夏に風が通り易い構造が重視されます。

西欧建築では、寒気を防ぐために壁を厚くし、窓を小さくします。外界と屋内はしかり遮断することが大事なのです。窓は部屋への明かり取りのためのものであり、外から人に覗かれては困るのでカーテンを引くのです。カーテンは明かりは通すが覗かれないための障壁なのです。(写真3、4)

日本建築では雨に備えて屋根は重視しますが、外界との壁や仕切りは簡単で軽易な構造が好まれます。家屋の内部は外界と截然と切り離されたものではなく、両者は自ずと繋がった空間であることが好まれます。(写真5、6)

西欧建築では部屋は個々に独立していますが、日本の家屋では部屋は独立したものではなく、相互に繋がったように造られます。ですから屋内の部屋の仕切りは簡易な襖や障子です。更に言えば、屋内の仕切りは、仕切ったと感じられれば、それで十分だという感覚であり、それが寧ろかっこいいことでした。

簾は、屋外と屋内を仕切ったつもり、部屋と部屋を仕切ったつもりです。一つの部屋を簾で仕切れば二つの部屋に感じるのが良いのです。中が見えても見えない約束事が通用する典型的な仕切りが御簾(みす)でした。

簾とカーテンの違いは、西欧と日本の風土の差から生まれたものですが、西洋人と日本人の生活空間感覚の違いをも表しています。
(以上)
【2013/07/28 21:16】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
夏の夜に屋形船から見た川面
                    1.屋形船-03D 1306q
                    2.屋形船-03D 1306qr
                    3.屋形船-05D 1306qrc

水面に何色かの絵の具を溶いて落とすと表面張力で絵の具は浮かびます。水は表面に浮かぶ何色かの絵の具を緩やかに拡散します。僅かな振動と僅かな風が絵の具を動かすのです。帯状に広がる絵の具の縞模様を櫛のような金具で上下左右に攪拌して縞模様に変化を与えます。すると水面の絵の具の模様は複雑な形に変化します。そうして出来上がった水面の模様を、紙で被せてぬぐい取ると、見事な色模様の絵画が出来上がります。

これは外国のある観光地でマーブル模様の絵画を制作販売している場面を描写したのです。

同じ技法は、かなり昔から日本の伝統絵画でも採用されています。それは「墨流し」という技法でして、尾形光琳が紅白梅図屏風に使ったと言われます。日本の伝統的染め物の一種に「墨割り」というものがありますが、これも原理的に同じものでしょう。

この種の絵画技法に潜む秘訣は、すべての作業を人工的に行わずに、あるところで手を抜いて自然の流れに任すところにあります。自然は人工より巧みと言うべきか、人工と自然の働きを混ぜた方が優れた作品を生むというべきか、議論はありますが、傑作が出来上がることは確かです。

ところが自然は、自然の力だけで見事なマーブル絵画を描きます。それも誰に見せるでもなく描くので大抵は見逃されています。写真は夏の夜に屋形船から見た川面の一瞬です。
(以上)
【2013/07/20 14:56】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
平成の歌舞伎座が誕生
1.歌舞伎座-09D 0909qr
写真1 改装前の歌舞伎座
2.歌舞伎座-12D 1307qr
写真2 改装後の歌舞伎座 正面は改装の前と同じ姿
3.歌舞伎座内部-06D 1306q
写真3 改装後の歌舞伎座観劇席 座席の前にゆとりがある。
4.歌舞伎座地下二階-01D 1306q
写真4 地下二階のショッピング広場「木挽町広場」
5.歌舞伎座屋上-02D 1306q
写真5 4階屋上の回廊式庭園
6.歌舞伎座屋上から-03D 1306q
写真6 庭園からの階段の朱塗りの手摺りが瓦屋根に似合う。
7.歌舞伎座-14D 1307q
写真7 超高層の歌舞伎座タワービルも歌舞伎座の添え物 

銀座の裏手(東銀座)にある歌舞伎座は、明治22年(1889)に当時の演劇復興運動の中から生まれた劇場です。今でこそ銀座は繁華街の中心ですが、江戸時代は下町の中心地であった日本橋から見ると銀座は場末であり、明治時代になっても見せ物小屋などは銀座、新橋方面に建てる慣習が残っていました。

銀座の裏手に最初に建てられた歌舞伎座は、明治44年(1911)に改築され、正面の車寄せに唐破風造りの屋根を乗せた豪華な劇場でしたが、この二代目歌舞伎座は関東大震災(1923)で消失しました。震災後の大正13年(1924)に再建された三代目歌舞伎座は、桃山様式の豪華な姿になり、その後、東京大空襲でそれも消失しましたが、昭和26年(1951年)に桃山様式をそのまま継承して再建されました。この四代目の歌舞伎座は、昭和の歌舞伎座として平成22年(2010)まで開演されていました。(写真1)

その歌舞伎座も戦後の再建以来半世紀余り経て建物が老朽化し、耐震にも不安があり、また舞台や客席も旧式化しましたので、歌舞伎座全体の改築の話が数年前(2005)から出ていました。しかし、歌舞伎座は文化庁の登録有形文化財になっており、建物の形状や形態などについては保存する必要があるので、その改築実現にはかなりの時間がかかり、この度、ようやく平成の歌舞伎座が五代目として誕生したのです。
(写真2、3)

明治座や新橋演舞場は立て替えで一戸建てからビルへの入居となり、外観は洋風になってしまいました。しかし改装された五代目の歌舞伎座は、一戸建てを堅持して前面のファサードは従前と変わらない容姿を残しました。三宅坂にある国立劇場は校倉造りを連想させるファサードなので、古代の和風のイメージを演出していますが、新装歌舞伎座は、桃山様式で正面を飾り、中世の和風のイメージを演出しています。

明治時代になり江戸時代を演じる歌舞伎の人気は一時衰えます。代わって登場した新派劇は明治時代を演じる演劇で、明治座や新橋演舞場で演じられました。新派とは歌舞伎を旧派とみなした言葉ですが、その新派劇も昭和時代には古いものと見なされ、人気が落ちます。代わって登場したのが西洋劇の翻訳物やミュージカルで、戦後は特に盛んに上演されます。しかし、これは歌舞伎とは全く別世界の演劇です。

その間、昔の時代劇は、種々の劇場で上演されるほか、戦後はテレビのNHK 大河ドラマのように、時代劇は根強い人気が続きます。しかし、やはり時代劇の本物は歌舞伎です。それは西欧でシェイクスピア演劇がそのまま現代に通じているように、歌舞伎もそのままで現代の日本人に抵抗なく受け入れらるものです。人情と風俗を様式化した歌舞伎は、時代を越えて通用するのです。

案の定、改装した歌舞伎座には大勢の観客が詰めかけており、客筋も若返っていると言われます。新装歌舞伎座が賑わうのには、もう一つ訳があります。それは観劇を楽しむ人々だけでなく、新装なった歌舞伎座の建物を鑑賞したい人々も多いからです。

歌舞伎座の改装設計を担当した建築家の隈研吾氏は、新しい歌舞伎座を観劇のためだけでなく、人々が集い楽しむ場所にしました。即ち、地下二階に「木挽町広場」とういうショッピング街を作り、そこから直通のエレベータで5階へ上がると歌舞伎座ギャラリーがあり、そこには歌舞伎に係わる小道具類が展示され、更にそこから屋上庭園へ出て散歩することが出来ます。この回遊式屋上庭園から朱塗りの手摺りに沿って4階に降りると、歌舞伎役者の肖像画が並ぶ廊下に出ます。(写真4、5、6)

歌舞伎座の地下2階の「木挽町広場」へは、地下鉄の日比谷線と都営浅草線の東銀座駅から直接入れますが、歌舞伎座の劇場に入るには、一旦晴海通りに出て、桃山様式の正面入口から入場するよう設計されています。これは伝統と秩序を重視する建築家、隈研吾氏のアイディアによるものだと言われています。

隈研吾氏の建築家としての業績については、既に「日本の建築家の挑戦 隈研吾 2011.08.18」でご紹介しましたが、その真髄は、日本の伝統的な建築に普遍性を与えて、西欧社会にも通用する建築を造り出そうとしたことです。

晴海通りの向こう側から新装歌舞伎座を眺めますと、歌舞伎座の背後に聳え立つ、のっぺりした地上29階のオフィスビル「歌舞伎座タワー」は、漆喰壁を立てかけたように歌舞伎座の背後の空間を埋め尽くしています。(写真7)

確かに、日本の伝統的な技法を取り入れながらも、建築物全体として建設現場の環境と調和させることに成功しています。
(以上)
【2013/07/13 16:51】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
レインボーブリッジとベイブリッジ
     1.東京港:レインボーブリッジ-02D 1005qrc
     写真1 レインボーブリッジ全貌 東京港から
     2.お台場:レインボーブリッジ-05D 06
     写真2 レインボーブリッジ全貌 お台場から
     3.レインボーブリッジ-06D 1306qr
     写真3 レインボーブリッジの夜景
                              5.ベイ・ブリッジ-21D 1201qr
                              写真4 横浜ベイブリッジ全貌 
                              4.ベイ・ブリッジ-24D 1201qt
                              写真5 横浜ベイブリッジの夜景
                              6.ベイ・ブリッジ-14D 1201qc
                             写真6 横浜ベイブリッジをくぐる飛鳥Ⅱ号

嘗ては橋は川に架けるものでしたが、架橋技術が進歩して海を跨いで架ける橋が増えています。海を跨ぐ橋で有名なのは瀬戸内海を跨ぐ本四架橋ですが、大都市の沿海でも内陸部と埋め立て地を繋ぐための海を跨ぐ大きな橋が東京と横浜にあります。レインボーブリッジとベイブリッジがそれです。

レインボーブリッジは、東京湾に面した芝浦とお台場を結ぶ吊り橋です。千葉および神奈川から都心へ向かう交通を分散させると共に、お台場を含む東京臨海副都心への通路を確保するため建設されました。従って橋の位置は、東京港も奧深く入ったところにあります。

東京港の奧深くは大型客船が接岸できる埠頭が無いので大型外航船は入りませんが、レインボーブリッジは空高く吊り上げられて建設されました。それは建設当時、豪華客船クイーン・エリザベス2号の通行を可能にすることを予想して橋の高さを決めたからです。

その豪華客船は横浜港に着岸しましたが、遂に東京港には着岸しませんでした。その後、世界的に客船の大型化が進んだので、レインボーブリッジをくぐる大型客船は無いとのことです。予想は外れましたが、高くて大きなレインボーブリッジが、その名の通り虹のような空に弧を描いて東京港の出口に高く聳えていることは良いことです。それは空から見た東京の都市景観にアクセントをつけたからです。
(写真1、2、3)

アメリカのサンフランシスコ湾の出口に架かるゴールデンゲートブリッジ(金門橋)が太平洋を航海してきた船にここからはサンフランシスコですと宣言しているように、レインボーブリッジも、首都の海の玄関はここですと宣言しています。小型ですが吊り橋の優美な曲線と海と空の色になじむ色彩でゴールデンゲートブリッジにひけを取りません。

横浜のベイブリジは、横浜港の入り口にある大黑埠頭と本牧埠頭の間に架かる橋です。そして川崎から横浜に伸びてきた首都高速湾岸線を、横浜港口で横須賀方面へ伸ばす役目を果たしている橋です。横浜市の強い要請で橋の建設が決まったので、横浜市街地の貨物輸送の渋滞を解消することが目的だったのですが、本牧以南の臨海工業地帯、更には横須賀方面への交通にも貢献しています。

横浜港には横浜港大桟橋埠頭があり、大型客船の来港を期待しましたが、横浜ベイブリジの高さが55メートルしかないので、クイーン・メリー2号やボイジャー・オブ・ザ・シーズ号など10万トンを超える大型豪華客船は橋をくぐれず、船は港外の大黑埠頭に停泊しました。但し、一回り小さな飛鳥Ⅱ号は横浜港大桟橋埠頭を母港にして橋をくぐっています。(写真6)

横浜ベイブリジは斜張橋という吊り橋で、直接塔から桁を吊り下げる形態です。塔と塔の間にメインケーブルを通して、そのケーブルから垂らしたハンガーロープで桁を吊っているレインボーブリッジに比べると曲線がないだけ優雅さに欠けますが、橋の本体が長く緩やかに反り返っていて、遠くから見るといかにも雄大です。
(写真4、5)

長くて高い橋は、大きな船がくぐれなくても、大都会の海からの入口のアクセサリーとして存在価値はあります。
(以上)
【2013/07/04 13:22】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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