東京都写真美術館が企画した大規模なアメリカ写真展も、今回の第三部「アメリカン・メガミックス」で終結します。
第一部「星条旗を見て」(08.08.12掲載)第二部「わが祖国」(08.10.02掲載)と比べて第三部は、その名のとおり「メガミックス」で纏まりの悪い展示会でした。悪く云えば、第一部と第二部から洩れた作品全部お目にかけようとするかのような写真展でした。 体系的に表示するために「路上」「砂漠」「戦場」「家」「メディア」の五部に分けていますが、手持ちの作品を並べるために五つの場所を設けた印象で、この五部の意義が分かりませんし、五部の相互関係もありません。場所で分けるよりも作家の個性で分類して展示すべきでした。 第二次大戦を終えてから今日までのアメリカ写真は、広範な分野で革新的な活動をしました。それを前回までの「星条旗を見て」「わが祖国」のように焦点合わせをすることは難しいです。そうであれば、アメリカ写真が提示した現代的課題を個別に展示した方が良かったと思います。 その意味で「路上」の部門にウィリアム・クラインとロバート・フランクの写真家を取り上げたことは成功しました。クラインの「ブルクリンのダンス」は荒れた街角で二人の子供が無邪気に踊っているものです。フランクの「トロリーバス、ニューオリンズ」はバスの窓から外を覗く白人と黒人と子供達を撮ったものです。 いずれも日常的で特に気に留めないアメリカ社会の断面を切り取ったものです。報道する情景ではないが、これがアメリカなのだと気付かせる写真です。アメリカ現代写真はこうして始まったのです。両者の違いは、クラインが感情移入しているのに対し、フランクはクールに突き放しています。 リー・フリードランダーの写真集「アメリカン・モニメント」の「ニューヨーク・シティ1974」は、銅像とコカコーラの広告板を一枚の写真に納めて、アメリカの街を突き放して撮影しています。同じ写真家は写真集「セルフ・ポートレイト」では自己の影を被写体に落として「ニューヨーク・シティ1966」、或いはバクミラーに写して「ルート9W、New York」、或いはシルエットにして「ニューオリンズ1968」と、強烈な感情移入を行っています。 距離を置きながら共感を表している写真は、ゲリー・ウィノグランドが広角レンズを用いて街行く人々を撮影した「ロスアンジェルス、カリフォルニア1969」、道路に伏せる傷痍軍人と無関心に空を見上げる人、通り過ぎる人を捉えた「退役軍人全国大会、ダラス、テキサス」にみることができます。 以上の写真を見てアメリカ現代写真を見終わった気持ちになりましたが、アメリカ現代写真には全く違った新しい分野が広がったと云われます。一つは大自然の中に心象的な風景を描く写真であり、もう一つは写真を材料とした美術を企てるものです。 今回の写真展では奈良原一高が西部で写した写真集「消滅した時間」は、ウィリアム・エグルストンのシュ-ル・レアリズムのイメ-ジを連想させるものです。 「砂漠を走る車の影」は幻想的であり、「インディアンの村の二つのゴミ缶」は空想的であり、「月夜のエアストリーム」は霊感的です。それでありながら、廃屋とそっぽを向く犬二匹を写した「ゴールドラッシュ時代の家」は現実感を備えています。 1960年代以降、写真で美術を企てる分野のコンセプチュアル・フォトグラフ、さらにコンストラクテッド・フォトグラフがアメリカで盛んになりました。これらの写真家達は従来の写真の世界と考えられていた境界線から一歩外に出た芸術を目指したものです。しかし、それらの作品は今回は展示されていませんでした。 最後に展示されていた森村泰昌の「なにものかへのレクエイム(VIETNAM WAR)」はベトナム戦争で捉えられた捕虜が公開処刑される悲惨なドキュメンタリー写真に作者が登場した戯画ですが、何を意味するものか理解に苦しみます。 (以上) |
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