世田谷の古風な木造家屋 二階の部屋にも障子戸がある。
一階の部屋の障子戸はガラス窓付き障子戸(しょうじど)は字義通り遮る戸のことです。従って、昔は襖戸(ふすまど)も障子戸と言いました。今の障子戸は平安時代に「明かり障子」として襖戸から分離誕生したもので、明かりを通す障子という意味でした。
従って明かり障子には外気を遮断しながら明かりだけを部屋に取り込む働きがあります。ガラス戸が発明されてない時代に、障子は大変便利なものでした。ガラス戸が出現しても外部から覗かれることなく部屋を明るくするので障子は優れていました。
古くは部屋と部屋の間の仕切りや目隠しをする家具に御簾(みす)がありました。高貴な人を直接見ることは失礼になるということで、御簾越しに面談することは、天皇家や貴族の間では良く行われていたそうです。
外部から覗かれないという点で障子は御簾に似ていますが、障子は明かりを採り入れることが目的でしたから、部屋と部屋の間よりは部屋と外界との間に置かれました。
日本列島の大半は温暖湿潤な気候なので、冬に寒い欧米の家屋のように厚い壁で外気を遮断する必要はなく、部屋の開口部を広くして空気の流れがよい家屋が好まれます。その点でも障子戸は部屋と外界との仕切りとして好都合でした。
しかし障子戸は雨には弱い欠点がありましたので、ガラス板が安価に利用できるようになると、外気に接する障子戸はガラス戸に置き換えられていきましたが、障子戸を愛用した日本人は、その代わりに曇りガラスまで発明しました。
それでも、障子戸は曇りガラスより暖かみがありますので、一部の日本家屋では障子戸は使い続けられ、ガラス戸と障子戸を組合わせた巧みな使用方法も考案されました。写真はその一例です。 (以上)
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写真1
写真2今でも街中で僧侶が寄進を仰ぐ姿を見かけることがあります。直立不動の姿勢で立ち、時折、小鐘を鳴らして道行く人々に存在を知らしめるだけで、終始無言の行です。僧侶は寄進する人が現れると、合掌して頭を下げるだけです。これは托鉢というインドで生まれた仏教の修行の一つです。
古来、インド仏教では、宗教に身を投じる者は、財産を一切持たず、一切の経済行為を行わなわず、実生活で必要な最低限の食料、衣料などは信徒の寄付によってまかなうことを戒律としていました。そして托鉢は僧侶の修行であると同時に、寄進を通じて信者に功徳を積ませる布教活動でもありました。その意味で托鉢は仏教実践の原点なのでしょう。
インドで生まれた仏教は、スリランカ、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジャへ普及した南伝仏教と、チベット、中国、日本、ベトナムへ普及した北伝仏教とがありますが、前者を上座部仏教(小乗仏教は蔑称)と言い、後者を大乗仏教と言います。
初期仏教は戒律の改廃を巡り諸派に分裂しますが、やがてスリランカの戒律維持派が上座部仏教の主流となって東南アジア諸国へ伝播します。これを論難したのが大乗仏教で、北インドから中央アジアを経て東アジアまで伝播しました。
上座部仏教の批判点は出家した者が修行により自己一人のみが救われると考えるのは「小乗」だとして自らを「大乗」と称し、出家した人だけでなく在家の人も仏陀を信じれば成仏できると説いたのです。
他方、7世紀から14世紀にかけてインド直伝の仏教を受け入れたのがチベット仏教であり、厳格な出家制度、仏教の基本、諸哲学、密教を広く包含する総合仏教と言われています。しかし、そのチベット仏教は、現在、無宗教國の中国により弾圧を受けて、観音菩薩の化身であるダライ・ラマはチベットを追われてインドにあるチベット亡命政府に滞在しています。
中国経由で普及した大乗仏教は、漢訳経典に依拠する東アジア仏教と言われますが、日本の仏教諸派はこの流れに属します。奈良、平安、鎌倉の夫々の時代に多くの宗派に分かれて広く普及しましたが、日本の仏教は神道と融合した独特の仏教に発展しました。更に鎌倉時代以降になると日本の仏教は、それまでの上流階級の仏教から一般民衆の仏教へと大衆化が進みました。そして大衆化した日本仏教は、祖先崇拝の古来の民俗信仰に支えられて、彼岸の墓参りなどの形で日常生活に生きています。
写真は皇居(写真1)と大阪城(写真2)での托鉢僧の姿です。 (以上)
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写真1 写真2 写真3 写真4 森の懐に抱かれて佇む 古風な屋根の農家が一軒
裏手には 常緑樹の黒い森が迫り 庭先には 新緑の灌木が芽吹く
新緑は 薄緑や黄緑や茶色と 色とりどり
晩春の農村が 静かに華やぐ季節 (以上)
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