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カエデの紅葉とイチョウの黄葉
1.もみじ-04D 1112qt
写真1
        3.上山城から-03D 0810qtc
        写真2
                 2.秋の木立-03P 03qt
                 写真3
                       4.黄落-02D 05
                       写真4
                             5.銀杏並木-07D 05qr
                             写真5
                                   6.三渓園-36D 0712qc
                                   写真6

秋になり降り注ぐ太陽光が少なくなると、落葉樹は太陽光による葉緑素の光合成を休止します。そうすると、葉緑素の持つ緑色が薄れて、葉は赤くなったり黄色くなったり茶色になったり変色します。

秋になって葉が赤くなるのは、ご存じのようにカエデ科に属するモミジです。モミジの葉が赤くなるのは、葉に沢山の糖分を蓄えているからだと言います。因みにカナダ産のメープルシロップは有名ですが、これはサトウカエデの樹液を濃縮したものです。(写真1)

イチョウやケヤキなどの葉は、赤くならずに黄色や茶色になります。これらの木々の葉には糖分が少なく、葉緑素の生産が休止すると、素地の黄色や茶色の色素が表面に現れるのです。
(写真2、3)

葉緑素の生産休止は、同時に木の成長の休止です。成長に役立たなくなった葉は、エネルギーのロスを防ぐため木から落とします。俳句の季語に「黄落」という言葉がありますが、晩秋にイチョウの葉が落ちる様を表現した熟語です。(写真4)

モミジの落葉は汚く縮れますが、分厚いイチョウの葉は落ちても形を変えません。イチョウの葉が地面に落ちて積もり、黄色い畳敷きのようにふかふかした道を歩くのは楽しいものです。(写真5)

イチョウは黄落の最盛期を過ぎても尚楽しめますが、モミジは真っ赤に染まった最盛期か最も美しいです。しかし、未だ一部に緑の葉が残っている早い時期にもモミジの不思議な魅力があります。ツートンカラーのモミジのグラデーションを味わって下さい。(写真6)
(以上)
【2012/11/27 22:27】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
高齢化の時代の微笑ましい光景
                   1.銀座通り-006D 05.6qt
                   写真1
                 2.老人-04P 88r
                 写真2
                 3.ボストン-02Pr
                 写真3

日本は高齢化の時代に入ったと言われます。
高齢者が病気になって通院したり入院したりすれば、本人が苦痛であるだけでなく、医療保険の公的負担も大きくなるので、高齢者は病気に罹らず元気でいるだけで社会貢献していることになります。

多くの地方自治体で高齢者にシルバーパスを発行して足代を安くしたり、映画館、美術館、博物館、庭園などの入場料を割引しているのは、高齢者への感謝に気持ちをあらわすことでもありますが、元気な高齢者には家に閉じこもらず戸外に出で益々元気になって欲しいとの配慮だと言われます。

私も高齢者の一人なので、シルバーパスを購入して、暇さえあればカメラを片手に散歩に出かけて、写真撮影を楽しんでいます。

ここに掲げた最初の写真は、散歩の途中で銀座で見かけた光景です。高齢のご夫婦が甘味処で何を食べようか相談しています。後ろ姿には老夫婦の仲睦まじい雰囲気が良く出ています。お若い頃デートで会ったお店でしょうか、それとも家族連れで入ったお店でしょうか。そんなことまで想像しながらスナップしました。(写真1)

次の写真は、四国の高松城址公園で、ベレー帽をかぶった老人二人が、暖かい日差しを浴びて語り合っているところを撮ったものです。同じ職場の同僚だった仲間なのか、或いは若い頃の学友なのか、昔を語り合えば話は尽きない仲と想像しました。(写真2)

三枚目の写真は、家内とアメリカ旅行をした際、ボストン港の波止場でベンチに座り語り合う老夫婦を撮影したものです。港は船が大海へ出て行く場所ですが、海洋での仕事を終えて帰ってくる場所でもあります。人生にも門出の場所と終着の場所があるとすれば、港ほどそれに相応しい場所は外にないでしょう。老夫婦は、人生の終着駅で懐かしい過去を語り合っているのかも知れません。(写真3)

高齢化時代の微笑ましい光景を見て、人生が終わる頃にも充実した楽しい時間があることを知りました。
(以上)
【2012/11/18 21:45】 | 人生 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
カエデの紅葉を先取りする木々
   1.さくら-36D 1211qt   
   写真1
           2.落ち葉-06D 0712qt
           写真2
                      3.紅葉-26P 95q
                      写真3
                           4.樹の葉-08Pt
                           写真4
                                      5.落葉松-03Pq
                                      写真5

カエデは、秋の野山を赤く染める紅葉の代表的な木ですが、カエデ以外にも紅葉で美しくなる木々は沢山あります。カエデは、紅葉が始まる時期が比較的遅いですが、その代わりに秋遅くまで紅葉は続きます。その他の木々の紅葉は、割りと早い時期から始まりますが、その紅葉は早く終わります。

最も早く紅葉し始めるのは桜の木です。花の咲く四月には大いに愛でられる桜ですが、その後、無骨な幹に葉を茂らせるだけで忘れられていた桜が、もう一度人々に注目されるのが早秋の紅葉です。

桜の紅葉は赤一色でなく、薄黄色の葉がまだらに混ざった複雑な紅葉です。カエデのような透明感はありませんし、イチョウのような重厚感もありませんが、桜モミジは渋い色彩で深みがあります。(写真1)

夕陽に照らされた秋の桜木が赤色と黄色の葉をキラキラと輝かせていたので、近づいて桜の落ち葉を見ると、赤い葉と黄色い葉が混ざっており、散っても複雑な色彩で味わいがあります。
(写真2)

街路樹として植えられているプラタナスの紅葉は、秋の街をひととき彩る美しいものです。その葉は、紅葉すると同時に軽やかに散り始め、いつの間にか消えてしまうので、つい見損んじますが、広がる枝にパラパラと纏わりついているプラタナスの紅葉は、点描画のように美しく見えます。(写真3)

プラタナスの場合は残された葉が少なくなった頃に美しく見えますが、サルスベリの紅葉は、全ての葉が残っている時期が良いようです。サルスベリは、黄葉し始めると、緑色を残しながら一部が黄色に変わり、更にその黄色い葉が茶色に変わるので、紅葉の変化の過程が、緑、黄、茶と同時に見ることが出来ます。

サルスベリはすべすべした繊細な白い肌の樹幹を持っていますから、繊細な紅葉のグラデーションは、白いアクセントを付けて見事です。
(写真4)

最後にカラマツです。よくカエデは「紅葉」し、カラマツは「黄葉」すると言われます。しかし、黄葉の王者はやはりイチョウであって、カラマツは茶色です。しかしその茶色は太陽に当たると金色に輝きます。というのはカラマツは針葉樹なので光をよく通すからです。針葉樹の黄葉は、突き抜けるような美しさがあります。(写真5)
(以上)
【2012/11/14 19:34】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真とは一体何者か
写真の本質がドキュメンタリーにあるとしても、ドキュメンタリー写真にも色々な分野があります。

一般的にはドキュメンタリー写真と言えば報道写真のことであり、報道写真とは事件や事故を一般大衆に知らせる写真です。事件や事故ではありませんが、世間に知られていない事柄を発見して世人に知らせる写真も報道写真と言います。

事件や事故を伝える写真は「異常」な状態を伝える写真ですし、未知の世界を紹介する写真も日常的には見られないと言う意味で同じく「異常」な写真です。

「日常的」な情景を撮影した木村伊兵衛やアッジェやアボットは、記念碑的な建造物や祝祭の行事はハレの舞台ということで撮影しませんでした。日常的な情景は絶えず変化して何時かは消え去るものですが、ハレの舞台は容易に変わらないので、記録する価値はないと見たのでしょう。

時間の経過とともに消え去るものを記録に留めることが、写真が写真たる本質だとすると、それだけで写真は芸術たり得るのかとの疑問が湧きます。写真の本質がドキュメンタリーにあるとの主張は、写真の芸術性を弱めるのではないかとの疑問です。

嘗て、写真は絵画や文学や音楽のように芸術ではないと批判され、写真は芸術形式を持っていないと断じられた時代がありました。やはりそうだったのかとの疑問が湧くのです。

しかし、他方では、写真はその他の芸術のような芸術形式は持たないが、彼らが追求する主題を芸術作品に変える特別の機能を持っていると、反論する人もいます。

この写真が持つ特別な機能は、他の全ての芸術を表現し、解説し、統合することが出来ると言う、他の芸術に対して超越した機能なのだと言うのです。と言うことは、写真芸術は、芸術のメタ(超)芸術の地位を占めていると言うのです。

これはある意味で、写真はメディアに変身したと言うことと同じです。メディア論で有名なマーシャル・マクルーハンによれば、メディアは本質的に無内容だそうで、だから今やあらゆる芸術は写真の条件に憧れるのだそうです。

何か狐につままれたような結論になってしまいましたが、これが写真の正体なのです。
(以上) 
 
【2012/11/06 13:30】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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