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写真家と歴史家

批評家スーザン・ソンタグは言います。
「写真家は優れて現代の存在であり、彼の眼を通して「今」が過去になる」と。

写真家が現在を過去にする職業なら、歴史家は過去を現在にする職業です。何故なら、歴史家は過去を現在の目で見るからです。現在の価値観で過去を評価するからです。

例えば、エドワード・ギボンは「ローマ帝国衰亡史」の著者として有名ですが、何故ギボンはローマの衰亡史を書いて、ローマの通史を書かなかったかと問えば、彼は帝国の滅亡を好ましいことと考えていたからだと言います。何故帝国の滅亡を望ましいかと問えば、現代人にとって民主主義が望ましいからです。

現代人にとって、帝国とは独裁国家であり、現代の普遍的価値観である民主主義とは相容れないものであり、それは滅亡することが望ましいからです。帝国を悪とみなす者は、帝国の隆盛よりも没落の探求に情熱を傾けます。

写真家は現在を過去にすると言っても、歴史家の手法に倣って、過去の価値観で現在を見ようとしているわけではありません。現在存在するものの中から将来になっても価値あるものは何かと考えて撮影するのです。ですからスーザン・ソンタグの表現は一ひねりして、裏返して言っているのです。

写真家は「今」を過去にしようとするのではなく、「今」を将来に残そうとしているのです。木村伊兵衛が「五十年、百年後に見られるような写真を撮りたい」と言ったとは、既に述べました(「木村伊兵衛の写真」2006.6.12)。

毎日本屋の店先に現れる新刊本は夥しい数に上ります。著者は、今だけでなく将来も読まれることを期待して書いている筈です。しかし、それらの内、現代でも読むに値する本はそれ程多くありませんが、古典のように五百年、千年の後に読まれる本は絶無でしょう。人間の知恵は既に出尽くしていると言われますから。

しかし、写真は違います。写真は事実の記録(ドキュメンタリー性)という強みを持ちます。想像や思索による作り物ではない強みを持ちます。それ故に、将来の価値を見抜く力が写真家にあれば、五十年、百年後になって見るに値する作品を作れます。

ウジェーヌ・アジェは「芸術家のための資料」と称してパリの街を撮り続けた写真家です。アジェの写真には、技巧も作為もありません。パリの街を正面から見据えて撮っています。それらは時代を超越した写真です。

20世紀半ばになってマン・レイがアジェの写真を評価して雑誌に載せたとき、「これは単なる資料に過ぎないから」と言って、自分の名前を出すことを断ったと言います。

アジェは自分の写真を単なる資料と思っていたのでしょうか。本当は、自分の写真の価値を理解していて、逆説を述べたのでしょうか。どちらでも良いことです。アジェの写真はパリの街の実存を捉えていることに変わりはないのですから。
(以上)
【2007/05/26 22:27】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
宗教観と日本的デザイン

デザインに国籍はありませんが、民族性はあります。情報化時代になり、デザインはグローバル化していると言っても、デザインには民族の個性が出ています。

海外からみると日本のデザインは簡素であると言われます。色彩は淡泊であると言われます。簡素で淡泊という日本人の個性は何もデザインだけに限ったわけではありません。衣食住のあらゆる面でその特性は現れています。デザインはその特性の一部を表現したのです。

デザインの根源的なルーツを求めれば、民族が生きてきた自然と、民族が受け継いできた神話、宗教、習俗、言語などに行き当たります。デザインとして形が現れる過程で、日本人が長年、精神的に育んできたものが、生理的に身につけてきたものが、入り込んでくるのだと思います。

日本にとっての近代化は西欧化でしたから、機械文明は勿論のこと文芸・芸術の文化の面まで、日本人は西欧のコピーを試みましたが、西欧精神までコピーしませんでした。コピーできなかったと言うのが正確でしょう。日本文化は日本精神が生み出したものであり、日本人を廃業しなければ西欧精神をコピー出来ないからです。

日本文化が西欧文化と際だって異なるところは、宗教観にあると思います。日本では至る所に神々が存在します。西欧の一神教に対して日本の宗教は多神教と言われますが、日本の特徴は単に神の数が多いという意味ではなく、この世の全ての物質の存在には神が宿っているとの信仰です。

この宗教観はアニミズムと言われて、一神教の信者たちはアニミズムを未発達の宗教として低く見ます。一神教がアニミズムから進化したと言うならアニムズムを低く見るのも分かりますが、一神教は砂漠の民が生み出した宗教であってアニミズムとはルーツが違います。

また、アニミズムは日本だけの独占物ではありません。今でもイスラム教以外の東南アジアの諸国ではアニミズムは健在です。キリスト教がヨーロッパに広がるまではヨーロッパ諸国も大半はアニミズムの世界でした。キリスト教化される前のゲルマン民族は部族ごとに祖先崇拝の宗教があり、多神教の世界でした。

一神教であるキリスト教やイスラム教がアニミズムを未発達の宗教と見る姿勢には、多神教であったローマ人とゲルマン人を次々と教化した歴史の記憶がなせる業なのかも知れません。それでは、長年の布教にも拘わらず、東アジアで一神教が普及しないのは、一神教の限界を示すものと見てよいのです。

宗教観を離れて世界観としても日本は西欧と基本的に異なります。西欧文明の祖であるギリシャ文明は人間と自然とを二つに分けて二元論で世界を見ます。しかし、古代から日本人は人間を自然の一部とみなす世界観を持っています。これは、精神と物質を分離せず、一体化したものと見るアニミズムの思想に通じます。

この思想は、近代的な工業化社会でも変わりません。ロボットに人格を与え、自動車のお祓いを真剣に行い、近代的超高層ビルの基礎工事では地鎮祭が行われます。神々は現代でも工業製品に宿り、都市の各地に出現し活躍しています。

このような思想や信条がデザインに現れない筈はありません。デザイナーは知らず知らずの内に聖なる神々と一体となり、造形の新しい扉を開いていきます。意匠的なデザインでは長い伝統のある欧米には敵わないけれども、物神性に根ざしたデザインでは欧米には負けないデザインを生み出すでしょう。嘗て、グッドデザイン賞を獲得したサントリーの「青いバラ」は生物そのものをデザインとした一例です。
(以上)
【2007/05/20 19:32】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
色彩だけのデザイン
携帯電話売り場-02D 0706qtc


電話会社を変えても従来の電話番号を引き継げるという制度(番号持ち運び制度)が発足して、携帯電話会社の間で顧客争奪戦は激しくなっています。その影響もあってか、携帯電話の普及率も大いに上がっています。

電話の料金と機能は、電話会社の間に余り差はありませんから、差別を付けるのは電話機のデザインとなります。デザインと言っても、携帯電話の場合は服装や自動車のように形の選択肢が豊富でありませんから、色々な形を考案する余地は少ないです。

そこで色彩が力を発揮します。電話会社のソフトバンクは、今年の春、同一機種で20色の電話機を発売しました。他の会社が3~4色なのに対し、一気にその数倍の色違いの携帯電話機を市場に出したのです。他人とは差別化したいと言う消費者心理を狙ったものです。

この手の色彩差別化の戦術は、既にユニクロが衣料品で成功させています。ソフトバンクの色彩デザイン作戦は、その意味では二番煎じでしたが、他の電話会社の虚を突いたものでした。ただその当時、ソフトバンクは宣伝した料金体系に欺瞞があるとの批判を受けて、折角のデザイン戦術もソフトバンクの売上げに余り貢献しなかったようです。

最近、iPod が、ソフトバンクの色彩デザイン戦術を真似して、色彩だけのデザインで売り込む作戦を始めています。機能や形態で開拓が行き詰まった成熟市場は「色」で攻めろと言うわけでしょう。これからも色々の製品分野で色彩だけのデザイン競争が続くと思います。

多様な色彩の同一機種が店頭に並んでいるのを見ると、パステルカラーを見るようで誠に美しいものです。中間色の連続にはグラデーション効果があるからです。しかし、人々はその内の一つを持つわけですから、グラデーション効果は店頭に並んでいる時だけです。

そして、人には好みがありますから、カラーによって売れ残りが生じます。売れ残りは当然生産コストに加算されます。ユニクロ、ソフトバンク、iPod がカラーデザインを継続しているところを見ると、十分採算が取れているのでしょう。

色彩は流行の先行指標と言われます。そして流行を予測することは難しいことです。彼らは、多くの弾を撃って命中する色をいち早く知ろうとしているのかも知れません。人々の感性に訴える力は、形態よりも色彩にあります。色彩デザインの競争は、今後も激しくなるばかりです。
(以上)
【2007/05/13 15:56】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真における影の魅力
庭を見る少女-01P 04tc
影とシルエットを同時に写したので
想像の働く余地は少なくなりました。

                 落葉-01P 94tc
                 秋の夕日は人の心を写します。

                               六本木通り-01N 03tc
                               影踏鬼の気持ちで街を歩きます。


影絵というとバリ島の影絵芝居を思い出します。影絵芝居ではヒンドゥーの叙事詩「ラーマヤナ」の話を演ずるのですが、影絵芝居で使われる影絵人形が、どれも独特の形をしていて興味をそそります。

バリの影絵人形は、何よりもデフォルメが卓越しています。デフォルメは人形の個性を誇張していますから、これが輪郭だけの影絵となると、更にデフォルメの効果は高まります。ガムランの音楽に合わせて演ずるバリの影絵芝居は、見る人を幻想の世界に誘います。

プラトンは言います。現実の世界はイデアの影であると。またニーチェは言います。思想は感性の影だと。私達にはイデアや感性は直接見えませんから、その影から判断するしかありません。影は人の想像力に働きかけてイデアや感性に迫りますが、他方では人を幻想の世界にも誘います。

影は実体から離れた分身であると考える思想があります。シューベルトの歌曲に「ドッペル・ゲンガー」(影法師)という歌があります。自分の不幸を象徴する自分の影と共に何処までも歩こうという歌詞です。

子供の頃遊んだゲームに影踏鬼(かげふみおに)と言う鬼ごっこ遊びがありました。影を自分の分身とするゲームですが、子供の遊びにしては知的に洗練された感じがします。影が持つ不思議な魅力の所為でしょうか?

光と影を撮る写真では、影が極めて大事です。影が死んでいる写真は面白くありません。影を生かすと実物も生きてきます。影だけで実物を想像させる写真は、尚良いものです。プラトンやニーチェの理論は、写真に生かされています。

以前、このブログにおいて、シルエットは写真表現にアクセントやリズムを与えると言いました(シルエットの表現 06.07.31)。ここで言う影は、シルエットではありませんが、影もシルエットと同じ効果を持っています。影の使い方で写真は生き生きしてきます。

稚拙な作例ですが、影を主題にした私の写真を上に掲げました。
(以上)
【2007/05/08 14:33】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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