名古屋市の近郊に窯業が盛んな瀬戸市があります。セトモノとは瀬戸地方で作られた焼き物という意味でしたが、今では焼き物の普通名詞になりました。瀬戸地方では古代から焼き物が盛んだったようですが、釉薬(うわぐすり)をかけた現在の陶磁器(瀬戸焼)は、鎌倉初期に宋で学んだ陶工によって瀬戸の地にもたらされたと言われています。
中国や朝鮮から日本に入ってきた焼物産業は、瀬戸以外でも日本各地で盛んになりましたが、実用品の焼き物が、見た目の美しさで珍重されるようになるのは茶の湯の世界でした。実用品であると同時に芸術品としての陶磁器は、茶の湯の世界で発達します。
茶器の世界では、初期の頃は中世支那から輸入した唐物(からもの)が珍重されましたが、その後日本で発達した独自の茶器が各地で作られます。茶器の世界では萩焼、信楽焼、唐津焼が珍重され、一萩、二楽、三唐津などといわれました。
こうして日本の焼物技術は独自の芸術世界を築きましたが、唐物を珍重していた戦国時代に大変面白いエピソードがあります。千利休が愛用した(現在国宝になっている)茶器の一つは、嘗て朝鮮の農家で使われていたご飯茶碗(高麗の井戸茶碗と云います)であったそうです。
その真偽の程は分かりませんが、たとえそうであってもその茶器の国宝としての価値は変わりません。焼き物を作る技術と、焼き物を鑑賞する能力とは別物だからです。芸術家だけが芸術品を作れるというわけでもなく、また豚に真珠という諺があるように、眼前の美術品の価値が分からない人も多いのです。
19世紀に「アーツ・アンド・クラフト」運動でデザインから生活様式を変えていこうとしたウイリアム・モリスは、工芸と芸術を区別することを嫌い、生活用品を作る実用技術にも美的な評価を与えたことで有名です。
日本でも20世紀早くに同じことを柳宗悦が民芸運動の中で行いました。美術史家が正当に評価してこなかった無名の職人達の工芸品に美を発見し、民衆芸術品(民芸品)として世間に紹介しました。
柳宗悦と会い民芸運動に参加した陶芸家の河井寛次郎は「暮らしの中から美を見つけ出す」「民芸品の有名は無名に勝てない」「暮らしの中の「用」の美に魅せられた」などの名言を吐いています。
セトモノの里、瀬戸市は、有田、備前、九谷のように藝術陶芸品を創り出しませんが、大衆食器の地味な瀬戸焼に特化して大衆の用に応えています。写真は、浅草合羽橋道具街の瀬戸物問屋でセトモノを物色しているお客さん達です。 (以上)
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花道(はなみち)とは、歌舞伎の舞台装置の一つを云い、舞台から客席をよぎり舞台の反対側の楽屋裏(鳥家という)へ至る通路です。歌舞伎役者が舞台へ出るとき、舞台から退くとき、演技する華々しくも重要な場所です。
相撲でも歌舞伎の「花道」を借用して、力士が勝負に勝って土俵から退くときの道を花道といいます。更に転用されて、会社の社長さんが業績を上げて退任するとき「花道」を飾って辞めると云います。今では「花道」とは華々しく見送られる場所となりました。
さて、ここに掲げた写真は、そのいずれの「花道」でもありません。華々しく咲いた桜の花びらが落ちて、道を白く染めた「花道」です。
この「花道」は、美しく静かな優雅さに満ちています。幽玄の世界へ導かれる思いがします。「願はくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」と歌った西行法師が歩んで往った道はこのような花道だったでしょう。 (以上)
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これも旧い話ですが、江戸時代から続く珍しい商売が昭和30年代の東京に未だ残っていた話です。
江戸時代に喫煙の習慣が始まると、下町に煙管(キセル)を修理する行商人のラウ屋が出現しましたが、そのラウ屋が戦後の昭和にも修理器具を備えた屋台車を曳いて営業していました。
煙管で煙草を吸っていると管の中に脂(やに)が溜まり吸いにくくなります。ラウ屋はその脂を取り除くのが仕事です。煙管の吸口と雁首との間にある竹の管を新しいのに取り替え、吸口と雁首の内側の脂を蒸気で溶かし掃除します。取り替える竹の管はラオスから輸入していましたので、修理屋の名前がラオ屋になった次第です。
今では煙草は殆ど両切りの紙たばこですが、昔は煙草の葉を刻んだキザミという煙草が売られていて、これを指で小さく丸めて煙管の口に詰め込み吸いました。今でも歌舞伎や時代劇で、旦那や女将さんが長火鉢の脇で煙管をふかす様を舞台で見ることがありますが、両切りの紙たばこを口にくわえるより、ずっと粋な姿です。
ところで汽車や電車の不正乗車する方法に嘗て「キセル」と称する方法がありました。改札を入るときの一区間と出るときの一区間だけカネ(煙管の金属部分)を払い、中間を無賃乗車する方法でしたが、今はスイカやパスモの時代なので「キセル」は出来ず「キセル」という言葉も消えました。
もう60年以上も前、梅が咲く頃、湯島天神で営業しているラウ屋さんを見かけました。時々、煙管の掃除用の蒸気で汽笛を鳴らして存在を周囲に知らせていたので気付きました。甘酒で一服しているラウ屋さんの屋台の箱には沢山の煙管が並んでいました。その当時でも既に珍しい姿でしたので写真に収めておきました。 (以上)
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写真1 青函連絡船の甲板にて
写真2 青函連絡船岸壁跡
人間は忘れ易い動物です。過去の事柄はどんどん忘れていき、昔のことは余程印象的なことでなければ思い出しません。
しかし、過去の一枚の写真は、瞬時にそれに纏わる忘れていた感情を思い起こさせてくれます。この写真は60年程前の昭和35(1960)に青函連絡船に乗ったとき撮影したものです。 (写真1)
三等船室の畳の大部屋で雑魚寝しているのも厭きて甲板に出たところ、船は左右に津軽半島と下北半島を見ながら津軽海峡に出るところでした。空は晴れていましたが、連絡船の甲板は薄暗くなる位濃い煙に覆われていました。振り返ると四本の煙突が黒煙を濛々と吐き出しています。
この青函連絡船は、数時間かけて青森から函館まで黒煙を吐きながら航海していきます。台風で沈没した悲劇の洞爺丸よりもずっと古い型の船でした。
当時は蒸気機関車が普通でしたから汽車の煙には慣れていましたが、油臭い汽船の煙に巻かれたのは初めてでした。夕方の陸奥湾を眺めながら、何処か遠い国へ旅立つような心細い気持ちになりました。この煙突の煙は、その匂いを思い出させ、当時の心細い気持ちを甦らせるのです。
写真は、ある時の、ある所の、ある状況を記録に留めます。一枚の写真の伝える内容は時間的にも場所的にも一部に過ぎませんが、時には多くの言葉で語るよりも雄弁です。
リアリズム文学のモウパッサンが数十ページの文章で部屋の状況を事細かく描写するところを、写真は一枚で語り尽します。更に文章では描けない部屋にあるベッドや机椅子のディテールまで写真は描写します。
文章では想像力を働かせて思い出を自由に表現できますが、写真は限定された過去の記録を提示するだけで、後は見る人の想像力に任せるのです。写真は歴史の記録者でありながら、過去を現在に甦らせる不思議な力があります。 (以上)
(追録) 青森港の外れに青函連絡船の船着き場跡が保存されています。連絡船だけでなく、列車が船に乗り込んだとき使った港側のレールも残してあります。連絡船と云えば人間を運ぶものであり、カーフェリーは自動車を運ぶものですが、青函連絡船は、青森駅と函館駅を結ぶ「列車」を運ぶ船として運行され、鉄道連絡船と云われました。そして青函トンネルが完成した昭和63年(1988)に青函連絡船は運行を終了しました。
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「サイタ サイタ サクラガ サイタ」は戦前の小学校一年生の国語の教科書にある文章です。昭和8年より昭和13年までの間に発行された、サクラ読本と言われた「小學国語讀本」の冒頭にある文章です。
日本語は動詞が語順の最後に来るので、西欧や中国の言葉のように韻を踏むことは容易ではありません。そこで韻を踏む代わり発音語数でリズムをとる詩歌が発達しました。短歌(五、七、五、七、七)や俳句(五、七、五)です。
サイタ サイタ サクラガ サイタは短歌でも俳句でもありませんが、三、三、四、三と発音語数でリズムをとりながら且つ韻を踏んでいます。小学生にも憶えやすい文章です。以前の国語教科書では導入部は単語でしたが、サクラ読本では文章から教えるようになりました。
それを絵にした写真が目黒川の橋の上で撮れました。 (以上)
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