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スポットライトの効果
伊豆東海岸-01P 89t
写真1

                    隅田川:建物-03P 02c
                    写真2

                                   犀川-02P 85t
                                   写真3

社会や政治の世界で人々に特定の問題に関心を持たせるとき、その問題にスポットライトを当てると言います。世の中には沢山の問題があり、人それぞれに関心の向け方が違いますから、大勢の人々に特定の問題へ関心を集中して貰うには、それを大きく取出して報じることが大事だからです。

スポットライトとは、劇場などで特定の演技者をクローズアップするとき、その演技者だけを照らす照明灯のことです。周囲の照明を落としてスポットライトを当てますから、観客は否応なくその演技者に注目します。スポットライトは、観客にこの演技者を見よ、とのシグナルです。

一枚の風景写真を見るとき、人は先ず明るい所に目をやります。それから逐次周囲を見ます。これは明るいところが目を強く刺激するからです。従って、写真撮影では明るいところ、陽の当たっているところに主題を置くのが基本です。これはスポットライトの原理です。

太陽は万物に平等に光を与えますが、地上では陽が当たるところと当たらない所が生じます。主題を強調するには、主題に陽が当たり、それ以外には余り陽が当たらない情景を選べば良いのですが、そのように好ましい情況を見つけるのは難しいものです。

スポットライトと言うと、ついつい天井から光の束が降って来て、或る一ヶ所を照らすことを想像しますから、眼前の光景に広く光の束が降っていると、空が黒い雲に覆われていても、これがスポットライト現象だと気付かないことがあります。

写真1はスポットライトを遠くから見たもの、写真2、3はスポットライトの中に入って見たものです。スポットライトの中に入っていた時は、眼前の風景が鮮明で強烈だったことを憶えていますが、これがスポットライト現象とは思いませんでした。
(以上)
【2008/01/31 12:25】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
赤と黒は相性がいい
つつじと樹木-08Pqt
写真1
                    隅田川:オブジェ-20P 03t
                    写真2
                                 旧古河庭園-25D 0712qtc
                                 写真3

写真の主流がカラー写真になって久しいですが、モノクロ写真を愛好する人達も多いです。モノクロ写真では、カラーが白黒に変換するとき色の種類によって白黒の濃淡が変化しますが、それを予め知る必要がありますから、カラー写真より難しいと思います。

しかし、カラー写真も、色と色との関係を知り、一つのフレームの中に夫々の色をどの位の割合で収めるかと言う判断が必要ですから、モノクロ写真とは別の難しさがあります。

ご存じのように色には補色関係があり、正反対の色を組合わせると互いに色の効果を高めます。ゴッホの絵「夜のカフェテラス」は空の紫色とカフェテラスの電灯の黄色を組合わせ、更に路上の敷石に反映する電灯の黄色と敷石の紫色をも組合わせ、二重の補色調和を使って深みのある夜の街を鮮やかに描いています。

和歌で「あおによし」とは奈良にかかる枕詞ですが、「あお」は緑色、「に」は赤色を意味します。緑と赤は補色関係にあり、緑と赤の組合せは奈良の都を美しく見せた色でした。確かに森の中の神社は補色調和の取れた風景です。新緑の中の赤い花が一段と美しく見えるのも補色の効果でしょう。(写真1)

スタンダールの小説「赤と黒」では、軍人を赤で、聖職者を黒で現して両者を対照しましたが、色彩としての赤と黒は、不思議な対照の魅力があります。赤と黒は、色彩としては補色関係にありませんが、その対比を見ると人は心の深いところを刺激されます。

赤い色は血液の色であり生命のしるしです。赤い色は本能的な情念を現す色です。他方、黒い色は心の躍動を沈静化し、全てを吸収して闇へ消し去る恐ろしさがあります。

生命の発露としての赤と、生命の終焉としての黒は対立した色ですが、二つの色は生命の現象を表象する色です。赤と黒を組合わせた色彩には、生命の神秘が潜んでいると同時に、死を予感させるものがあります。(写真2、3)

人はよく黒い着物の下に真っ赤な襦袢を着たり、黒のコートに赤の裏地を張ったりしますが、この二つの色の組合せには不思議な色気を感じます。生と死の対比から根源的なエロティシズムが発散するからです。

写真を撮るとき、自然や人工物の持つ色に注目して、補色関係や対立関係を意図的に取り入れると思わぬ発見があります。
(以上)
【2008/01/25 18:59】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真には悲しみがある
ウインドサーフィン-01PAtc

                                 埋立地-01PAc

浜の模様-07P 87q

                              海辺-16P 96c

写真は失われた過去の記録です。失ったものに哀惜の情が深ければ写真を見て悲しみが湧いてきます。それ故、多くの写真は悲しみを含んでいます。そのことは、近親者や友人で他界した人の写真を見るとき誰も逃れることは出来ません。

写真の悲しみは失われた風景にもつきまといます。風景も時と共に変わって止みませんが、昔の風景は哀惜の対象となります。昔の風景を写真で見ると悲しみに似たものが湧いてくることがあります。

お台場は、江戸城の地先の海に造られた砲台跡地です。鎖国時代に開国を迫るアメリカは、江戸湾の奥深く黒船を進入させ、大砲で江戸城を撃つと脅かしました。驚いた徳川幕府は海の中に堡塁を築き大砲を据え防備に当たりました。

東京の都市が発展するにつれて、お台場周辺の海辺は産業用地に転用され、数個あった砲台の堡塁は海上交通の邪魔だと取り除かれました。

今あるお台場はその残塁です。一つは野鳥のサンクチャリーとして残されましたが、もう一つは陸地と繋げて一大レジャーランドに変貌しました。そこにショッピングとレストランの総合ビルが幾つも建ちました。

現在のお台場の先端は、昔は小さな小さな孤島でした。海風と太陽の光が溢れるところでした。そこは東京という大都会の直ぐ目と鼻の先にありながら、都会とは異質の空間でした。現在のように、都会と同じ模様に塗替えるにはもったいない個性的な空間でした。

金太郎飴のように、何処を切っても同じパターンの総合ビルを何棟もお台場に建設するとは、余りに構想力が貧弱でした。この地に相応しい風景にしようと計画が練られた形跡はありませんでした。お台場を歴史的遺産として残そうとする議論も聞きませんでした。

それだけに失われた悲しみは深いのです。お台場が未だ堡塁の姿を留めていた頃の写真を掲げて、在りし日のお台場を偲びます。
(以上)
【2008/01/19 12:34】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
函館の教会建築
雪景色-16P 01hr
写真1

       教会建物-26P 98c(聖ハリストス正教会)
       写真2

              雪の教会-02P 01hr(聖ハリストス正教会)
              写真3

                         教会建物-12P 99tc(カトリック元町教会)
                         写真4

                         教会夜景-01P 98c(カトリック元町教会)
                         写真5

                                教会建物-16P 98c(聖ヨハネ教会)
                              写真6

                                      教会建物-11P 00c(聖ヨハネ教会)
                                      写真7

日本でのキリスト教の布教活動は戦国時代から続けられていましたが、鎖国政策で認められず、まして布教のための教会建設は不可能でした。しかし、明治の開国と同時にキリスト教各派は一斉に日本進出を図り、各地に教会や関連教育施設を建て始めます。

先ず、横浜にカトリックが聖心教会(1862)、長崎に大浦天主堂(1865)を建設しました。次いで、プロテスタントは、札幌バンド、横浜バンド、熊本バンドという団体を作り、日本基督教会、日本組合基督教会、日本聖公会、日本メソヂスト教会などを結成して各地で教会建設を始めます。

ほぼ時を同じくして、ロシア正教会も日本布教に乗出し、函館領事館付き修道司祭を派遣し、暫くして東京神田に壮大なニコライ堂(1891)を建築しました。

日本全国の中で教会建築の数の多さが目立つのは、開国の先陣を切った函館、横浜、長崎であり、中でもキリスト教各宗派が競って教会を建てたのは函館でした。それも函館市の一廓に集中しているため、教会団地を形成しています。(写真1)

日本の社寺の建築は宗派によってその様式が異なったり、時代によって変わったりしません。しかし、キリスト教会の建築様式は、伝播した国や民族により異なったり、時代により変わります。中世まではゴティック様式に統一されていましたが、近代に入るとその様式はアールデコからモダニズムまで広がりを持ちます。

函館に進出したキリスト教の各派は、教会を夫々の建築様式で建てています。函館山の麓で、個性のある各宗派の教会がデザインを競っているようです。お陰で今ではそれらの教会群が函館の観光地になっています。

函館でその容姿の優雅さで人気があるのはロシア正教の聖ハリストス正教会です。タマネギ型の塔を幾つも備え、ロシア・ビザンチン様式の教会は白と緑のツートン・カラーで鮮やかです。(写真2、3)

カトリック元町教会は最初にフランスの宣教師が建てましたが、消失して再建されたのが尖塔のあるゴシック様式の教会です。重厚な造りのライトアップが美しいカトリックの教会です。(写真4、5)

聖ヨハネ教会は、イギリスの宣教師によって建てられ、これも消失後、建替えられたものです。日本聖公会に所属するプロテスタントの教会で、上空から見ると十字架の形になるモダンなデザインの教会です。(写真6、7)

函館山へのロープウエイから見下ろすと、狭い地域に仲良く立ち並んでいます。キリスト教の集団進出に脅威を感じた仏教界では、東本願寺が近くに立派な函館別院を建立しています。奇しくも、この地は宗教建築を見学する観光客には最適の土地となりました。
(以上)
【2008/01/12 13:15】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真と絵画 スチーグリッツとオキーフ
枯れ蓮-02D 0711qc


ジョージア・オキーフはアメリカを代表する女流画家です。彼女のクローズ・アップした花の絵と、牛や羊の頭蓋骨の絵は、見る人に強烈な印象を与えます。

花の絵には「二本のカラ・リリー」「紅いカンナ」「ピンク・チューリップ」などがありますが、それらの絵では、花びらの一部を画面一杯に描いています。クローズ・アプしたから必然的に花びらの上下左右が切り落とされます。その切取り方は明らかにカメラのフレーミング手法と同じです。

画家オキーフの才能は、写真家アルフレッド・スティーグリッツに見出されました。スティーグリッツは、記録のメディアと言われていた写真を、アートとしての写真に変えた写真家です。オキーフの画才は、芸術を目指す写真家スティーグリッツの手で世に認められました。

オキーフがクローズ・アップした花の絵は、額縁の枠をはみ出すような構図を取っています。花の美しいところは、ここなのですよと描いたからです。オキーフは言います。
「自分が(美しく)見たように、他人にも見て貰いたい」と。

写真家の写真には、屡々フレームの外側まで想起させる写真があります。被写体の全体を写さなくても、全体を写したのと同じか、或いはそれ以上のものを表現した写真があります。写真家たちは言います。
「自分が発見した美を、他人にも見て貰いたい」と。

スティーグリッツとオキーフは、20歳余の年齢差を越えて結婚します。スティーグリッツは妻オキーフを被写体にした連作を発表して名声を博しますが、それは偶々被写体が良かったからだと批評されて、その後、雲をモティーフにした連作を発表して絶賛を浴び、その批評に応えました。

オキーフは、夫の死後ニューメキシコに居を移して、砂漠で死んだ動物たちの骨をモチーフとした絵を描きます。オキーフは「砂漠では骨が花開く」とまで言っています。オキーフにとって花も骨も生命の証(あかし)であったのでしょう。

ユング心理学に学んだ臨床心理学者の河合隼雄氏は、死について次のように言っています。
「生きている人間と対話する時より、死んだ人間と対話する時の方がリアリティがある。死には普遍性があるから、死を直視する現場に立合うことは大切である」と。

また、ノーベル文学賞を受賞した川端康成は、晩年、親しい人々の死を知らされると訪ねていって、死せる人と無言で長時間対面していたそうです。川端康成は死の中に本当の生を見出そうとしていたのでしょう。

オキーフは、死せる動物の骨に生命の源を発見したのです。彼女の代表作「雄牛の頭とタチアオイ」は中空に浮く骨と花を描いて、抽象的モンタージュ写真を想わせます。

写真を撮っていて、枯れ果てた植物にも造形の美を発見することがあります。オキーフへの讃辞を台無しにすることを恐れず、晩秋の蓮田の写真を掲げます。
(以上)


                                   枯れ蓮-01D 0711qc

【2008/01/06 10:48】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
江戸城と大阪城の石垣
皇居の濠-01P 06qc
写真1 江戸城の石垣

                   大阪城:石垣-02D 0710qc
                   写真2 大阪城の石垣

                                  大阪城:石垣-09D 0710qc
                                  写真3 大阪城の石垣

石垣部分-07P 92q
写真4 江戸城の緻密な石積

                   大阪城周辺-02D 07010qt
                    写真5 大阪城の大手門の巨石

                                  石垣-37P 96qtc
                                  写真6 江戸城の天守閣の基石

西欧や中国では領土や街を外敵の攻撃から守るため城は築かれました。しかし、日本の城は戦う武装集団の根拠地を守るために築かれました。

天下を制した豊臣秀吉の大阪城と徳川家康の江戸城は、ともに日本全国を支配する軍事的拠点として築かれたものです。大阪城は戦火で、江戸城は火事で、いずれも天守閣を焼失しました。大阪城の天守閣は市民の力で復興しましたが、江戸城の方は天守閣の土台だけです。

しかし、両方の城の城壁は往時のまま残っています。日本全国にある城は、この二つの城に限らず基本的には殆ど同じ形です。戦法と武器が同じで、築城の技術と石工(いしく)を共有しており、築城の材料が似ていれば、同じような城壁が生まれるのは自然です。

ここでは、軍事的観点よりも美的観点から江戸城と大阪城の城壁を眺めてみたいと思います。

基本的には江戸城も大阪城も、その城壁は殆ど同じに見えます。それは無理からぬことで、豊臣が築いた大阪城は、後の支配者である徳川によって、徳川の威光を高めようと豊臣の記憶を消す改築が施されたからです。

濠を囲む石垣は、江戸城も大阪城も共にやや乱雑な造りです。個々の石の大きさは区々であり、石垣にも隙間があります。また、武者返しの反りも熊本城のように強くありません。濠を越えてくる敵兵は、これで十分に防御できたのでしょう。

これらは近づいてみると余り美しいものではありませんが、遠くから全貌を見て、塀や櫓や門と組み合わせた景色は優雅に見えます。大砲という火器を持たなかった日本では、西欧や中国のような、大きくて頑丈で無骨な城は要らなかったのでしょう。(写真1.2.3)

しかし、城の外側でなく、城内の石垣になりますと、かなり装飾的石垣を見ることが出来ます。平時に出入りする門の石積や、常時利用する城内の建造物などの基礎の石積は、緻密に積み上げられているものが残っています。(写真4)

南米インカ帝国の、巨大にして精密な石の加工技術には及びませんが、隙間のない石垣の擁壁や建築基礎は、江戸城の方に多く残っています。このような装飾的石垣は、戦火で破壊される前には、多分、大阪城にもあったと思われます。大阪城の大手門は巨大で緻密な石垣です。(写真5)

また、石垣の色彩にも工夫がこらされています。江戸城の天守閣の土台は、石の色違いを巧みに組み合わせて、一松模様をみるかのようです。それは天守閣が存在しないだけ目立つのかも知れません。(写真6)
(以上)
【2008/01/01 11:16】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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