私達は写真を撮るとき美しい物を美しく撮ろうとしますが、写真評論で有名なスーザン・ソンタグは「美しいものを撮ることは写真にとって必ずしも大事なことではない」と言います。(スーザン・ソンタグ「写真論」)
その一例として、アメリカの写真家エドワード・ウェストンの造形美を求めた写真を例に挙げます。ウェストンは、20世紀に静物写真(貝殻、野菜など)で人々の気付かないフォルムの美を捉えて有名になりましたが、やがて人々の関心は19世紀半ばのフランスの写真家ウジェーヌ・アッジェが撮ったパリの町の平凡な風景写真に心惹かれるようになったと言うのです。 しかし二つの写真を比べてみれば、美はウェストンにあり、アッジェにはありません。にも拘わらず人々の興味は何故ウェストンからアッジェに移っていったのでしょうか? ソンタグは19世紀に撮った日常的な街角の写真の方が、20世紀に撮った造形美の写真よりも人々の心を捉えるのは何故かという問いには答えず次のように言います。 「カメラは個人色のない、客観的な映像を与えるという仮定は、写真はそこにあるものだけでなく、どの個人が見るかということの証拠であり、ただの記録ではなく、世界の評価であるという事実に道を譲ることになった。」と。 回りくどい表現ですが、要は写真というものは客観的な事物の単なる描写ではなく、写真家の目で評価された事物の表現であるということです。 そうであれば、エドワード・ウェストンが静物の造形美を評価して表現した写真も、ウジェーヌ・アッジェが写真に切り取ったパリの街角の写真も、同等の価値を持つということになります。そこから、美しいか否かは写真にとって本質的なものではないと結論を引き出すのです。 しかし、そこまででは何故ウェストンの美の評価からアッジェの事実の評価へ人々の関心が移って行ったかは未だ説明されていません。 写真だけが持ち、他の芸術が持っていない特性は記録性(ドキュメンタリー)にあります。写真は譬え事物の一面や一部であっても、それを有りのまま記録したという特性があります。この記録性について、ウェストンとアッジェの間には決定的な違いがあります。 ウェストンは自然物を、アッジェは人工物を被写体に選んだところに違いがあるのです。そしてウェストンの自然物は時間の経過により変化するものではありませんでしたが、アッジェの人工物は時間の経過と共に変化するものでした。 木村伊兵衛は、周囲の日常的な情景をさりげなく撮影しながら「五十年、百年後に見られるような写真を撮りたい」と云ったそうです。 そして東京の街を撮り続けました。ウジェーヌ・アッジェのパリの写真は、五十年、百年後に見ると人々の心を惹き付ける写真なのです。 (以上) |
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