今までは動画(movie)は映画として専ら職業的専門家が取り扱うものでしたが、コンパクトカメラに動画機能が付くと、素人でも簡単に動画を撮ることが出来るようになりました。ネット上で動画サイトの YouTube の人気が高いのは、静止画(still)と較べて動画の方が説明能力に優れているからです。
しかし、宗教哲学者の中沢新一氏は、映画(movie)は遊牧民の精神であるが、写真(still)は狩猟民の精神であると言い、スチル写真の優れた点を指摘しました。この喩え話は動画と静止画の違いを巧みに捉えた表現です。 ここで重要な指摘は、静止画の撮影を狩人の射撃に喩えた点です。狩人は生きている動物の生命の流れをを止めるように、写真家は被写体に流れる時間を止めるのです。このことを評論家スーザン・ソンタク氏は次のような表現で述べています。 「写真を撮る行為には何か略奪的なものがある。・・・ちょうどカメラが銃の昇華であるのと同じで、だれかを撮影することは昇華された殺人、悲し気でおびえた時代にはふさわしい、ソフトな殺人なのである。」(「写真論」) 中沢新一氏は、動物写真家の岩合光昭氏との対談で次のように云い、静止画は動画よりも濃い内容を持つと考えています。 「狩猟民は、死を仲立ちにして生き物と渡り合って、ショットによって相手に自分を関係づける。・・・カメラマンは、動物を殺しましませんけど、動いていくものを瞬間的にカシャッととめていく。」 このことをソンタグに云わせれば、「写真は時間の明解な薄片であって流れではないから、動く映像よりは記憶に留められるといえよう。」となります。動画は撮影後もなお動き続けているイメージですが、静止画は撮影後は死の形見となります。それは狩人にとって、獲物が格闘の結果の形見であるのと同じです。 これが静止画と動画とを根本的に違いなのです。 (以上) |
「太陽と死はじっと見つめることができない」とはフランスのモラリスト、ラ・ロシュフコーの言った言葉ですが、ノーベル文学賞作家川端康成は、友人や知人の葬儀に参列すると、死者の顔をじっと見つめ、暫くその場を立ち去らなかったと言われます。
それは他者の死であって自分の死ではないから当たり前と云ってしまえばそれまでで、川端の意図は分かりません。それでは親しかった人の死顔をじっと見つめる川端康成は何を見ていたのでしょうか。 その理由は、幼いときに両親を亡くし祖父母に育てられた孤独な生い立ちと、そしてノーベル賞受賞記念講演で語った「美しい日本の私」の中に、それを見出す鍵があるように思います。 川端康成の名作「雪国」は「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」で始まります。 長いトンネルはこの世とあの世の境界線であり、その後の物語はあの世のことを暗示しています。後に川端自身が「雪国」はあの世のことを書いたと言っています。 日本人の生活は常に自然に深く結びつき、その自然はあの世から続いていると川端は考えていたようです。川端が自然について語るとき、常に自然の向こうにある黄泉の国を見つめていたのではなでしょうか。 古来からの日本人の自然崇拝は、自然に対しての恐怖と言うよりも感謝の念であった思います。その感謝の念は、自然は美しいものと言う感覚を日本人に与えました。文学に現われ国民思想を研究した津田左右吉は、日本人は真・善・美の中で最高の価値を美に与えていたと云います。 川端が「美しい日本」というとき、それは日本の自然は美しいと云うことであり、自分はその美の中に居るとの意識です。 古来日本ではこの世の汚いものは穢らわしいものとして忌み嫌いました。西洋流では罪は懺悔で解消されますが、日本流では穢れは禊ぎで解消されます。不潔は悪であり、汚れていないことが美観の前提条件でした。その意味で美の対極は醜ではなくて悪でした。 一般には死は忌むべきものというのが社会の通念です。死は悪である筈です。しかし川端は、死は人間が自然に還る門出であると見ていたのでしょう。美しい日本は自然の中にあります。その美しい自然に還ることが悪である筈がありません。 川端は死者の顔をじっと見詰めて祝福していたのかも知れません。 (以上) |
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