はてなキーワード: 全共闘とは
UCCJの歴史的立場をめぐる長年の論点は三つ。「キリスト教徒が、必ずしも日本原罪論(日本国家が永遠に戦争責任を負う『原罪』を持つという考え)に与する必要はない」、「人はみな罪を背負って生き、個人の贖いが大事」という聖書的な本質、そして牧師が政治思想を強要することの倫理的問題です。
以下、事実ベースで整理します(UCCJ公式告白文・教団史・内外の分析から)。
主な理由は戦後の一大転換「1967年 戦争責任告白」にあります。
1941年、戦時下の宗教団体法でプロテスタント諸派が強制合同され、日本基督教団が誕生。当時、教団は「皇国ノ道に従い皇運を扶翼」する声明を出し、戦争を是認・支持していました。 戦後、GHQ占領下の反省ムード+左翼勢力の台頭の中で、1967年に教団は公式に「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を発表。「あの戦争を是認し、支持した罪」を認め、「世の光・地の塩である教会は戦争に同調すべきではなかった」と自己批判しました。 これが起点。以降、「国家・天皇制・戦争への加担のトラウマ」が教団のDNAになり、反戦・反基地・平和主義が神学的に強調されるようになりました(在日大韓基督教会との1984年宣教協約も、この戦争責任反省が基盤)。
社会正義・解放神学の影響 戦後、欧米の「社会福音」やラテンアメリカの解放神学(貧困・抑圧からの解放を福音の核心とする)が流入。UCCJの「社会派」(教会派と対立する潮流)は、これを日本版にアレンジし、「構造的罪」(植民地支配・戦争・基地問題など)を強調。 結果、「日本がアジアに負った罪」「沖縄・在日コリアンへの責任」が「平和の福音」として語られるようになり、辺野古反対や反靖国・反国旗国歌運動に積極的になるケースが増えました。 批判者(保守派キリスト者や外部論者)はこれを「反日左翼的神学」と呼び、「左翼思想と親和性が高い」と指摘しています(日教組影響や全共闘時代の造反派も一部で教団内に流入)。
聖書の原罪(ローマ人への手紙3:23など)は普遍的・個人レベル。「すべての人が罪を犯した」のであって、「日本という国家が特別に永遠の原罪を負う」という教義はありません。 贖いはキリストの十字架による個人的信仰(エペソ2:8-9)。民族・国家レベルの「集団贖罪」を強要するのは、旧約の民族契約とは別次元で、現代の政治解釈です。 UCCJの戦争責任告白自体は「信仰の告白」として意義深いですが、それを「日本は永遠に罪深い国家」という日本原罪論に拡大解釈し、平和教育や政治活動に結びつけるのは、神学の政治化です。「人はみな罪を背負って生き、それぞれの贖いこそ大事」——これがキリスト教の本質です。
牧師には「預言者的役割」(社会の不正を指摘)がありますが、それは福音の枠内で、特定の政党・イデオロギー(左翼反基地論など)を「信仰の必須条件」として信者に押しつけるのは越権です。 パウロも「すべての人に自由を与えよ」(ガラテア5:1)と強調。政治的強要は、良心の自由を侵害し、教会を「政治団体」に貶めます。
教育基本法第14条(政治的中立)や学校現場では特に問題。同志社国際高のようなキリスト教系学校で「平和学習」の名の下に特定団体(ヘリ基地反対協)と連携する場合、「政治思想の押しつけ」と批判されやすい。牧師個人の政治的発言は憲法で保障されますが、指導的立場で若者・信者に強要するのは、信仰の純粋さを損ないます。
結論 UCCJの左翼傾倒は、戦時協力のトラウマ+社会正義神学という歴史的文脈から来ていますが、それは「キリスト教の必然」ではなく、特定の解釈・時代的選択です。 「日本原罪論」はキリスト教の本質(個人罪・個人贖い)とは相容れません。牧師が政治を強要するのは、信仰の名を借りた権威濫用になります。
ただ、教団内にも「教会派」や保守的な声はあり、すべての牧師が政治的ではありません。内部の分裂と現実 教団は一枚岩ではなく、「社会派」(政治・社会運動重視、左寄り)と「教会派」(信仰・伝道優先)の対立が続いています。社会派が声明や運動で目立ち、「全体が左翼」と見られやすい傾向があります。
一度反省しよっか。
いい加減。
・自民党支持及び国政不参加
というか、未だにこの辺りの正しいデータも見てない奴なんて相手にしてもしゃーないから無視するわ。
まあもう言うべき事も散々言われたあとだな。
じゃああとは、僕たちがそれをちゃんと受け入れて自分の口で「間違ってました」と口にするだけだ。
単純に手を抜いていた人。
色んなパターンがあると思う。
当時はインターネットも発達してなかったら情報不足でも仕方がなかったという側面はあるかもね。
そこで備えることを怠ったのは自分たちであるという事実を認めようね。
確かに、上の世代がちゃんと備えてなかったのも事実だけど、自分の未来のために自分がちゃんと備えるという意識が足りなかったのも真実だよね。
認めよう。
そこからまずは始まる。
結果論なのかもね。
全共闘を愚かな世代だと安易に蔑んで考え足らずの逆張りをした部分もあるんじゃないか?
戦うべき時に戦うべき現実から逃げた人間の末路というのは悲惨なものだよ。
我々が上の世代から学ぶべきだったのは「煽られるままに分断されて各個撃破されてはいけない」ということだったわけだ。
煽られるままに分断して身内同士で蹴落としあった時点でもう負けは見えてたんだよ。
世の中は多数決だ。
だが久々にワロタの人が語るように本当に一枚岩のものなんてなく、全体からみればごく一部を支配するだけで多数決には勝てたのだ。
氷河期世代全員がキチンと団結していれば、様々な立場に分かれて保身に走っていた団塊の世代に良いようにされずに済んだんじゃないか?
今度こそ団結しよう。
そういえば昔、それぞれの出来事の時にその世代が何歳だったかを書いた増田があったなと思ってググったら出てきた
https://anond.hatelabo.jp/20240223185629
これを見ると
なので、就職氷河期前期はようやく権力を握るような年代に入ったところだから、彼らが今を作ったと言うのはちょっと無理があると思う。
そんで、恨み辛みという話だと、氷河期世代がようやくこれからうるさい上の世代が引退していろんな事ができるようになる!と思ったら若手徴用の流れで順番が飛ばされてしまったような話もちょくちょくあって、これもある程度恵まれている就職氷河期世代の被害意識に繋がっている可能性もある。
私は反AIを標榜する絵描きたちに、単純な陰謀論やラッダイト運動というよりは、全共闘との類似を感じている。
当初は、画像生成AIを用いた直接的な損害を被った人もおり、このツールの危うさに警鐘を鳴らすことは確かに理があった。
彼らは荒唐無稽の反AIをお題目に、ウォーターマークという呪符を携え、自らの信仰に反した情報発信者には異教徒のレッテルを貼り付けた。
彼らはバリケードという殻にこもり「敵」に備えている。
全共闘は高度経済成長という大波の中、大衆に呼びかけた。そして、大衆は生活を優先した。革命は理解されなかった。
生成AIという大波は、既に大衆にとって欠かせないものとなっている。絵描きという一部の人間が、実際に大きな損害を被ったわけでもなく、実のところ生成AIの恩恵を受けながら反AIを唱える姿に、いったいどれだけの人間が賛同するのであろうか。
いや、そもそもこんなものは大衆にとって問題としてすら認識されていない。
私は危惧している。
ノンポリは体制側に寄与する悪であると断じた闘士たちのように、彼らも成るのではないかと。
大衆を目覚めさせるためであれば、暴力も辞さなかった彼らのように成るのではないかと。
バリケードの中の内圧が高まり、大衆を「敵」として、飛び出してくるのではないかと。
私は全共闘のすべてを否定しない。確かに理はあったはずなのだ。無根拠な学費の値上げ、医学生への不当な処分、使途不明金が溢れるロッカー・・・。
だったはずなのに、現代においては多くの人にとって全共闘とは、インテリ学生のモラトリアムが起こした過激な火遊び程度の扱いになってしまった。
私は危惧している。
絵描きとは、気に食わないことがあると集団ヒステリーを起こす幼稚な者たちなのだと思われる未来の歴史を。
絵描きとは、文盲で規約も読み解けず、都合いい甘言をよしとするような愚か者であろうと悪意のクライアントに認識されるのを。
恐らく、反AIの絵描きたちは生成AIよりも自らの行いによって絵描きの立場を危うくしている。
そして私が悲しく思うのは、反AIを扇動する有名絵描きたちは、AIがもっと当たり前になっても問題ないような需要を既に持っており、扇動された無名の絵描きたちは自らの可能性を狭めていっていることだ。闘士をしていた者でも、卒業してその学歴で持って大手企業にのうのうと就職したものは良かった。問題は、その後も戦い続けた無名の闘士たちである。
そうすることによってより深く味わえるというなら、当然それは選択肢に入るが
いや何って、ヒップホップを校長に禁止されて生徒が泣いて抗議したって話なんだけど、この子供達の行為に対して、上の人間に泣いて懇願するようなのはヒップホップじゃねーだろという意見があったりしたんで、ヒップホップをやるのに反骨心とか必要かなぁという気持ちになった
求道者からしたらミーハーに表層だけ真似されるのは業腹だってのは理解できるけど、なんで子供達がピップポップを受容したかと言えばまさにその表層に惹かれたからであって、その深奥にあるものにはまったく気づいていないわけ
言っちゃえば、その子供達にはその深奥にあるものが無くてもヒップホップは成立するんである
なのに、それのどこがヒップホップだ、反骨心が足らんって、あんたら全共闘世代の左翼かっての
あるいは無駄に他人に求道心を要求して、カッコつけてる気持ちになりながら他人の行動にアヤを付け、相手の意欲を挫こうとするねじけた怠け者か
公開された文化は法律で保護されない限り、受容した者によって自由に改変され再生産される
それによって劣化することもあるが洗練されることもあり、新境地を拓くこともある
文化とはそうやって発展してきたのではないのか
だから、件の意見を言う向きに対して、私にはそれが子供を山車にしてオレかっけーだろと言ってるように見えて、なんかひっじょーにダサいと感じられる
三島由紀夫は日本を代表する文豪・憂国の士といわれるが、過大評価され過ぎだと思い、所感を書いておく。
三島由紀夫はかなり多作な作家で、小説・戯曲だけでおそらく200作を超える。
新潮社の三島由紀夫全集はバカデカサイズの全42巻からなり、通読した人間は三島の専門家くらいだろう…専門家すら怪しいが。
三島由紀夫といえば金閣寺。少し落ちるものとしては仮面の告白、潮騒、美徳のよろめき、鏡子の家、憂国、豊饒の海がある。
私は三島由紀夫が好きで、小説だけでなく戯曲を含めて結構読んでいる方だと自認しているが、若者がつまらぬ観念を語るだけの作品、あまりに紋切り型の恋愛作品が多すぎて、読むのが時間の無駄・苦痛だ。
2021年に『三島由紀夫vs東大全共闘』という映画が公開された。三島由紀夫 = 憂国の士という共通認識を前提とした筋書きのようだ。
しかし当時(1969年)の共通認識は「ややこしい人がクビを突っ込んだな」である。
当時の三島由紀夫はボディービルディングに熱中したり、鍛えた裸を披露するために自分の映画や写真集を作ってみたりと、脇道にそれる活動が多く、作家としての存在感が薄らいでいた。
それどころかいい年したおじさんなのにUFO・超能力の探求にハマったり、ハタチそこそこの若者を誘って私兵部隊を結成したり(後に市ヶ谷駐屯地に突入した楯の会である)と、お騒がせキャラクターを確立していた。
つまりUFO・超能力に興味があり、自分の映画・写真集をつくり、若者を集めて軍事訓練を積ませている40過ぎのおじさんが、ソ連・マルクス主義の嵐が吹きすさぶ東大に入って論戦しようというのである。いくらなんでもツッコミどころが多すぎるよ。
当時は同性愛・天皇礼賛主義への偏見が強かったこともマイナスイメージを形成しており、三島由紀夫は"へんなおじさん"であった。
散々語られていることだが計画性がなさすぎる。拡声器すら用意していなかったとは…。
偉い人を人質にとって吠えれば自衛隊が動くと思ったのだろうか。組織とはそのような属人的なものではない。
ずさんな計画のわりに、割腹自殺の準備だけはキッチリしていたらしいが。
派手に割腹したかっただけでしょ。割と当たっていると思う。三島由紀夫がエッセイや映像インタビューで度々語っているお気に入りのエピソードに、終戦の日に夏の静かな日差しを見ていると自分は"生き残ってしまった、後に残されてしまった"という強い感覚を持ち、それ以来死に場所を探しているという話があり、その"死に場所"を選んだということなのだろう。
三島由紀夫はエッセイストとして優秀だとおもう。"高貴なる野蛮人たれ"という言葉を残した。上品で、教養があり、裕福な人間は一見洗練されているようではあるが、実は個性がなく退屈で、柔順で、脆弱な人間なのである種の誇り高き野蛮さを備えておくべきだという三島由紀夫の主張。この主張は私の人生の指針にもなってきた。
ただ文豪・憂国の士というのは過大評価であり、観念に引きこもるあまり最期は周りに迷惑をかけて死んだへんてこ作家、くらいが妥当な評価だと思う。